福翁自伝 / 王政維新・幕府の攘夷主義(5)
夫からモウ一つ私の身に就て云えば、少年の時から中津の藩を出て仕舞たので、所謂藩の役人らしい公用を勤めたことがない。夫れから前にも云う通り、江戸に来て徳川の政府に雇われたからと云た所が、是れは云わば筆執る飜訳の職人で、政治に与かろう訳けもない。只職人の積りで居るのだから、政治の考と云うものは少しもない。自分でも仕ようとも思わなければ、又私は出来ようとも思わない。仮令い又私が奮発して、幕府なり上方なり何でも都合の宜い方に飛出すとした処が、人の下流に就て仕事をすることは固より出来ず、中津藩の小士族で他人に侮辱軽蔑されたその不平不愉快は骨に徹して忘れられないから、今更ら他人に屈してお辞儀をするのは禁物である。左れば大に立身して所謂政治界の大人とならんか、是れも甚だ面白くない。前にも申した通り私は儀式の箱に入れられて小さくなるのを嫌う通りに、その通りに儀式張て横風な顔をして人を目下に見下だすことも亦甚だ嫌いである。例えば私は少年の時から人を呼棄にしたことがない。車夫、馬丁、人足、小商人の如き下等社会の者は別にして、苟も話の出来る人間らしい人に対して無礼な言葉を用いたことはない。青年書生は勿論、家内の子供を取扱うにもその名を呼棄にすることは出来ない。左る代りに政治社会の歴々とか何とか云う人を見ても何ともない。夫れも白髪の老人とでも云えば老人相応に待遇はすれども、その人の官爵が高いなんて高慢な風をすれば唯可笑しいばかりで、話をするのも面白くない。是れは私が持て生れた性質か、又は書生流儀の習慣か、老年の今日に至るまでも同じ事で、之を要するに如何しても青雲の雲の上には向きの悪い男であるから、維新前後にも独り別物になって居たことゝ、自分で自分の事を推察して居ます。ソレはソレとして、
新字:夫からモウ一つ私の身に就て云えば、少年の時から中津の藩を出て仕舞たので、所謂藩の役人らしい公用を勤めたことがない。夫れから前にも云う通り、江戸に来て徳川の政府に雇われたからと云た所が、是れは云わば筆執る翻訳の職人で、政治に与かろう訳けもない。只職人の積りで居るのだから、政治の考と云うものは少しもない。自分でも仕ようとも思わなければ、又私は出来ようとも思わない。仮令い又私が奮発して、幕府なり上方なり何でも都合の宜い方に飛出すとした処が、人の下流に就て仕事をすることは固より出来ず、中津藩の小士族で他人に侮辱軽蔑されたその不平不愉快は骨に徹して忘れられないから、今更ら他人に屈してお辞儀をするのは禁物である。左れば大に立身して所謂政治界の大人とならんか、是れも甚だ面白くない。前にも申した通り私は儀式の箱に入れられて小さくなるのを嫌う通りに、その通りに儀式張て横風な顔をして人を目下に見下だすことも亦甚だ嫌いである。例えば私は少年の時から人を呼棄にしたことがない。車夫、馬丁、人足、小商人の如き下等社会の者は別にして、苟も話の出来る人間らしい人に対して無礼な言葉を用いたことはない。青年書生は勿論、家内の子供を取扱うにもその名を呼棄にすることは出来ない。左る代りに政治社会の歴々とか何とか云う人を見ても何ともない。夫れも白髪の老人とでも云えば老人相応に待遇はすれども、その人の官爵が高いなんて高慢な風をすれば唯可笑しいばかりで、話をするのも面白くない。是れは私が持て生れた性質か、又は書生流儀の習慣か、老年の今日に至るまでも同じ事で、之を要するに如何しても青雲の雲の上には向きの悪い男であるから、維新前後にも独り別物になって居たことゝ、自分で自分の事を推察して居ます。ソレはソレとして、
書き下し
夫からモウ一つ私の身に就て云えば、少年の時から中津の藩を出て仕舞たので、所謂藩の役人らしい公用を勤めたことがない。夫れから前にも云う通り、江戸に来て徳川の政府に雇われたからと云た所が、是れは云わば筆執る飜訳の職人で、政治に与かろう訳けもない。只職人の積りで居るのだから、政治の考と云うものは少しもない。自分でも仕ようとも思わなければ、又私は出来ようとも思わない。仮令い又私が奮発して、幕府なり上方なり何でも都合の宜い方に飛出すとした処が、人の下流に就て仕事をすることは固より出来ず、中津藩の小士族で他人に侮辱軽蔑されたその不平不愉快は骨に徹して忘れられないから、今更ら他人に屈してお辞儀をするのは禁物である。左れば大に立身して所謂政治界の大人とならんか、是れも甚だ面白くない。前にも申した通り私は儀式の箱に入れられて小さくなるのを嫌う通りに、その通りに儀式張て横風な顔をして人を目下に見下だすことも亦甚だ嫌いである。例えば私は少年の時から人を呼棄にしたことがない。車夫、馬丁、人足、小商人の如き下等社会の者は別にして、苟も話の出来る人間らしい人に対して無礼な言葉を用いたことはない。青年書生は勿論、家内の子供を取扱うにもその名を呼棄にすることは出来ない。左る代りに政治社会の歴々とか何とか云う人を見ても何ともない。夫れも白髪の老人とでも云えば老人相応に待遇はすれども、その人の官爵が高いなんて高慢な風をすれば唯可笑しいばかりで、話をするのも面白くない。是れは私が持て生れた性質か、又は書生流儀の習慣か、老年の今日に至るまでも同じ事で、之を要するに如何しても青雲の雲の上には向きの悪い男であるから、維新前後にも独り別物になって居たことゝ、自分で自分の事を推察して居ます。ソレはソレとして、
現代語訳
それからもう一つ、私の身について言えば、少年の時に中津の藩を出てしまったので、いわゆる藩の役人らしい公用を勤めたことがありません。それから前にも言う通り、江戸に来て徳川の政府に雇われたといっても、これはいわば筆を執る翻訳の職人で、政治に関与するはずもありません。ただ職人のつもりでいるのですから、政治の考えというものは少しもありません。自分でもしようとも思わず、また私は、できようとも思いません。たとえまた私が奮発して、幕府なり上方なり、何でも都合のよいほうに飛び出すとしたところが、人の下に就いて仕事をすることはもとよりできず、中津藩の小士族で他人に侮辱軽蔑されたその不平不愉快は骨に徹して忘れられないから、今さら他人に屈してお辞儀をするのは禁物です。それなら大いに立身して、いわゆる政治界の大人物にならんか、これもはなはだ面白くありません。前にも申した通り、私は儀式の箱に入れられて小さくなるのを嫌うように、その通りに儀式張って横柄な顔をして人を見下すこともまた、はなはだ嫌いです。たとえば私は少年の時から人を呼び捨てにしたことがありません。車夫、馬丁、人足、小商人のような下等社会の者は別にして、いやしくも話のできる人間らしい人に対して、無礼な言葉を用いたことはありません。青年書生はもちろん、家内の子供を扱うにも、その名を呼び捨てにすることはできません。そのかわり、政治社会の歴々とか何とかいう人を見ても、何ともありません。それも白髪の老人とでもいえば老人相応に待遇はしますが、その人の官爵が高いなんて高慢な風をすれば、ただおかしいばかりで、話をするのも面白くない。これは私が持って生まれた性質か、または書生流儀の習慣か、老年の今日に至るまで同じことで、これを要するに、どうしても青雲の雲の上には向きの悪い男ですから、維新前後にも独り別物になっていたことと、自分で自分のことを推察しています。それはそれとして、
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・王政維新・本藩に対して功名心なし既に心に決定して居れば、藩に居て功名心と云うものは更らにない、立身出世して高い身分になって錦を故郷に着て人を驚かすと云うような野心は少しもないのみか、私にはその錦が却て恥かしくて着ることが出来ない。グヅ/″\云えば唯この藩を出て仕舞う丈けの事だと云うのが若い時からの考えで、人にこそ云わね、私の心では眼中藩なしと斯う安心を極めて居ましたので、夫れから長崎に行き大阪に出て修業して居るその中に、藩の御用で江戸に呼ばれて藩中の子弟を教うると云うことをして居ながらも、藩の政庁に対しては誠に淡泊で、長い歳月の間只の一度も建白なんと云うことをしたことはない。能く世間にある事で、イヤどうも藩政を改革して洋学を盛にするが宜いとか、兵制を改革するが宜いとか云うことは書生の能く遣ることだ、けれども私に限り只の一度も云出したことがない。ソレと同時に自分の立身出世を藩に向て求めたことがない。ドウ云うように身分を取立てゝ貰いたい、ドウ云うようにして禄を増して貰いたいと云うような事は、陰にも陽にもどんな事があっても藩の長老に内願などしたことがない。ソコで江戸に参てからも、本藩の様子を見れば種々な事を試みて居る。兵制で申せば西洋流の操練を採用したことがある。けれども私はソレを宜いと云て誉めもしなければ悪いと云て止めたこともなし、又或は大に漢学を盛にすると云て頻りに学校の改革などを企てたこともある。或は兵制は甲州流が宜いと云て法螺の貝を吹て藩中で調練をしたこともある。ソレも私は只目前に見て居るばかりで、善いとも悪いとも一寸とも云たことがない。或時に家老の隠居があって、大層政治論の好きな人で、私が家老の家に行たらば、その隠居が、ドウも公武の間が甚だ穏かでない、全体どうも近衛様が爾うも有りそうもない事だとか、或は江戸の御老中が詰らないとか云うような慷慨談を頻りに云て居る。爾う云われると私も何か云いそうな事だ、所が私は決して云わない。如何にも爾うでしょう、ソリャ成程近衛様も爾うだろう、御老中も爾うだろうが、扨ソレが実地になると傍観者の思うようにはならぬもので、近くはこの奥平様の屋敷でも、マダして宜いこともあるだろう、為なくて宜いこともあるだろう、傍観者から之を見たらば嘸堪え難いことに思うでありましょうけれども、当局の御家老の身になって見れば又爾う思う通りに行かないもので、矢張り今の通りより外に仕様がない。余り人の事を批評しても詰らぬ事です。私は一体そんな事に就ては何を議論しようとも思わぬと云て、少しも相手にならなかった。
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福翁自伝・老余の半生・仕官を嫌う由縁私の生涯は終始替ることなく、少年時代の辛苦、老後の安楽、何も珍らしいことはない。今の世界に人間普通の苦楽を嘗めて、今日に至るまで大に愧ることもなく大に後悔することもなく、心静に月日を送りしは、先ず以て身の仕合せと云わねばならぬ。所で世間は広し、私の苦楽を遠方から見て色々に評論し色々に疑う者もありましょう。就中私がマンザラの馬鹿でもなく政治の事も随分知て居ながら、遂に政府の役人にならぬと云うは可笑しい、日本社会の十人は十人、百人は百人、皆立身出世を求めて役人にこそなりたがるその処に、福澤が一人これをいやがるのは不審だと、蔭で窃に評論する計りでない、現に直接に私に向て質問する者もある。啻に日本人ばかりでない、知己の外国人も私の進退を疑い、何故政府に出て仕事をせぬか、政府の好地位に立て思う事を行えば、名誉にも為り金にも為り、面白いではないかと、米国人などは毎度勧めに来たことがあるけれども、私は唯笑て取合わぬ。ソコで維新の当分は政府の連中が私を評して佐幕家の一人と認め、彼れは旧幕府に操を立てゝ新政府に仕官せぬ者である、将軍政治を悦んで王政を嫌う者である、古来、革命の歴史に前朝の遺臣と云う者があるが、福澤もその遺臣を気取て、物外に瓢然として居ながら心中無限の不平を抱いて居るに違いない、心に不平があれば新政府の為めに宜いことは考えない、油断のならぬ奴だなんて、種々様々な想像を運らして居る者の多いのは、私も大抵知て居る。所が斯く評せらるゝ前朝の遺臣殿は、久しい以前から前朝の門閥制度、鎖国主義に愛想をつかして、維新の際に幕府の忠臣義士が盛んに忠義論を論じて佐幕の気焔を吐て脱走までする時に、私は強て議論もせず、脱走連中に知て居る者があれば、余計な事をするな、負けるから罷にしろと云て止めて居た位だから、福澤を評するに前朝の遺臣論も勘定が合わぬ。前朝の遺臣と云えば維新の時に幕府の忠臣義士こそ丁度適当の嵌役なれども、この忠臣義士は前朝に忠義の一役を勤めて何時の間にか早替り、第二の忠義役を勤めて第二の忠臣義士となって居るから、是れも遺臣と云われぬ。その遺臣論は姑く擱き、私の身の進退は、前に申す通り、維新の際に幕府の門閥制度、鎖国主義が腹の底から嫌だから佐幕の気がない。左ればとて勤王家の挙動を見れば、幕府に較べてお釣りの出る程の鎖国攘夷、固よりコンな連中に加勢しようと思いも寄らず、唯ジッと中立独立と説を極めて居ると、今度の新政府は開国に豹変した様子で立派な命令は出たけれども、開国の名義中、鎖攘タップリ、何が何やら少しも信ずるに足らず、東西南北何れを見ても共に語るべき人は一人もなし、唯独りで身に叶う丈けの事を勤めて開国一偏、西洋文明の一天張りでリキンで居る内に、政府の開国論が次第々々に真成のものになって来て、一切万事改進ならざるはなし、所謂文明駸々乎として進歩するの世の中になったこそ実に有り難い仕合せで、実に不思議な事で、云わば私の大願も成就したようなものだから、最早や一点の不平は云われない。
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福翁自伝・老余の半生・問題更らに起るソコで私の身の進退に就ても更らに問題が起る。是れまで新政府に出身しなかったのは、政府が鎖国攘夷の主義であるから之を嫌うたのだ、仮令い開国と触出してもその内実は鎖攘の根性、信ずるに足らずと見縊たのである、然るに政府の方針がいよ/\開国文明と決して着々事実に顕わるゝに於ては、官界に力を尽して政府人と共に文明の国事を経営するこそ本意ではないかと世間の人の思うのは、一寸と尤ものように見えるが、この一段になってもマダ私に動く気がない。
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福翁自伝・老余の半生・殻威張の群に入るべからず従前曾て人に語らず、又語る必要もないから黙て居て、内の妻子も本当に知りますまいが、私の本心に於て何としても仕官が出来られないその真面目を丸出しに申せば、第一、政府がその方針を開国文明と決定して大に国事を改革すると同時に、役人達が国民に対して無暗に威張る、その威張るのも行政上の威厳と云えば自から理由もあるが、実際は爾うでない、唯殻威張をして喜んで居る。例えば位記などは王政維新、文明の政治と共に罷めそうなことを罷めずに、人間の身に妙な金箔を着けるような事をして、日本国中いらざる処に上下貴賤の区別を立てゝ、役人と人民と人種の違うような細工をして居る。既に政府が貴いと云えば政府に入る人も自然に貴くなる、貴くなれば自然に威張るようになる、その威張りは即ち殻威張で、誠に宜しくないと知りながら、何も蚊も自然の勢で、役人の仲間になれば何時の間にか共に殻威張を遣るように成り行く。然かのみならず、自分より下に向て威張れば上に向ては威張られる。鼬こっこ鼠こっこ、実に馬鹿らしくて面白くない。政府に這入りさえせねば馬鹿者の威張るのを唯見物して唯笑て居る計りなれども、今の日本の風潮で、役人の仲間になれば、仮令い最上の好地位に居ても兎に角に殻威張と名づくる醜体を犯さねばならぬ。是れが私の性質に於て出来ない。
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福翁自伝・老余の半生・独立の手本を示さんとす(2)右の通り条目を並べて第一から第四まで述立てゝ見れば、私の政府に出ないのは初めからチャンと理窟を定めて箇様々々と自から自分を束縛してあるように見えるが、実はソレホド窮窟な訳けではない、ソレホド六かしい事でもない。唯今日これを筆記して人に分るようにしようとするには、話に順序がなくては叶わぬ。ソコで久しい前年から今日に至るまで、物に触れ事に当り、人と談論した事などを思出して、彼の時はアヽであった、この時は斯うであったと、記憶中に往来するものを取集めて見ると、前に記した通りになる。詰る所、私は政治の事を軽く見て熱心でないのが政界に近づかぬ原因でしょう。喩えば人の性質に下戸上戸があって、下戸は酒屋に入らず上戸は餅屋に近づかぬと云う位のもので、政府が酒屋なら私は政事の下戸でしょう。
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福翁自伝・王政維新・洋行船中の談話夫れでも私に全く政治思想のないではない。例えば文久二年欧行の船中で松木弘安と箕作秋坪と私と三人、色々日本の時勢論を論じて、その時私が「ドウだ迚も幕府の一手持は六かしい、先ず諸大名を集めて独逸聯邦のようにしては如何と云うに、松木も箕作も、マアそんな事が穏かだろうと云う。夫れから段々身の上話に及んで、今日吾々共の思う通りを云えば、正米を年に二百俵貰うて親玉(将軍の事)の御師匠番になって、思う様に文明開国の説を吹込んで大変革をさして見たいと云うと、松木が手を拍て、左様だ/\、是れは遣て見たいと云たのは、松木の功名心もその時には二百俵の米を貰うて将軍に文明説を吹込むぐらいの事で、当時の洋学者の考は大抵皆大同小異、一身の為めに大きな事は考えない。後にその松木が寺島宗則となって、参議とか外務卿とか云う実際の国事に当たのは、実は本人の柄に於て商売違いであったと思います。 夫れは扨置き世の中の形勢を見れば、天下の浮浪即ち有志者は京都に集て居る。夫れから江戸の方では又幕府と云うものが勿論時の政府でリキンで居ると云う訳けで、日本の政治が東西二派に相分れて、勤王佐幕と云う二派の名が出来た。出来た所で、サア其処に至て私が如何するかと云うに、 第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国士族が極々嫌いで之に力を尽す気はない。 第二、左ればとて彼の勤王家と云う一類を見れば、幕府より尚お一層甚だしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気は固よりない。 第三、東西二派の理非曲直は姑く扨置き、男子が所謂宿昔青雲の志を達するは乱世に在り、勤王でも佐幕でも試みに当て砕けると云うが書生の事であるが、私にはその性質習慣がない。 今その次第を語りましょう。抑も私が始めて江戸に来た時からして幕府の人には感服しない。一寸と旗本御家人に出遇う所が、応接振りは上品で、田舎者と違い弁舌も好く行儀も立派であるが、何分にも外辺ばかりで、物事を微密に考える脳力もなければ又腕力も弱そうに見える、けれども先方は幕府の御直参、此方は又る影もない陪臣だから手の着けようもなく、旗本などに対してはその人の居ない処でも何様々々と尊敬して居るその塩梅式は、京都の御公卿様を取扱うように、唯見た所ばかりを丁寧にして心の中では見縊り抜て居た。
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