福翁自伝 / 雑記・独立敢て新事例を開く(5)
サア今藩主に話をして来たがドウだ。藩主は大参事次第だと確かに申された。然らば則ち生殺はお前さんの手中にある、殺す気か、殺さぬ気か。仮しや殺す積りで捜し出そうと云ても決して出る気遣いはない。私はちゃんと居処を知て居る、捜せるなら試みに捜して見るが宜い、捕縛すると云うなら私の力の有らん限り隠蔽して見せよう、出来るだけ摘発して見なさい、何時まで経ても無益だ。そんな事をして人を苦しめないでも宜いだろうと、裏表から色々話すと、大参事にも言葉がない。いよ/\助ける、助けるけれども薩州辺りから何とか口を添えて呉れると都合が宜いなんて又弱い事を云うから、宜しいと云い棄てゝ、夫れから私は薩州の屋敷に行て、斯う/\云う次第柄だから助けて遣て呉れぬかと云うと、大藩とか強藩とか云うので口を出すのは実は迷惑な話だが、何も六かしい事はない、宮内省に弁事と云うものがあるから、その者に就て政府の内意を聞て上げるからと云て、薩摩の公用人が政府の内意を聞て、私の処に報知して呉れたには、兎も角も自訴させるが宜しい、自訴すれば八十日の禁錮ですっかり罪は滅びて仕舞うと云うことが分た。夫れから念の為め私は又仙台の屋敷に行て大参事に面会して、政府の方は自訴すれば八十日と極て居るが、之にお負けが付きはしないか、自訴と云えばこの屋敷に自訴するのであるが、この屋敷で本藩の私を以て八十日を八年にして遣ろうなんと云うお負けを遣りはしないか、ソレを確かに約束しなければ玉は出されないと、念に念を入れて問答を重ね、最後には若し違約すれば復讐するとまで脅迫して、いよ/\大丈夫と安心して、ソレからその翌日両人を連れて日比谷の屋敷に行た、所が屋敷の役所見たような処には罪人、大童、松倉の旧時の属官ばかりが列んで居るだろう、罪人の方が余程エライ、オイ貴様はドウして居るのだと云うような調子で、私は側から見て可笑しかった。夫れから宇田川町の仙台屋敷の長屋の二階に八十日居て、ソレで事が済んで、ソレから二人は晴天白日、外を歩くようになって、その後は今日に至るまでも旧の通りに交際して互に文通して居ます。生涯変らぬ事でしょう。只この事たるや仙台藩の無気力残酷を憤ると同時に、藩中稀有の名士が不幸に陥りたるを気の毒に感じたからのことで、随分彼方此方と歩き廻りましたが、口で云えば何でもないけれども、人力車のある時節ではなし、一切歩いて行かなければならぬから中々骨が折れました。
書き下し
サア今藩主に話をして来たがドウだ。藩主は大参事次第だと確かに申された。然らば則ち生殺はお前さんの手中にある、殺す気か、殺さぬ気か。仮しや殺す積りで捜し出そうと云ても決して出る気遣いはない。私はちゃんと居処を知て居る、捜せるなら試みに捜して見るが宜い、捕縛すると云うなら私の力の有らん限り隠蔽して見せよう、出来るだけ摘発して見なさい、何時まで経ても無益だ。そんな事をして人を苦しめないでも宜いだろうと、裏表から色々話すと、大参事にも言葉がない。いよ/\助ける、助けるけれども薩州辺りから何とか口を添えて呉れると都合が宜いなんて又弱い事を云うから、宜しいと云い棄てゝ、夫れから私は薩州の屋敷に行て、斯う/\云う次第柄だから助けて遣て呉れぬかと云うと、大藩とか強藩とか云うので口を出すのは実は迷惑な話だが、何も六かしい事はない、宮内省に弁事と云うものがあるから、その者に就て政府の内意を聞て上げるからと云て、薩摩の公用人が政府の内意を聞て、私の処に報知して呉れたには、兎も角も自訴させるが宜しい、自訴すれば八十日の禁錮ですっかり罪は滅びて仕舞うと云うことが分た。夫れから念の為め私は又仙台の屋敷に行て大参事に面会して、政府の方は自訴すれば八十日と極て居るが、之にお負けが付きはしないか、自訴と云えばこの屋敷に自訴するのであるが、この屋敷で本藩の私を以て八十日を八年にして遣ろうなんと云うお負けを遣りはしないか、ソレを確かに約束しなければ玉は出されないと、念に念を入れて問答を重ね、最後には若し違約すれば復讐するとまで脅迫して、いよ/\大丈夫と安心して、ソレからその翌日両人を連れて日比谷の屋敷に行た、所が屋敷の役所見たような処には罪人、大童、松倉の旧時の属官ばかりが列んで居るだろう、罪人の方が余程エライ、オイ貴様はドウして居るのだと云うような調子で、私は側から見て可笑しかった。夫れから宇田川町の仙台屋敷の長屋の二階に八十日居て、ソレで事が済んで、ソレから二人は晴天白日、外を歩くようになって、その後は今日に至るまでも旧の通りに交際して互に文通して居ます。生涯変らぬ事でしょう。只この事たるや仙台藩の無気力残酷を憤ると同時に、藩中稀有の名士が不幸に陥りたるを気の毒に感じたからのことで、随分彼方此方と歩き廻りましたが、口で云えば何でもないけれども、人力車のある時節ではなし、一切歩いて行かなければならぬから中々骨が折れました。
現代語訳
「さあ、今、藩主に話をして来たがどうだ。藩主は大参事次第だと確かに申された。ならば生殺はお前さんの手中にある。殺す気か、殺さぬ気か。たとえ殺すつもりで捜し出そうと言っても、決して出てくる気遣いはない。私はちゃんと居所を知っている。捜せるなら試しに捜してみるがいい。捕縛するというなら、私の力の限り隠してみせよう。できるだけ摘発してみなさい。いつまで経っても無益だ。そんなことをして人を苦しめなくてもいいだろう」と、裏表からいろいろ話すと、大参事にも言葉がありません。いよいよ助ける。助けるけれども、薩州あたりから何とか口添えしてくれると都合がいいなどと、また弱いことを言うので、よろしいと言い捨てて、それから私は薩州の屋敷に行って、これこれこういう次第だから助けてやってくれないかと言うと、大藩とか強藩とかいうので口を出すのは実は迷惑な話だが、何も難しいことはない、宮内省に弁事というものがあるから、その者に就いて政府の内意を聞いてあげよう、と言って、薩摩の公用人が政府の内意を聞き、私のところに知らせてくれたのは、ともかくも自訴させるのがよろしい、自訴すれば八十日の禁錮ですっかり罪は消えてしまう、ということが分かりました。それから念のため私はまた仙台の屋敷に行って大参事に面会し、政府のほうは自訴すれば八十日と決まっているが、これにおまけがつきはしないか、自訴といえばこの屋敷に自訴するのだが、この屋敷で本藩の私情をもって八十日を八年にしてやろうなどというおまけをやりはしないか、それを確かに約束しなければ人は出せないと、念に念を入れて問答を重ね、最後にはもし違約すれば復讐するとまで脅して、いよいよ大丈夫と安心し、その翌日、両人を連れて日比谷の屋敷に行きました。すると屋敷の役所のようなところには、罪人である大童と松倉のかつての部下ばかりが並んでいます。罪人のほうがよほどえらく、おい貴様はどうしているのだ、というような調子で、私は側から見ておかしかった。それから宇田川町の仙台屋敷の長屋の二階に八十日いて、それで事が済み、二人は青天白日、外を歩くようになって、その後は今日に至るまで、もとのとおりに交際し互いに文通しています。生涯変わらぬことでしょう。ただこのことは、仙台藩の無気力と残酷を憤ると同時に、藩中まれな名士が不幸に陥ったのを気の毒に感じたからのことで、ずいぶんあちこちと歩き回りましたが、口で言えば何でもないけれども、人力車のある時節ではなし、一切歩いて行かなければならないので、なかなか骨が折れました。
解説
この章句が説くこと
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史記 穰侯列伝昭王の七年、樗里子死し、而して涇陽君をして斉に質たらしむ。趙人楼緩来たりて秦に相たり、趙利あらず、乃ち仇液をして秦に之かしめ、魏冉を以て秦の相と為さんことを請ふ。仇液将に行かんとす、その客宋公、液に謂ひて曰く、「秦公に聴かずんば、楼緩必ず公を怨まん。公は楼緩に謂ひて『請ふ公の為に秦に急にすること毋からん』と曰ふに若かず。秦王、趙の魏冉を相とせんことを請ふの急ならざるを見て、且に公に聴かざらんとす。公言ひて事成らずんば、以て楼子に徳とせられ、事成らば、魏冉故より公を徳とせん」と。是に於いて仇液これに従ふ。而して秦果たして楼緩を免じて魏冉秦に相たり。呂礼を誅せんと欲す、礼出でて斉に奔る。昭王の十四年、
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『配所残筆』配所殘筆(8)大猷院樣御前へ祖心昵近仕られ候時分、祖心被申候者、其方義御次て御座候て具達上聞候、折に其方事上意有之間、必家中へ奉公に罷出候事無用に可仕候、何卒御家人に罷成候やうに取持可被申由被申候、松平越中守殿御念頃故、右之次第具に御內意申上候へば、一段之事に候、表向越中守殿御取持可被下候、其方事松平伊豆守殿兼而能御存被成候間、當公方樣へ被召出候樣に仕候はゞ、早速首尾可仕候、祖心へも其段御相談可被成、先酒井日向守殿へも被仰遣候間、掛御目置候へと被仰候、御家老三輪權右衞門を差添られ、日向守殿へ拙者を遊され懸御目候、其後越中守殿仰られ候は、酒井空印公へ拙者事具に御物語被成置候間、左樣に心得候樣に被仰候、其節空印公事上意にて祖心下屋敷へ振舞申され候時分、拙者も被召出、御念頃之上、越中守殿拙者噂具に被仰候由御挨拶被成候、久世和州公上意にて祖心振舞被成、道春被召寄、老子經之講釋御座候時分。和州公被仰下、拙者も右之末座へ被召出候、祖心後に被申候者、
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葉隠・聞書第一御縁組(ごえんぐみ)の時、何某(なにがし)一分(いちぶん)を申し達し候。この事、若き衆(しゅう)よく心得(こころえ)置くべき事なり。その身(み)気味(きみ)よく思うて、云(い)ふべき事を云うて腹切(はらき)りても本望(ほんもう)と思ふべし。よくよく了簡(りょうけん)候へ、何の益(えき)にも立たぬ事なり。我(われ)かやうの事を云うて腹切りても本望と思ふは、なるほど聞(きこ)えたり。曲者(くせもの)などと思ふは以(もっ)ての外(ほか)なる取違(とりちが)ひなり。まづ申し出でたる事その詮(せん)なく、我が身は引き取り、御養育(ごよういく)も仕(つかまつ)らず、追付(おっつ)け御死去(ごしきょ)なされ候に、御看病(ごかんびょう)も仕らず、残念千万(ざんねんせんばん)なり。気過(きす)ぎなる人は多分(たぶん)誤(あやま)る所なり。総(そう)じてその位(くらい)に至らずして諫言(かんげん)するは却(かえ)つて不忠(ふちゅう)なり。誠(まこと)の者ならば、我が存(ぞん)じ寄りたる事を似合(にあ)ひたる人に潜(ひそ)かに内談(ないだん)して、その人の思ひ寄りにさせて云へば、その事調(ととの)はるなり。これ忠節(ちゅうせつ)なり。もし、内談にてその人請(う)け合はずば、また外(ほか)の人にも内談し、とかく色々心遣(こころづか)ひをして、その事さへ調はるる様にすれば、大忠節(だいちゅうせつ)も知れぬ様にして居るものなり。幾人(いくにん)に内談しても、埒(らち)明かざる時は力に及ばず、その分(ぶん)にて打ち過ぎ、または起こし立て起こし立てすれば、多分叶(かな)ふものなり。我こそ曲者と云はるる名聞(みょうもん)ばかりにて、我が手柄(てがら)にするゆゑ調はざるなり。申し出でたる事益には立たず、人に難(なん)ぜられ、我が身を崩(くず)したる人数多(あまた)これあるなり。畢竟(ひっきょう)真(しん)の志(こころざし)なきゆゑなり。我が身を一向(いっこう)に捨て捨てて、主君の上(うえ)どうなりとも好き様にとさへ思へば、紛(まぎ)るる事はこれなく候なり。
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史記 張丞相列伝鄧通既に至り、文帝の為に泣きて曰く、「丞相幾(ほと)んど臣を殺さんとす」と。嘉丞相為ること五歳、孝文帝崩じ、孝景帝即位す。二年、晁錯内史と為り、貴幸せられて事を用ふ。諸法令多く変更を請ふ所あり。謫罰を以て諸侯を侵削せんと議す。而して丞相嘉は自ら言ふ所の用ひられざるを絀(くつ)とし、錯を疾む。錯内史為りしとき、門東に出で、便ならず。更に一門を穿ちて南に出だす。南に出づる者は、太上皇の廟の堧垣(ぜんゑん)なり。嘉之を聞き、此に因りて錯の擅に宗廟の垣を穿ちて門と為すを法(のつと)らんと欲し、奏して錯を誅せんことを請ふ。錯の客に錯に語る有り。錯恐れ、夜宮に入りて上謁し、自ら景帝に帰す。朝に至りて、丞相、内史錯を誅せんことを奏請す。景帝曰く、「錯の穿ちし所は真の廟垣に非ず、乃ち外の堧垣なり。故に他官其の中に居る。且つ又我之を為さしむ。錯罪無し」と。朝を罷め、嘉、長史に謂ひて曰く、「吾先づ錯を斬らずして、乃ち先づ之を請ひ、錯の売る所と為りしを悔ゆ」と。舎に至り、因りて血を欧(は)きて死す。謚して節侯と為す。子の共侯蔑代はり、三年にして卒す。子の侯去病代はり、三十一年にして卒す。子の侯臾代はり、六歳にして、九江の太守と為りて故の官の送るを受けて罪有るに坐して、国除かる。申屠嘉死せしより後、景帝の時、開封侯陶青・桃侯劉舍丞相と為る。今上の時に及び、柏至侯許昌・平棘侯薛沢・武彊侯荘青翟・高陵侯趙周等丞相と為る。皆列侯の継嗣を以て、娖娖(さくさく)として廉謹、丞相と為りて員に備はるのみ。能く功名を発明して当世に著はるる者有る所無し。
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史記 呂不韋列伝呂不韋乃ち五百金を以て子楚に与へ、進用と為し、賓客を結ばしむ。而して復た五百金を以て奇物玩好を買ひ、自ら奉じて西のかた秦に游び、華陽夫人の姊に見えんことを求め、而して皆其の物を以て華陽夫人に献ず。因りて子楚の賢智にして、諸侯の賓客と結ぶこと天下に遍く、常に曰ふ「楚や夫人を以て天と為し、日夜泣きて太子及び夫人を思ふ」と言ふ。夫人大いに喜ぶ。不韋因りて其の姊をして夫人に説かしめて曰く、「吾之を聞く、色を以て人に事ふる者は、色衰へて愛弛むと。今、夫人は太子に事へ、甚だ愛せらるれども子無し。此の時を以て蚤く自ら諸子の中の賢孝なる者に結び、挙げ立てて以て適と為して之を子とせずんば、夫在らば則ち重く尊ばれ、夫百歳の後、子とする所の者王と為り、終に勢を失はず。此れ所謂一言にして万世の利なり。繁華の時を以て本を樹てずんば、即ち色衰へ愛弛むの後、一語を開かんと欲すと雖も、尚ほ得べけんや。今、子楚は賢にして、自ら中男にして、次として適と為るを得ず、其の母又幸せらるるを得ざるを知り、自ら夫人に附く。夫人誠に此の時を以て抜きて以て適と為さば、夫人は則ち世を竟ふるまで秦に寵有らん」と。華陽夫人以て然りと為し、太子の閒を承け、従容として子楚の趙に質たる者の絶だ賢にして、来往する者皆之を称誉すと言ふ。乃ち因りて涕泣して曰く、「妾幸ひに後宮に充つるを得たるも、不幸にして子無し。願はくは子楚を得て立てて以て適嗣と為し、以て妾が身を託さん」と。安国君之を許し、乃ち夫人と玉符を刻し、約して以て適嗣と為す。安国君及び夫人因りて厚く子楚に餽遺し、而して呂不韋に請ひて之に傅たらしむ。子楚此を以て名誉益々諸侯に盛んなり。呂不韋、邯鄲の諸姫の絶好にして善く舞ふ者を取りて与に居り、身有るを知る。子楚不韋に従ひて飲み、見て之を説び、因りて起ちて寿を為し、之を請ふ。呂不韋怒るも、念ふに業已に家を破りて子楚の為にし、以て奇を釣らんと欲す。乃ち遂に其の姫を献ず。
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史記 荊燕世家高后の時、斉人田生游びて資に乏しく、画を以て営陵侯沢に干む。沢大いに之を説び、金二百斤を用て田生の寿を為す。田生已に金を得て、即ち斉に帰る。二年、沢人をして田生に謂はしめて曰く、「与せざらん」と。田生長安に如き、沢に見えず、而して大宅を仮り、其の子をして呂后の幸する所の大謁者張子卿に事ふるを求めしむ。居ること数月、田生の子張卿に臨まんことを請ひ、親ら具を修む。張卿往くことを許す。田生盛んに帷帳共具し、譬へば列侯の如し。張卿驚く。酒酣にして、乃ち人を屏けて張卿に説きて曰く、「臣諸侯王の邸第百余を観るに、皆高祖の一切の功臣なり。今呂氏は雅故より本高帝を推轂して天下に就かしむ、功至大なり、又太后に親戚の重き有り。太后春秋長じ、諸呂弱し、太后呂産を立てて[呂]王と為し、代に王たらしめんと欲す。太后又重ねて之を発すれば、大臣の聴かざらんことを恐る。今卿最も幸せられ、大臣の敬する所なり、何ぞ大臣に風して以て太后に聞せしめざる、太后必ず喜ばん。諸呂已に王たらば、万戸侯も亦た卿の有なり。太后心に之を欲す、而して卿は内臣為り、急ぎ発せずんば、恐らくは禍身に及ばん」と。張卿大いに之を然りとし、乃ち大臣に風して太后に語らしむ。太后朝し、因りて大臣に問ふ。大臣呂産を立てて呂王と為さんことを請ふ。太后張卿に千斤の金を賜ふ、張卿其の半を以て田生に与ふ。田生受けず、因りて之に説きて曰く、「呂産王たるや、諸大臣未だ大いに服せず。今営陵侯沢は、諸劉にして、大将軍為り、独り此れのみ尚ほ觖望す。今卿太后に言ひ、十余県を列ねて之を王とせば、彼王たるを得て、喜びて去らん、諸呂の王益々固からん」と。張卿入りて言ふ、太后之を然りとす。乃ち営陵侯劉沢を以て瑯邪王と為す。瑯邪王乃ち田生と国に之く。田生沢に急ぎ行きて、留まること毋からんことを勧む。関を出づ、太后果たして人をして追ひて之を止めしむ、已に出でたれば、即ち還る。
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