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福翁自伝 / 暗殺の心配・長州室津の心配

是れも私が姓名を隠して豊前中津から江戸に帰て来た時の事です。元治元年、私が中津に行て、小幡篤次郎兄弟を始め同藩子弟七、八名に洋学修業を勧めて共に出府するときに、中津から先ず船に乗て出帆すると、二、三日天気が悪くて、風次第で何処の港に入るか知れない、スルと南無三宝、攘夷最中の長州室津と云う港に船が着た。そのとき私は同行少年の名を借りて三輪光五郎(今日は府下目黒のビール会社に居る)と名乗て居たが、一寸上陸して髪結床に行た所が、床の親仁が喋々述べて居る、「幕府を打潰す――毛唐人を追巻くると云い、女子供の唄の文句は忘れたが、「やがて長門は江戸になるとか何とか云うことを面白そうに唄うて居る、そのあたりを見れば兵隊が色々な服装をして鉄砲を担いで威張て居るから、若しも福澤と云う正体が現われては、たった一発と、安い気はしないが、爰が大事と思い態と平気な顔をして、唯順風を祈て船の出られるのを待て居るその間の怖さと云うものは、何の事はない、躄者が病犬に囲まれたようなものでした。

新字:是れも私が姓名を隠して豊前中津から江戸に帰て来た時の事です。元治元年、私が中津に行て、小幡篤次郎兄弟を始め同藩子弟七、八名に洋学修業を勧めて共に出府するときに、中津から先ず船に乗て出帆すると、二、三日天気が悪くて、風次第で何処の港に入るか知れない、スルと南無三宝、攘夷最中の長州室津と云う港に船が着た。そのとき私は同行少年の名を借りて三輪光五郎(今日は府下目黒のビール会社に居る)と名乗て居たが、一寸上陸して髪結床に行た所が、床の親仁が喋々述べて居る、「幕府を打潰す――毛唐人を追巻くると云い、女子供の唄の文句は忘れたが、「やがて長門は江戸になるとか何とか云うことを面白そうに唄うて居る、そのあたりを見れば兵隊が色々な服装をして鉄砲を担いで威張て居るから、若しも福沢と云う正体が現われては、たった一発と、安い気はしないが、爰が大事と思い態と平気な顔をして、唯順風を祈て船の出られるのを待て居るその間の怖さと云うものは、何の事はない、躄者が病犬に囲まれたようなものでした。

書き下し

是れも私が姓名を隠して豊前中津から江戸に帰て来た時の事です。元治元年、私が中津に行て、小幡篤次郎兄弟を始め同藩子弟七、八名に洋学修業を勧めて共に出府するときに、中津から先ず船に乗て出帆すると、二、三日天気が悪くて、風次第で何処の港に入るか知れない、スルと南無三宝、攘夷最中の長州室津と云う港に船が着た。そのとき私は同行少年の名を借りて三輪光五郎(今日は府下目黒のビール会社に居る)と名乗て居たが、一寸上陸して髪結床に行た所が、床の親仁が喋々述べて居る、「幕府を打潰す――毛唐人を追巻くると云い、女子供の唄の文句は忘れたが、「やがて長門は江戸になるとか何とか云うことを面白そうに唄うて居る、そのあたりを見れば兵隊が色々な服装をして鉄砲を担いで威張て居るから、若しも福澤と云う正体が現われては、たった一発と、安い気はしないが、爰が大事と思い態と平気な顔をして、唯順風を祈て船の出られるのを待て居るその間の怖さと云うものは、何の事はない、躄者が病犬に囲まれたようなものでした。

現代語訳

これも、私が姓名を隠して豊前中津から江戸に帰ってきたときのことです。元治元年、私が中津に行って、小幡篤次郎兄弟をはじめ同藩の子弟七、八名に洋学修業を勧め、共に江戸に出るとき、中津からまず船に乗って出帆すると、二、三日天気が悪く、風次第でどの港に入るか分かりません。すると南無三宝、攘夷の真っ最中の長州の室津という港に船が着きました。そのとき私は同行の少年の名を借りて、三輪光五郎(今は東京の目黒のビール会社にいる)と名乗っていましたが、ちょっと上陸して髪結床に行ったところ、床屋の親父がしきりにしゃべっています。「幕府を打ち潰す、毛唐人を追い払う」と言い、女子供の唄の文句は忘れましたが、「やがて長門は江戸になる」とか何とか言うことを、面白そうに唄っています。そのあたりを見れば、兵隊がいろいろな服装をして鉄砲を担いで威張っているので、もしも福沢という正体が現れたら、たった一発と、安心はできませんが、ここが大事と思い、わざと平気な顔をして、ただ順風を祈って船が出られるのを待っている、その間の怖さというものは、何のことはない、足の不自由な者が病んだ犬に囲まれたようなものでした。

解説

元治元年、中津から江戸へ戻る船が風のために攘夷の本拠、長州の室津に入ってしまった場面です。福沢は偽名を名乗り、髪結床で聞こえる倒幕と攘夷の唄を、平気な顔をしてやり過ごしました。足の不自由な者が病犬に囲まれたようだという比喩に、逃げ場のなさが出ています。恐れを悟られないように平静を装う判断は、予期せぬ場面に放り込まれたとき、自分の立場を見極めて振る舞う技術でもあります。想定外の場に出たとき、まず状況の中での自分の位置を確かめる冷静さが、結果を分けます。

この章句が説くこと

室津長州偽名攘夷平気な顔元治元年

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