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福翁自伝 / 暗殺の心配・警戒却て無益なり

前の鵜ノ島の話に引替えて、誠に馬鹿々々しい事もあります。明治五年かと思う。私が中津の学校を視察に行き、その時旧藩主に勧めて一家挙って東京に引越し、私が供をして参ると云うことになった。処で藩主が藩地を去るは固より士族の悦ぶことでない。私も能くその情実は知て居るけれども、昔の大名風で藩地に居れば奥平家の維持が出来ない、思切て断行せよと云うので、疾雷耳を掩うに暇あらず、僅か六、七日間の支度で、御隠居様も御姫様も中津の浜から船に乗て馬関に行き、馬関で蒸気船に乗替えて神戸と、都ての用意調い、いよ/\中津の船に乗て夕刻沖の方に出掛けた処が生憎風がない、夜中水尾木の処にボチャ/\して少しも前に進まない。ソコで私は考えた。「コリャ大変だ、爰にグヅ/\して居ると例の若武者が屹と遣て来るに違いない、来ればその目指す敵は自分一人だ、幸い夜の明けぬ中に船を上て陸行するに若くはなしと決断して、極暑の時であったが、払暁マダ暗い中に中津の城下に引返して、その足で小倉まで駈けて行きました。所が大きに御苦労、後に聞けばこの時には藩士も至極穏かで何の議論もなかったと云う。此方が邪推を運らして用心する時は何でもなく、ポカンとして居る時は一番危い、実に困たものです。

書き下し

前の鵜ノ島の話に引替えて、誠に馬鹿々々しい事もあります。明治五年かと思う。私が中津の学校を視察に行き、その時旧藩主に勧めて一家挙って東京に引越し、私が供をして参ると云うことになった。処で藩主が藩地を去るは固より士族の悦ぶことでない。私も能くその情実は知て居るけれども、昔の大名風で藩地に居れば奥平家の維持が出来ない、思切て断行せよと云うので、疾雷耳を掩うに暇あらず、僅か六、七日間の支度で、御隠居様も御姫様も中津の浜から船に乗て馬関に行き、馬関で蒸気船に乗替えて神戸と、都ての用意調い、いよ/\中津の船に乗て夕刻沖の方に出掛けた処が生憎風がない、夜中水尾木の処にボチャ/\して少しも前に進まない。ソコで私は考えた。「コリャ大変だ、爰にグヅ/\して居ると例の若武者が屹と遣て来るに違いない、来ればその目指す敵は自分一人だ、幸い夜の明けぬ中に船を上て陸行するに若くはなしと決断して、極暑の時であったが、払暁マダ暗い中に中津の城下に引返して、その足で小倉まで駈けて行きました。所が大きに御苦労、後に聞けばこの時には藩士も至極穏かで何の議論もなかったと云う。此方が邪推を運らして用心する時は何でもなく、ポカンとして居る時は一番危い、実に困たものです。

現代語訳

前の鵜ノ島の話とは打って変わって、まことに馬鹿らしいこともあります。明治五年かと思います。私が中津の学校を視察に行き、その時、旧藩主に勧めて、一家そろって東京に引っ越し、私がお供をして参る、ということになりました。ところで藩主が藩地を去るのは、もとより士族の喜ぶことではありません。私もその事情はよく知っていますが、昔の大名風で藩地にいれば、奥平家の維持はできない、思い切って断行せよということで、疾雷耳を掩うに暇あらず、わずか六、七日間の支度で、ご隠居様もお姫様も中津の浜から船に乗り、馬関に行き、馬関で蒸気船に乗り換えて神戸へと、すべての用意が整い、いよいよ中津の船に乗って夕方に沖のほうに出かけたところ、あいにく風がなく、夜中に水尾木のところでボチャボチャして少しも前に進みません。 そこで私は考えました。「これは大変だ。ここでぐずぐずしていると、例の若武者がきっとやって来るに違いない。来ればその目指す敵は自分一人だ。幸い夜の明けないうちに船を上がって、陸路を行くに越したことはない」と決断して、極暑の時でしたが、払暁、まだ暗いうちに中津の城下に引き返し、その足で小倉まで駆けて行きました。ところが大いにご苦労で、後に聞けば、この時には藩士も至って穏やかで、何の議論もなかったといいます。こちらが邪推をめぐらして用心するときは何でもなく、ぼんやりしているときは一番危ない。実に困ったものです。

解説

福沢は旧藩主の一家を東京に移す役を務める際、風待ちの船上で、襲撃を恐れて夜明け前に船を降り、陸路を小倉まで駆けました。ところが後から聞けば、その時は藩士も穏やかで議論さえなかったのです。警戒が空振りに終わった場合もあれば、警戒しない夜が危なかった場合もある。福沢は、用心が当たる外れるを運と見ています。リスク管理でも、備えが過剰か過少かは、後から振り返らないと分かりません。結果で判断を笑わず、判断の根拠を点検することが大切です。

この章句が説くこと

奥平家中津用心邪推小倉空振り

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