福翁自伝 / 品行家風・妻を娶て九子を生む
ソレから私方の家事家風を語りましょう。文久元年、旧同藩士の媒妁を以て同藩士族江戸定府土岐太郎八の次女を娶り、是れが今の老妻です。結婚の時私は二十八歳、妻は十七歳、藩制の身分を申せば妻の方は上流士族、私は小士族、少し不釣合のようにあるが、血統は両人共頗る宜しく、往古はイザ知らず、凡そ五世以降双方の家に遺伝病質もなければ忌むべき病に罹りたる先人もなし。妻は無論、私の身に悪疾のあるべきようもなく、夫妻無病。文久三年に生れたのが一太郎、その次は捨次郎と、次第に誕生して四男五女、合して九人の子供になり、幸にして九人とも生れたまゝ皆無事で一人も欠けない。九人の内五人までは母の乳で養い、以下四人は多産の母の身体衛生の為めに乳母を雇うて育てました。
書き下し
ソレから私方の家事家風を語りましょう。文久元年、旧同藩士の媒妁を以て同藩士族江戸定府土岐太郎八の次女を娶り、是れが今の老妻です。結婚の時私は二十八歳、妻は十七歳、藩制の身分を申せば妻の方は上流士族、私は小士族、少し不釣合のようにあるが、血統は両人共頗る宜しく、往古はイザ知らず、凡そ五世以降双方の家に遺伝病質もなければ忌むべき病に罹りたる先人もなし。妻は無論、私の身に悪疾のあるべきようもなく、夫妻無病。文久三年に生れたのが一太郎、その次は捨次郎と、次第に誕生して四男五女、合して九人の子供になり、幸にして九人とも生れたまゝ皆無事で一人も欠けない。九人の内五人までは母の乳で養い、以下四人は多産の母の身体衛生の為めに乳母を雇うて育てました。
現代語訳
それから私の家の家事や家風を語りましょう。文久元年、旧同藩士の媒酌で、同藩の士族で江戸定府の土岐太郎八の次女を娶りました。これが今の老妻です。結婚の時、私は二十八歳、妻は十七歳、藩制の身分で言えば、妻の方は上流士族、私は小士族で、少し不釣り合いのようですが、血統は両人ともたいへんよく、往古はいざ知らず、およそ五世以降、双方の家に遺伝病質もなければ忌むべき病にかかった先人もなく、妻はもちろん私の身にも悪疾のあるはずもなく、夫婦ともに無病です。文久三年に生まれたのが一太郎、その次は捨次郎と、次第に誕生して四男五女、合わせて九人の子供になり、幸いにして九人とも生まれたままみな無事で一人も欠けません。九人のうち五人までは母の乳で養い、以下四人は多産の母の身体の衛生のために乳母を雇って育てました。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・品行家風・家に秘密事なし・礼儀足らざるが如し又家の中に秘密事なしと云うのが私方の家風で夫婦親子の間に隠す事はない、ドンな事でも云われないことはない。子供が段々成長して、是れは彼の子に話して此の子には内証なんて、ソンな事は絶えてない。親が子供の不行届を咎めて遣れば、子供も亦親の失策を笑うと云うような次第で、古風な目を以て見ると一寸と尊卑の礼儀がないように見えましょう。 その礼儀の事に就て申せば、家の主人が出入するとき家内の者が玄関まで送迎して御辞儀をすると云うような事が能く世間にあるが、私の処では絶えてソンな事がない。私の外出するには玄関からも出れば台所からも出る。帰るときもその通りで唯足の向た方に這入て来る。或は車に乗て帰て来た時に、車夫又別当共へ、玄関の処で御帰りなんて余計な事を云て呉れるな、と云う訳けであるから、幾ら玄関で怒鳴ても出て来る人はない。その一点になると世間の人じゃない近くは内の御祖母さんが怪んで居ましょう。この老人は土岐家の後室、本年七十七歳、むかしは奥平藩士の奥様で、武家の礼儀作法を大事に勤めた身であるから、今日の福澤の家風を見て、何分不作法で善くない、左ればとて是れが悪いと云う箇条もない、妙な事だと思て居るだろうと、私は窃に推察します。
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福翁自伝・品行家風・子供の活動を妨げず養育法は着物よりも食物の方に心を用い、粗服はさせても滋養物は屹と与えるようにして、九人とも幼少の時から体養に不足はない。又その躾方は温和と活溌とを旨とし、大抵の処までは子供の自由に任せる。例えば風呂の湯を熱くして無理に入れるような事はせず、据風呂の側に大きな水桶を置て、子供の勝手次第に、ぬるくも熱くもさせる。全く自由自在のようなれども、左ればとて食物を勝手に任せて何品でも喰い次第にすると云う訳けではない。又子供の身体の活溌を祈れば室内の装飾などは迚も手に及ばぬ事と覚悟して、障子唐紙を破り諸道具に疵付けても先ず見逃がしにして、大抵な乱暴には大きな声をして叱ることはない。酷く剛情を張るような事があれば、父母の顔色を六かしくして睨む位が頂上で、如何なる場合にも手を下して打たことは一度もない。又親が実子に向ても嫁に接しても、又兄姉が弟妹に対しても名を呼棄にせず、家の中に厳父慈母の区別なく、厳と云えば父母共に厳なり、慈と云えば父母共に慈なり、一家の中は丸で朋友のようで、今でも小さい孫などは、阿母さんはどうかすると怖いけれども、お祖父さんが一番怖くないと云て居る。世間並にすると少し甘いように見えるが、ソレでも私方の孫子に限て別段に我儘でもなし、長少戯れながら長者の真面目に言う事は能く聞て逆う者もないから、余り厳重にせぬ方が利益かと思われる。
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福翁自伝・品行家風・子女の間に軽重なしソレから又私に九人の子供があるが、その九人の中に軽重愛憎と云うことは真実一寸ともない。又四男五女のその男の子と女の子と違いのあられよう訳けもない。世間では男子が生れると大造目出度がり、女の子でも無病なれば先ず/\目出度いなんて、自から軽重があるようだが、コンな馬鹿気た事はない。娘の子なれば何が悪いか、私は九人の子がみんな娘だって少しも残念と思わぬ。唯今日では男の子が四人、女の子が五人、宜い塩梅に振分けになってると思うばかり、男女長少、腹の底から之を愛して兎の毛ほども分隔てはない。道徳学者は動もすると世界中の人を相手にして一視同仁なんて大きな事を云てるではないか。況して自分の生んだ子供の取扱いに、一視同仁が出来ぬと云うような浅ましい事があられるものか。唯私の考に、総領もその他の子供も同じとは云いながら、私が死ねば総領が相続する、相続すれば自から中心になるから、財産を分配するにも、外の子に比較して一段手厚くして、又何か物があって、兄弟中誰にも遣りようがない、唯一つしかないと云うような物は、総領の一太郎が取て宜かろうと云うくらいな事で、その外には何も変ることはない。例えば斯う云う事がある。明治十四、五年の頃、月日は忘れたが、私が日本橋の知る人の家に行て見ると、その座敷に金屏風だの蒔絵だの花活だのゴテ/\一杯に列べてある。コリャ何だと聞て見れば、亜米利加に輸出する品だと云う。夫れから私が不図した出来心で、この品を一目見渡して私の欲しいものは一品でもない、皆不用品だが、又入用と云えば一品も残さず皆入用だ、兎に角に之を亜米利加に積出して幾らの金になれば宜いのかソレは知らぬけれども、売ると云えば皆買うが如何だ、買たからと云てソレを又儲けて売ろうと云うのではない、家に仕舞込んで置くのだと云うと、その主人も唯の素町人でない、成程爾うだな、コリャ名古屋から来た物であるが、亜米利加に遣て仕舞えば是れ丈けの品がなくなる、お前さんの処に遣れば失くならずにあるから売りましょう、ソンなら皆買うと云て、二千二、三百円かで、何百品あるか碌に品も見ないで皆買て仕舞たが、夫れから私がその品を見て楽むではなし、品柄も能く知らず数も覚えず、唯邪魔になるばかりだから、五、六年前の事でした、九人の小供に分けて取て仕舞えと申して、小供がワイ/\寄て、その品を九に分けて、ソレを籤で取て、今では皆小供が銘々に引受けて、家を持て居る者は家に持て行く者もあり、マダ私のところの土蔵の中に入れてあるのもある、と云うのが凡そ私の財産分配法で、如何にもその子に厚薄と云うものは一寸ともないのですから、小供の中に不平があろうたッて有られた訳けのものでないと思て居ます。
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福翁自伝・品行家風・子女幼時の記事又私の考に、人間は成長して後に自分の幼年の時の有様を知りたいもので、他人はイザ知らず私が自分で左様思うから、筆まめな事だが私は小供の生立の模様を書て置きました。この子は何年何月何日何分に産れ、産の難易は云々、幼少の時の健康は斯く/\、気質の強弱、生付きの癖など、ザッと荒増し記してあれば、幼少の時の写真を見ると同様、この書たものを見れば成長の後、第一面白いに違いない、自から又心得になる事もありましょう。私などは不幸にして実父の面も知らず、画像に写したものもなし、又私がドンな子供であったか母に聞たばかりで書たものはない。少年の時から長老の人がソンな話をすると耳を傾けて聞て、唯残念にばかり思うて、独り身の不幸を悲んで居たから、今度は私の番になってこの通りに自分の伝を記して子供の為めにし、又先年小供の生立の事をも認めて置たから先ず遺憾はない積りです。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・他人に私事を語らず私が経済上に堅固を守て臆病で大胆な事の出来ないのは、先天の性質であるか、抑も亦身の境遇に駈られて遂に堅く凝り固まったものでしょう。本年六十五歳になりますが、二十一歳のとき家を去て以来、自から一身の謀を為し、二十三歳、家兄を喪いしより後は、老母と姪と二人の身の上を引受け、二十八歳にして妻を娶り子を生み、一家の責任を自分一身に担うて、今年に至るまで四十五年のその間、二十三歳の冬大阪緒方先生に身の貧困を訴えて大恩に浴したるのみ、その他は仮初にも身事家事の私を他人に相談したこともなければ又依頼したこともない。人の智恵を借りようとも思わず、人の差図を受けようとも思わず、人間万事天運に在りと覚悟して、勉めることは飽くまでも根気能く勉めて、種々様々の方便を運らし、交際を広くして愛憎の念を絶ち、人に勧め又人の同意を求めるなどは十人並に遣りながら、ソレでも思う事の叶わぬときは、尚おそれ以上に進んで哀願はしない、唯元に立戻て独り静に思止るのみ。詰る所、他人の熱に依らぬと云うのが私の本願で、この一義は私が何時発起したやら、自分にも是れと云う覚えはないが、少年の時からソンな心掛け、イヤ心掛けと云うよりもソンな癖があったと思われます。
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福翁自伝・幼少の時福澤諭吉の父は豊前中津奥平藩の士族福澤百助、母は同藩士族、橋本浜右衛門の長女、名を於順と申し、父の身分はヤット藩主に定式の謁見が出来ると云うのですから足軽よりは数等宜しいけれども士族中の下級、今日で云えば先ず判任官の家でしょう。藩で云う元締役を勤めて大阪にある中津藩の倉屋敷に長く勤番して居ました。夫れゆえ家内残らず大阪に引越して居て、私共は皆大阪で生れたのです。兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三人、私は末子。私の生れたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡に遺るは母一人に子供五人、兄は十一歳、私は数え年で三つ。斯くなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。
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