福翁自伝 / 雑記・独立敢て新事例を開く(4)
ソコで私がこの藩主に向て大に談じられる由縁のあると云うのは、その藩主と云う者は伊達家の分家宇和島藩から養子に来た人で、前年養子になると云うその時に、私が与て大に力がある、と云うのは当時大童が江戸屋敷の留守居で世間の交際が広いと云うので、養子選択の事を一人で担任して居て、或時私に談じて、「お前さんの処(奥平家)の殿様は宇和島から来て居る、その兄さんが国(宇和島)に居る、その人の強弱智愚如何を聞て貰いたいと云うから、早速取調べて返事をして、先ず大童の胸に落ちて、今度は宇和島家の方に相談をして貰いたいと云うので、夫れから又私は麻布竜土の宇和島の屋敷に行て、家老の桜田大炊と云う人に面会してその話をすると、一も二もなく、本家の養子になろうと云うのだから唯難有いとの即答、一切大童と私と二人で周旋して、夫れから表向きになって貰たその人が、その時の藩主になって居るので、ソコで私がその藩主に遇うて、時に尊藩の大童、松倉の両人が、この間仙台から逃げて参たのは、彼方に居れば殺されるから此方に飛出して来たのであるが、彼の両人は今でも見付け出せば藩主に於て本当に殺す気があるのか、但し殺したくないのか、ソレを承りたい。「イヤ決して殺したいなどゝ云う意味はない。「然らばモウ一歩進めて、お前さんはソレを助けると云う工夫をして、ドウかして、命の繋がるようにして遣ては如何で御座る。実はお前さんは大童に向て大に報いなければならぬことがある。知るや知らずや、お前さんが仙台の御家に養子に来たのは斯う云う由来、是れ/\の次第であったが、夫れを思うても殺すことは出来まい。屹度御決答を伺いたいと、顔色を正しくして談じた処が、「決して殺す気はないが、是れは大参事に任かしてあるから、大参事さえ助けると云う気になれば、私には勿論異論はないと云う。マダ若い小供でしたから何事も大参事に任かしてあったのでしょう。「然らばお前さんは確かだな。「確かだ。「ソレならば宜しい、大参事に遇おうと云て、直ぐ側の長屋に居たから其処へ捻込んだ。
書き下し
ソコで私がこの藩主に向て大に談じられる由縁のあると云うのは、その藩主と云う者は伊達家の分家宇和島藩から養子に来た人で、前年養子になると云うその時に、私が与て大に力がある、と云うのは当時大童が江戸屋敷の留守居で世間の交際が広いと云うので、養子選択の事を一人で担任して居て、或時私に談じて、「お前さんの処(奥平家)の殿様は宇和島から来て居る、その兄さんが国(宇和島)に居る、その人の強弱智愚如何を聞て貰いたいと云うから、早速取調べて返事をして、先ず大童の胸に落ちて、今度は宇和島家の方に相談をして貰いたいと云うので、夫れから又私は麻布竜土の宇和島の屋敷に行て、家老の桜田大炊と云う人に面会してその話をすると、一も二もなく、本家の養子になろうと云うのだから唯難有いとの即答、一切大童と私と二人で周旋して、夫れから表向きになって貰たその人が、その時の藩主になって居るので、ソコで私がその藩主に遇うて、時に尊藩の大童、松倉の両人が、この間仙台から逃げて参たのは、彼方に居れば殺されるから此方に飛出して来たのであるが、彼の両人は今でも見付け出せば藩主に於て本当に殺す気があるのか、但し殺したくないのか、ソレを承りたい。「イヤ決して殺したいなどゝ云う意味はない。「然らばモウ一歩進めて、お前さんはソレを助けると云う工夫をして、ドウかして、命の繋がるようにして遣ては如何で御座る。実はお前さんは大童に向て大に報いなければならぬことがある。知るや知らずや、お前さんが仙台の御家に養子に来たのは斯う云う由来、是れ/\の次第であったが、夫れを思うても殺すことは出来まい。屹度御決答を伺いたいと、顔色を正しくして談じた処が、「決して殺す気はないが、是れは大参事に任かしてあるから、大参事さえ助けると云う気になれば、私には勿論異論はないと云う。マダ若い小供でしたから何事も大参事に任かしてあったのでしょう。「然らばお前さんは確かだな。「確かだ。「ソレならば宜しい、大参事に遇おうと云て、直ぐ側の長屋に居たから其処へ捻込んだ。
現代語訳
そこで私がこの藩主に向かって大いに談判できる由縁があるというのは、その藩主は伊達家の分家である宇和島藩から養子に来た人で、前年その養子になるときに、私が大いに力を貸したからです。というのは、当時、大童が江戸屋敷の留守居で世間の交際が広いというので、養子選びの事をひとりで担当していて、あるとき私に相談し、「お前さんのところ(奥平家)の殿様は宇和島から来ている。その兄さんが国元(宇和島)にいる。その人の強弱、智愚がどうか聞いてほしい」と言うので、早速調べて返事をして、まず大童の胸に落ち、今度は宇和島家のほうに相談をしてほしいというので、それからまた私は麻布竜土の宇和島の屋敷に行き、家老の桜田大炊という人に面会してその話をすると、一も二もなく、本家の養子になろうというのだからただありがたいとの即答。一切、大童と私と二人で周旋して、それから表向きになってもらった、その人がその時の藩主になっていたのです。そこで私はその藩主に会って言いました。「ときに、貴藩の大童、松倉の両人が、この間仙台から逃げて来たのは、あちらにいれば殺されるのでこちらに飛び出して来たのですが、あの両人は今でも見つけ出せば、藩主として本当に殺す気がおありか、あるいは殺したくないのか、それを伺いたい。」「いや、決して殺したいなどという意味はない。」「ならばもう一歩進めて、お前さんはそれを助ける工夫をして、なんとかして命がつながるようにしてやってはいかがです。実はお前さんは大童に大いに報いなければならないことがある。ご存じかどうか、お前さんが仙台の家に養子に来たのはこういう由来、これこれの次第だった。それを思えば殺すことはできまい。きっとご決答を伺いたい」と、顔色を正して談判したところ、「決して殺す気はないが、これは大参事に任せてあるから、大参事さえ助けるという気になれば、私にはもちろん異論はない」と言います。まだ若い子供でしたから、何事も大参事に任せてあったのでしょう。「ならばお前さんは確かだな。」「確かだ。」「それならよろしい、大参事に会おう」と言って、すぐ側の長屋にいたので、そこへねじ込みました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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福翁自伝・雑記・独立敢て新事例を開く(5)サア今藩主に話をして来たがドウだ。藩主は大参事次第だと確かに申された。然らば則ち生殺はお前さんの手中にある、殺す気か、殺さぬ気か。仮しや殺す積りで捜し出そうと云ても決して出る気遣いはない。私はちゃんと居処を知て居る、捜せるなら試みに捜して見るが宜い、捕縛すると云うなら私の力の有らん限り隠蔽して見せよう、出来るだけ摘発して見なさい、何時まで経ても無益だ。そんな事をして人を苦しめないでも宜いだろうと、裏表から色々話すと、大参事にも言葉がない。いよ/\助ける、助けるけれども薩州辺りから何とか口を添えて呉れると都合が宜いなんて又弱い事を云うから、宜しいと云い棄てゝ、夫れから私は薩州の屋敷に行て、斯う/\云う次第柄だから助けて遣て呉れぬかと云うと、大藩とか強藩とか云うので口を出すのは実は迷惑な話だが、何も六かしい事はない、宮内省に弁事と云うものがあるから、その者に就て政府の内意を聞て上げるからと云て、薩摩の公用人が政府の内意を聞て、私の処に報知して呉れたには、兎も角も自訴させるが宜しい、自訴すれば八十日の禁錮ですっかり罪は滅びて仕舞うと云うことが分た。夫れから念の為め私は又仙台の屋敷に行て大参事に面会して、政府の方は自訴すれば八十日と極て居るが、之にお負けが付きはしないか、自訴と云えばこの屋敷に自訴するのであるが、この屋敷で本藩の私を以て八十日を八年にして遣ろうなんと云うお負けを遣りはしないか、ソレを確かに約束しなければ玉は出されないと、念に念を入れて問答を重ね、最後には若し違約すれば復讐するとまで脅迫して、いよ/\大丈夫と安心して、ソレからその翌日両人を連れて日比谷の屋敷に行た、所が屋敷の役所見たような処には罪人、大童、松倉の旧時の属官ばかりが列んで居るだろう、罪人の方が余程エライ、オイ貴様はドウして居るのだと云うような調子で、私は側から見て可笑しかった。夫れから宇田川町の仙台屋敷の長屋の二階に八十日居て、ソレで事が済んで、ソレから二人は晴天白日、外を歩くようになって、その後は今日に至るまでも旧の通りに交際して互に文通して居ます。生涯変らぬ事でしょう。只この事たるや仙台藩の無気力残酷を憤ると同時に、藩中稀有の名士が不幸に陥りたるを気の毒に感じたからのことで、随分彼方此方と歩き廻りましたが、口で云えば何でもないけれども、人力車のある時節ではなし、一切歩いて行かなければならぬから中々骨が折れました。
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福翁自伝・雑記・独立敢て新事例を開く(3)政府の略は中々行届いて居る、所が仙台の藩士が有ろうことか有るまいことか、御上使の御下向と聞て景気を催し、生首を七ツとやら持て出たので久我も驚いたと云う、そんな事まで仙台藩士が遣た。その時に松倉も大童も、居れば危ないから脊戸口から駈出して、東京まで逃げて来た、と云うのは両人ともモウちゃんと首を斬られる中に数えられて居たその次第を、誰か告げて呉れる者があって、その儘家を飛出して東京へ来て潜んで居るその中にも、仙台藩の人が在京の同藩人に対して様々残酷な事をして、既に熱海貞爾と云う男は或夜今其処で同藩士に追駈けられたと申して、私方に飛込んで助かった事さえありましたが、この物騒な危ない中にも、大童と松倉はどうやら斯うやら久しく免かれて居て、私は素より懇意だからその居処も知て居れば私の家にも来る。政府の人から見られるのは苦しくない、政府はそんな野暮はしない、そんな者を見ようともしないが、何分にも同藩の者が遣るので誠に危ない。引捕えて、是れが罪人でございと云えば、如何に優しい大目な政府でも唯見ては居られない。実に困た身の有様だと、毎度両人と話す中に、私は両人の為めに同情を表すると云うよりも、寧ろこの仙台藩士の無情残酷と云うことに酷く腹が立ちました。弱武者の意気地のない癖に酷い事をする奴だ、ドウかして呉れたいものだと斯う考えた所で、夫れから私が大童に面会して、ドウか青天白日の身になる工夫がありそうなものだ、私が一つ試みて見よう、何でも是れは一番、藩主を引捕えて談ずるが上策だろうと相談して、私は大きに御苦労な訳けだけれども、日比谷内にある仙台の屋敷に行て、藩主に御目に懸りたいと触込んで、藩主に面会した。
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福翁自伝・雑記・独立敢て新事例を開く(2)又私は知る人の為めに尽力したことがあります。是れは唯私の物数寄ばかり、決して政治上の意味を含んで居るのでも何でもない。真実一身の道楽と云おうか、慈悲と云おうか、癇癪と云おうか、マアそんな所から大に働いたことがあります。仙台藩の留守居役を勤めて居た大童信太夫と云う人があって、旧幕府時代から私はその人と極、懇意にして居ました、と云てその人が蘭学者でもなければ英学者でもない、けれども兎に角に西洋文明の風を好み洋学書生を愛して楽しみにして居る所は、気品の高い名士と申して宜しい。当事諸藩の留守居役でも勤めて居れば、芸者を上げて騒ぐとか、茶屋に集まるとか、相撲を贔屓にするとか云うのが江戸普通の風俗で、大童も大藩の留守居だから随分金廻わりも宜かったろうと思われるに、絶えてそんな馬鹿な遊びをせず、唯何でも書生を養て遣ると云うことが面白くて、書生の世話ばかりして、凡そ当時仙台の書生で大童の家の飯を喰わない者はなかろう。今の富田鉄之助を始め一人として世話にならない者はない。所が幕末の時勢段々切迫して、王政維新の際に仙台は佐幕論に加担して忽ち失敗して、その謀主は但木土佐と云う家老であると定まって、その人は腹を切て仕舞ったその後で、但木土佐が謀主だと云うけれども、その実は謀主の謀主がある、ソレは誰だと云うに大童信太夫、松倉良助の両人だと斯う云う訳けで、維新後その両人は仙台に帰て居た所が、サアその仙台の同藩中の者から妙な事を饒舌り出した、既に政府は朝敵の処分をして事済になっては居るが、内からそんなことを云出して、マダ罪人が幾人もあると訴えたからには、マサか捨てゝも置かれぬと云う所から、久我大納言を勅使として下向を命じた、と云う政府の趣意は甚だ旨い、この時に政府は既に処分済の後だから、成る丈け平穏を主として事を好まぬ。ソコで久我と仙台家とは親類であるから、久我が行けば定めて大目に見るであろう、左すれば怪我人も少ないだろうと云う為めに、態と久我を択んだと云うことは、その時私も窃に聞きました。
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福翁自伝・暗殺の心配・警戒却て無益なり前の鵜ノ島の話に引替えて、誠に馬鹿々々しい事もあります。明治五年かと思う。私が中津の学校を視察に行き、その時旧藩主に勧めて一家挙って東京に引越し、私が供をして参ると云うことになった。処で藩主が藩地を去るは固より士族の悦ぶことでない。私も能くその情実は知て居るけれども、昔の大名風で藩地に居れば奥平家の維持が出来ない、思切て断行せよと云うので、疾雷耳を掩うに暇あらず、僅か六、七日間の支度で、御隠居様も御姫様も中津の浜から船に乗て馬関に行き、馬関で蒸気船に乗替えて神戸と、都ての用意調い、いよ/\中津の船に乗て夕刻沖の方に出掛けた処が生憎風がない、夜中水尾木の処にボチャ/\して少しも前に進まない。ソコで私は考えた。「コリャ大変だ、爰にグヅ/\して居ると例の若武者が屹と遣て来るに違いない、来ればその目指す敵は自分一人だ、幸い夜の明けぬ中に船を上て陸行するに若くはなしと決断して、極暑の時であったが、払暁マダ暗い中に中津の城下に引返して、その足で小倉まで駈けて行きました。所が大きに御苦労、後に聞けばこの時には藩士も至極穏かで何の議論もなかったと云う。此方が邪推を運らして用心する時は何でもなく、ポカンとして居る時は一番危い、実に困たものです。
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福翁自伝・雑記・独立敢て新事例を開く(10)所が前申す通り榎本釜次郎と私とは刎頸の交と云う訳けではなし、何もそんなに力を入れる程の親切のあろう訳けもない、只仙台藩士の腰抜けを憤ったと同じ事で、幕府の奴の如何にも無気力不人情と云うことが癪に障たので、ソコでどうでも斯うでも助けて遣ろうと思て駈廻わりましたが、その節、毎度妻と話をして今でも覚えて居ます、私の申すに、扨榎本の為めに今日はこの通りに骨を折て居るが、是れは唯人間一人の命を助けるばかりの志で外になんにも趣意はない、元来榎本と云う男は深く知らないが随分何かの役に立つ人物に違いはない、少し気色の変た男ではあるが、何分にも出身が幕府の御家人だから殿様好きだ、今こそ牢に這入て居るけれども、是れが助かって出るようになれば、後日或は役人になるかも知れぬ、その時は例の通りの殿様風でぴん/\するような事があるかも知れない、その時になって殿様のぴん/\を見たり聞たりして、ヤレ昔を忘れて厚かましいだの可笑しいだのと云う念が兎の毛ほども腹の底にあっては、是れは榎本の悪いのでなく此方の卑劣と云うものだから、そんな事なら私は今日唯今から一切の周旋を止めるがドウだと妻に語れば、妻も私と同説で、左様な浅ましい卑しい了簡は決してないと申して、夫妻固く約束したことがあるが、後日に至て私の云た通りになったのが面白い。榎本が段々立身して公使になったり大臣になったりして立派な殿様になったのは、私が占八卦の名人のようだけれども、私の処にはチャント説が極まって居て、一切の事情を知る者は私と妻と両人より外にないから、榎本がドウなろうと私の家で噂をする者もない、子供などは今度のこの速記録を見て始めて合点するでしょう。
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福翁自伝・王政維新・主従の間も売言葉に買言葉爾う云う風であるから藩に対して甚だ淡白、淡白と云えば言葉が宜いけれども、同藩士族の眼から見れば不親切な薄情な奴と見えるも道理で、藩中の若い者等が酒席などで毎度議論を吹掛ることがあるその時に、私は答えて「不親切薄情と云うけれども、私は何も奥平様に向て悪い事をしたことはない、一寸とでも藩政の邪魔をしたことはない、只命令の儘に堅く守て居るのだ。この上に親切と云てドウ云うことをするのか。私は厚かましい事は出来ない、之を不親切と云えば仕方がない。今も申す通り私は藩に向て悪い事をしないのみか、一寸とでも求めたことがなかろう、或は身分を取立て呉れろ、禄を増して呉れろと云うような事は、蔭にも日向にも一言でも云たことがあるか。その言葉を聞た人がこの藩中に在るかドウか、御家老以下の役人に聞て見るが宜い。厚かましく親切を尽して、厚かましく泣付くと云うことは、自分の性質に於て出来ない。是れで悪いと云うならば追出すより外に仕方はあるまい。追出せば謹んで命を奉じて出て行く丈けの話だ。凡そ人間の交際は売言葉に買言葉で、藩の方から数代御奉公を仰付けられて難有い仕合せであろうと酷く恩に被せれば、失敬ながら此方にも言葉がある、数代家来になって正直に勤めたぞ、そんなに恩に被せなくても宜かろうと云わねばならぬ。之に反して藩の方から手前達のような家来が数代神妙に奉公して呉れたからこの藩も行立つと斯う云えば、此方も亦言葉を改め、数代御恩を蒙て難有い仕合せに存じ奉ります、累代の間には役に立たぬ小供もありました、病人もありました、ソレにも拘わらず下さる丈けの家禄はチャンと下さって家族一同安楽に生活しました、主恩海より深し山より高しと、此方も小さくなってお礼を申上げる。是れが即ち売言葉に買言葉だ。ソレ丈けの事は私も能く知て居る。爾う無闇に恩に被せる事ばかり云て、只漠然と不親切と云うような事を云て貰いたくないと云うような調子で、始終問答をして居ました。
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