福翁自伝 / 幼少の時・門閥制度は親の敵・年十四、五歳にして始めて読書に志す
如斯なことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児の行末を謀り、之を坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私の為めに門閥制度は親の敵で御座る。 私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。所が誰も世話の為人がない。私の兄だからと云て兄弟の長少僅か十一しか違わぬので、その間は皆女の子、母も亦たった一人で、下女下男を置くと云うことの出来る家ではなし、母が一人で飯を焚いたりお菜を拵えたりして五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じ掛もない。云わばヤリ放しである。藩の風で幼少の時から論語を続むとか大学を読む位の事は遣らぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。殊に誰だって本を読むことの好な子供はない。私一人本が嫌いと云うこともなかろう、天下の小供みな嫌いだろう。私は甚だ嫌いであったから休でばかり居て何もしない。手習もしなければ本も読まない。根っから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、近処に知て居る者は皆な本を読で居るのに、自分独り読まぬと云うのは外聞が悪いとか恥かしいとか思たのでしょう。夫れから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行始めました。どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。外の者は詩経を読むの書経を読むのと云うのに、私は孟子の素読をすると云う次第である。所が茲に奇な事は、その塾で蒙求とか孟子とか論語とかの会読講義をすると云うことになると、私は天禀、少し文才があったのか知らん、能く其の意味を解して、朝の素読に教えて呉れた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読む許りでその意味は受取の悪い書生だから、之を相手に会読の勝敗なら訳けはない。
書き下し
如斯なことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児の行末を謀り、之を坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私の為めに門閥制度は親の敵で御座る。 私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。所が誰も世話の為人がない。私の兄だからと云て兄弟の長少僅か十一しか違わぬので、その間は皆女の子、母も亦たった一人で、下女下男を置くと云うことの出来る家ではなし、母が一人で飯を焚いたりお菜を拵えたりして五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じ掛もない。云わばヤリ放しである。藩の風で幼少の時から論語を続むとか大学を読む位の事は遣らぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。殊に誰だって本を読むことの好な子供はない。私一人本が嫌いと云うこともなかろう、天下の小供みな嫌いだろう。私は甚だ嫌いであったから休でばかり居て何もしない。手習もしなければ本も読まない。根っから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、近処に知て居る者は皆な本を読で居るのに、自分独り読まぬと云うのは外聞が悪いとか恥かしいとか思たのでしょう。夫れから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行始めました。どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。外の者は詩経を読むの書経を読むのと云うのに、私は孟子の素読をすると云う次第である。所が茲に奇な事は、その塾で蒙求とか孟子とか論語とかの会読講義をすると云うことになると、私は天禀、少し文才があったのか知らん、能く其の意味を解して、朝の素読に教えて呉れた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読む許りでその意味は受取の悪い書生だから、之を相手に会読の勝敗なら訳けはない。
現代語訳
こうしたことを思えば、父の生涯、四十五年の間、封建制度に縛られて何事もできず、むなしく不満をのんで世を去ったことこそ、遺憾です。また生まれたばかりの子の行く末を考え、これを坊主にしてでも名を成させようとまで決心したその心中の苦しさ、その愛情の深さを、私はたびたびこのことを思い出し、封建の門閥制度を憤ると同時に、亡父の心事を察して、ひとり泣くことがあります。私にとって門閥制度は親の敵でございます。 私は坊主になりませんでした。坊主にならずに家にいたのですから、学問をするはずです。ところが誰も世話をする人がいません。私の兄といっても、兄弟の年の差はわずか十一しか違わず、その間はみな女の子、母もまたたった一人で、下女下男を置くことのできる家ではなく、母が一人でご飯を炊いたりおかずを作ったりして五人の子供の世話をしなければならないので、教育の世話などは考えも及びません。いわば放りっぱなしです。藩の風習で、幼少のときから論語を読むとか大学を読むくらいのことはやらないわけではないけれども、奨励する人は一人もいない。とくに誰だって本を読むことの好きな子供はいません。私一人が本嫌いということもなかろう、天下の子供はみな嫌いでしょう。私はたいへん嫌いでしたから、休んでばかりいて何もしない。手習いもしなければ本も読まない。まったく何もせずにいたところ、十四か十五になってみると、近所に知っている者はみな本を読んでいるのに、自分ひとり読まないというのは外聞が悪いとか恥ずかしいとか思ったのでしょう。それから自分で本気で読む気になって、田舎の塾へ通い始めました。どうも十四、五になって初めて学ぶのですから、たいへんきまりが悪い。ほかの者は詩経を読むの書経を読むのというのに、私は孟子の素読をするという次第です。ところがここに不思議なことがあって、その塾で蒙求とか孟子とか論語とかの会読や講義をするということになると、私は生まれつき少し文才があったのでしょうか、よくその意味を理解して、朝の素読に教えてくれた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読むばかりで意味の受け取りが悪い書生ですから、これを相手に会読の勝敗を争うなら簡単なことです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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福翁自伝・幼少の時・儒教主義の教育夫れから最う一つ之に加えると、私の父は学者であった。普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛もなく算盤を執て金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯う云うことがある。私は勿論幼少だから手習どころの話でないが、最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷の中に手習の師匠があって、其家には町家の小供も来る。其処でイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、その事を父が聞て、怪しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯う云う処に小供は遣て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました。何でも大変喧ましい人物であったことは推察が出来る。その書遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心、屋漏に愧じずということ許り心掛たものと思われるから、その遺風は自から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合は少く、明ても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思て、骨肉の従兄弟に対してさえ、心の中には何となく之を目下に見下して居て、夫等の者のすることは一切咎もせぬ、多勢に無勢、咎立をしようと云ても及ぶ話でないと諦らめて居ながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、云わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛び廻わり刎ね廻わりして、至極活溌にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬと云うのも、兎角同藩中の子弟と打解けて遊ぶことが出来ずに孤立した所為でしょう。
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福翁自伝・幼少の時・門閥の不平ソレカラ私が幼少の時から中津に居て、始終不平で堪らぬと云うのは無理でない。一体中津の藩風と云うものは、士族の間に門閥制度がチャンと定まって居て、その門閥の堅い事は啻に藩の公用に就てのみならず、今日私の交際上、小供の交際に至るまで、貴賤上下の区別を成して、上士族の子弟が私の家のような下士族の者に向ては丸で言葉が違う。私などが上士族に対して、アナタが如何なすって、斯うなすってと云えば、先方では貴様が爾う為やって、斯う為やれと云うような風で、万事その通りで、何でもない只小供の戯れの遊びにも門閥が付て廻るから、如何しても不平がなくては居られない。その癖今の貴様とか何とか云う上士族の子弟と学校に行て、読書会読と云うような事になれば、何時でも此方が勝つ。学問ばかりでない、腕力でも負けはしない。夫れがその交際、朋友互に交って遊ぶ小供遊の間にも、ちゃんと門閥と云うものを持て横風至極だから、小供心に腹が立て堪らぬ。
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福翁自伝・幼少の時・成長の上、坊主にする前申す通り、亡父は俗吏を勤めるのが不本意であったに違いない。左れば中津を蹴飛して外に出れば宜い。所が決してソンナ気はなかった様子だ。如何なる事にも不平を呑んで、チャント小禄に安んじて居たのは、時勢の為めに進退不自由なりし故でしょう。私は今でも独り気の毒で残念に思います。例えば父の生前に斯う云う事がある。今から推察すれば父の胸算に、福澤の家は総領に相続させる積りで宜しい、所が子供の五人目に私が生れた、その生れた時は大きな療せた骨太な子で、産婆の申すに、この子は乳さえ沢山呑ませれば必ず見事に育つと云うのを聞て、父が大層喜んで、是れは好い子だ、この子が段々成長して十か十一になれば寺に遣て坊主にすると、毎度母に語ったそうです。その事を母が又私に話して、アノ時阿父さんは何故坊主にすると仰っしゃったか合点が行かぬが、今御存命なればお前は寺の坊様になってる筈じゃと、何かの話の端には母が爾う申して居ましたが、私が成年の後その父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立て居て、何百年経ても一寸とも動かぬと云う有様、家老の家に生れた者は家老になり、足軽の家に生れた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まって居る者も同様、何年経ても一寸とも変化と云うものがない。ソコデ私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲に坊主と云うものが一つある、何でもない魚屋の息子が大僧正になったと云うような者が幾人もある話、それゆえに父が私を坊主にすると云たのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。
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福翁自伝・王政維新・維新の際に一身の進退素と私は小士族の家に生れ、その頃は封建時代の事で日本国中何れも同様、藩の制度は守旧一偏の有様で、藩士銘々の分限がチャント定まって、上士は上士、下士は下士と、箱に入れたようにして、その間に少しも融通があられない。ソコで上士族の家に生れた物は親も上士族であれば子も上士族、百年経てもその分限は変らない。従て小士族の家に生れた者は、自から上流士族の者から常に軽蔑を受ける。人々の智愚賢不肖に拘わらず、上士は下士を目下に見下すと云う風が専ら行われて、私は少年の時からソレに就て如何にも不平で堪らない。
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福翁自伝・品行家風・不風流の由来元来私は生れ付き殺風景でもあるまい、人間の天性に必ず無芸殺風景と約束があるでもなかろうと思うが、何分私の性質と云うよりも少年の時から様々の事情がコンな男にして仕舞たのでしょう。先ず第一に私は幼少の時から教育の世話をして呉れる者がないので、ロクに手習をせずに成長したから、今でも書が出来ない。成長の後でも自分で手本を習たら宜さそうなものだが、その時は既に洋学の門に入て天下の儒者流を目の敵にして、儒者のすることなら一から十まで皆気に入らぬ、就中その行状が好かない。口に仁義忠孝など饒舌りながら、サアと云うときには夫れ程に意気地はない。殊に不品行で酒を飲で詩を作て書が旨いと云えば評判が宜い。都て気に喰わぬ。よし/\洋学流の吾々は反対に出掛けて遣ろうと云う気になって、恰も江戸の剣術全盛の時代に刀剣を売払て仕舞い、兼て嗜きな居合も罷めて知らぬ風をして居たような塩梅式に、儒者の奴等が詩を作ると云えば此方は態と作らずに見せよう、奴等が書を善くすると云えば此方は殊更らに等閑にして善く書かずに見せようと、飛だ処に力身込で手習をしなかったのが生涯の失策。私の家の遺伝を云えば、父も兄も文人で、殊に兄は書も善くし、画も出来、篆刻も出来る程の多芸な人に、その弟はこの通りな無芸無能、書画は扨置き骨董も美術品も一切無頓着、住居の家も大工任せ、庭園の木石も植木屋次第、衣服の流行など何が何やら少しも知らず又知ろうとも思わず、唯人の着せて呉れるものを着て居る。或時家内の留守に急用が出来て外出のとき、着物を着替えようと思い、箪笥の引出しを明けて一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着て居るのを見て、ソレは下着だと云て大に笑われたことがある。殺風景も些と念入の殺風景で、決して誉めた話でない。畢竟少年の時から種々様々の事情に逐われてコンな事に成行き、生涯これで終るのでしょう。兎角世間の人の悦んで居るような事は、私には楽みにならぬ、誠に損な性分です。ダカラ近来は芝居を見物したり、又は宅に芸人など呼ぶこともあるが、是れとて無上の快楽事とも思われず、マア/\児孫を集めて共に戯れ、色々な芸をさせたり嗜きな物を馳走したりして、一家内の長少睦しく互に打解けて談り笑うその談笑の声を一種の音楽として、老余の楽みにして居ます。
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福翁自伝・王政維新・門閥の人を悪まずしてその悪習を悪む所がその不平の極は、人から侮辱されるその侮辱の事柄を悪み、遂には人を忘れて唯その事柄を見苦しきことゝ思い、門閥の故を以て漫に威張るは男子の愧ずべき事である、見苦しきことであると云う観念を生じ、例えば上士下士相対して上士が横風である、私は之を見てその上士の傲慢無礼を憤ると同時に、心の中では思直して、この馬鹿者めが、何も知らずに夢中に威張て居る、見苦しい奴だと却て気の毒に思うて、心中却て此方から軽蔑して居ました。私がその時老成人であるか又は仏者であったら、人道世教の為めに如何とか、又は平等を愛して差別を排するとか何とか云う説もあろうが、十歳以上十九か二十歳の少年にそんな六かしい奥ゆかしい考のあるべき筈はない。唯人間の殻威張は見苦しいものだ、威張る奴は恥知らずの馬鹿だとばかり思て居たから、夫れゆえ藩中に居て人に軽蔑されても侮辱されても、その立腹を他に移して他人を辱かしめると云うことはドウしても出来ない。例えば私が小士族の身分で上流に対しては小さくなって居なければならぬけれども、順を云えば又私より以下の者が幾らもあるから、その以下の者に向て自分が軽蔑された丈けソレ丈け軽蔑して遣れば、所謂江戸の敵を長崎で討て、勘定の立つようなものだが、ソレが出来ない。出来ない所ではない、その反対に私は下の方に向て大変丁寧にして居ました。
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