福翁自伝 / 暗殺の心配・老母の大坂見物も叶わず
扨神戸に着た処で、母は天保七年、大阪を去てから三十何年になる、誠に久し振りの事であるから、今度こそ大阪、京都方々を思うさま見物させて悦ばせようと、中津出帆の時から楽しんで居た処が、神戸に上陸して旅宿に着て見ると、東京の小幡篤次郎から手紙が来てあるその手紙に、昨今京阪の間甚だ穏かならず、少々聞込みし事もあれば、神戸に着船したらば成るたけ人に知られぬように注意して、早々郵船にて帰京せよとある。ヤレ/\又しても面百くない報だ、左ればとてこんな忌な事を老母の耳に入れるでもなしと思い、何かつまらぬ口実を作て、折角楽しみにした上方見物も罷めにして、空しく東京に帰て来ました。
書き下し
扨神戸に着た処で、母は天保七年、大阪を去てから三十何年になる、誠に久し振りの事であるから、今度こそ大阪、京都方々を思うさま見物させて悦ばせようと、中津出帆の時から楽しんで居た処が、神戸に上陸して旅宿に着て見ると、東京の小幡篤次郎から手紙が来てあるその手紙に、昨今京阪の間甚だ穏かならず、少々聞込みし事もあれば、神戸に着船したらば成るたけ人に知られぬように注意して、早々郵船にて帰京せよとある。ヤレ/\又しても面百くない報だ、左ればとてこんな忌な事を老母の耳に入れるでもなしと思い、何かつまらぬ口実を作て、折角楽しみにした上方見物も罷めにして、空しく東京に帰て来ました。
現代語訳
さて神戸に着いたところで、母は天保七年に大阪を去ってから三十何年になります。まことに久しぶりのことですから、今度こそ大阪、京都を方々思うさま見物させて喜ばせようと、中津を出帆するときから楽しみにしていたところ、神戸に上陸して旅宿に着いてみると、東京の小幡篤次郎から手紙が来ていました。その手紙に、昨今、京阪の間はまことに穏やかでなく、少々聞き込んだこともあるので、神戸に着船したらなるべく人に知られぬよう注意して、早々に郵船で帰京せよとあります。やれやれ、またしても面白くない知らせです。かといってこんな嫌なことを老母の耳に入れるでもないと思い、何かつまらない口実をつくって、せっかく楽しみにしていた上方見物もやめにして、むなしく東京に帰ってきました。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・長崎遊学・大阪着大阪に着て久振で兄に逢うのみならず、屋敷の内外に幼ない時から私を知てる者が沢山ある。私は三歳の時に国に帰て二十二歳に再び行たのですから、私の生れた時に知てる者は沢山。私の面が何処か幼顔に肖て居ると云うその中には、私に乳を呑まして呉れた仲仕の内儀さんもあれば、又今度兄の供をして中津から来て居る武八と云う極質朴な田舎男は、先年も大阪の私の家に奉公して私のお守をした者で、私が大阪に着た翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目の処を通ると、男の云うに、お前の生れる時に我身夜中にこの横町の彼の産婆さんの処に迎いに行たことがある、その産婆さんは今も達者にし居る、それからお前が段々大きくなって、此身お前をだいて毎日々々湊の部屋(勧進元)に相撲の稽古を見に行た、その産婆さんの家は彼処じゃ湊の稽古場は此処の方じゃと、指をさして見せたときには、私も旧を懐うて胸一杯になって思わず涙をこぼしました。都て如斯な訳けで私はどうも旅とは思われぬ、真実故郷に帰た通りで誠に宜い心地。それから兄が私に如何して貴様は出し抜けに此処に来たのかという。兄の事であるから構わず斯う云う次第で参りましたと云たら、「乃公が居なければ宜いが、道の順序を云て見れば貴様は長崎から来るのに中津の方が順路だ。その中津を横に見ておッ母さんの処を避て来たではないか。それも乃公が此処に居なければ兎も角、乃公が此処で貴様に面会しながら之を手放して江戸に行けと云えば兄弟共謀だ。如何にも済まぬではないか。おッ母さんは夫程に思わぬだろうが、如何しても乃公が済まぬ。それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ、大阪で蘭学を学ぶが宜いと云うので、兄の処に居て先生を捜したら緒方と云う先生のある事を聞出した。
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福翁自伝・暗殺の心配・一夜の危険(1)ソレから家の始末も大抵出来て、いよ/\中津の廻米船に乗て神戸まで行き、神戸から東京までの間は外国の郵船に乗る積りで、サア乗船と云う所が、中津の海は浅くて都合が悪い。中津の西一里ばかりの処に鵜ノ島と云う港があって、其処に船が掛って居ると云うから、私はそのとき大病後ではあるし、老人、子供の連れであるから、前日から鵜ノ島に行て一泊して翌朝ゆるりと乗船する趣向にして、その晩鵜ノ島の船宿のような家に泊りましたが、知らぬが仏とは申しながら、後に聞けばこの夜が私の万死一生、恐ろしい時であったと云うは、その船宿の若い主人が例の有志者の仲間であるとは恐ろしい、私の一行は老母と姪とその外に近親今泉の後室と小児(小児は秀太郎六歳)役に立ちそうな男は私一人、是れも病後のヒョロ/\と云うその人数を留めて置いて、宿の奴が中津の同志者に使を走らして、「今夜は上都合云々と内通したから堪らない。ソコデ以て中津の有志者即ち暗殺者は、金谷と云う処に集会を催して、今夜いよ/\鵜ノ島に押掛けて福澤を殺すことに議決した、その理由は、福澤が近来奥平の若殿様を誘引して亜米利加に遣ろうなんと云う大反れた計画をして居るのは怪しからぬ、不臣な奴だと云う罪状であるから、満座同音、国賊の誅罰に異論はない。
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福翁自伝・暗殺の心配・警戒却て無益なり前の鵜ノ島の話に引替えて、誠に馬鹿々々しい事もあります。明治五年かと思う。私が中津の学校を視察に行き、その時旧藩主に勧めて一家挙って東京に引越し、私が供をして参ると云うことになった。処で藩主が藩地を去るは固より士族の悦ぶことでない。私も能くその情実は知て居るけれども、昔の大名風で藩地に居れば奥平家の維持が出来ない、思切て断行せよと云うので、疾雷耳を掩うに暇あらず、僅か六、七日間の支度で、御隠居様も御姫様も中津の浜から船に乗て馬関に行き、馬関で蒸気船に乗替えて神戸と、都ての用意調い、いよ/\中津の船に乗て夕刻沖の方に出掛けた処が生憎風がない、夜中水尾木の処にボチャ/\して少しも前に進まない。ソコで私は考えた。「コリャ大変だ、爰にグヅ/\して居ると例の若武者が屹と遣て来るに違いない、来ればその目指す敵は自分一人だ、幸い夜の明けぬ中に船を上て陸行するに若くはなしと決断して、極暑の時であったが、払暁マダ暗い中に中津の城下に引返して、その足で小倉まで駈けて行きました。所が大きに御苦労、後に聞けばこの時には藩士も至極穏かで何の議論もなかったと云う。此方が邪推を運らして用心する時は何でもなく、ポカンとして居る時は一番危い、実に困たものです。
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福翁自伝・長崎遊学・長崎に居ること難し(1)ソリャ斯う云う次第になって来た。その奥平壹岐と云う人に与兵衛と云う実父の隠居があって、私共は之を御隠居様と崇めて居た。ソコデ私の父は二十年前に死んで居るのですけれども、私の兄が成長の後に父のするような事をして、又大阪に行て勤番をして居て、中津には母一人で何もない。姉は皆嫁いて居て、身寄りの若い者の中には私の従兄の藤本元岱と云う医者が唯一人、能く事が分り書も能く読める学者であるが、そこで中津に在る彼の御隠居様が無法な事をしたと云うは、何れ長崎の倅壹岐の方から打合のあったものと見えて、その隠居が従兄の藤本を呼に来て、隠居の申すに、諭吉を呼還せ、アレが居ては倅壹岐の妨げになるから早々呼還せ、但しソレに就ては母が病気だと申遣わせと云う御直の厳命が下ったから、固より否むことは出来ず、唯畏りましたと答えて、母にもそのよしを話して、ソレカラ従兄が私に手紙を寄送して、母の病気に付き早々帰省致せと云う表向の手紙と、又別紙に、実は隠居から斯う/\云う次第、余儀なく手紙を出したが、決して母の身を案じるなと詳に事実を書いて呉れたから、私は之を見て実に腹が立った。
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