福翁自伝 / 王政維新・幕府の攘夷主義(4)
然らば則ち之に取て代ろうと云う上方の勤王家はドウだと云うに、彼等が代たら却てお釣の出るような攘夷家だ。コリャ又幕府よりか一層悪い。勤王攘夷と佐幕攘夷と名こそ変れ、その実は双方共に純粋無雑な攘夷家でその攘夷に深浅厚薄の別はあるも、詰る所は双方共に尊攘の仕振りが善いとか悪いとか云うのが争論の点で、その争論喧嘩が遂に上方の攘夷家と関東の攘夷家と鉄砲を打合うような事になるであろう。ドチラも頼むに足らず、その中にも上方の勤王家は、事実に於て人殺しもすれば放火もして居る、その目的を尋ねて見ると、仮令いこの国を焦土にしても飽くまで攘夷をしなければならぬと云う触込みで、一切万事一挙一動悉く攘夷ならざるはなし。然るに日本国中の人がワッとソレに応じて騒ぎ立て居るのであるから、何としても之に同情を表して仲間になるような事は出来られない。是れこそ実に国を滅す奴等だ、こんな不文不明な分らぬ乱暴人に国を渡せば亡国は限前に見える、情けない事だと云う考が始終胸に染込んで居たから、何としても上方の者に左袒する気にならぬ。その前後に緒方の隠居は江戸に居る。是れは故緒方洪庵先生の夫人で、私は阿母さんのようにして居る恩人である。或時に隠居が私と箕作を呼んで、ドウじゃい、お前さん方は幕府に雇われて勤めて居るけれども、馬鹿々々しい止しなさい、ソレよりか上方に行て御覧。ソリャどうもいろ/\な面白いことかあるぜ、と云う。段々聞て見ると村田造六即ち大村益次郎とか佐野栄寿(常民)とか云うような有志者が、皆緒方の家に出入をして居る。ソレを隠居さんが知て居て、私と箕作の事は自分の子のようにして居たものだから、江戸に居るな、上方に行けと勧めたのも無理はない。その時に私は、誠に難有うございます、大阪に行けば必ず面白い仕事がありましょうけれども、私はドウも首をもがれたッて攘夷のお供は出来ません、爾うじゃないかと、箕作と云て断わったことがありましたが、その位の訳けで、ドウしてもその上方勢に与みすることは出来なかった。
書き下し
然らば則ち之に取て代ろうと云う上方の勤王家はドウだと云うに、彼等が代たら却てお釣の出るような攘夷家だ。コリャ又幕府よりか一層悪い。勤王攘夷と佐幕攘夷と名こそ変れ、その実は双方共に純粋無雑な攘夷家でその攘夷に深浅厚薄の別はあるも、詰る所は双方共に尊攘の仕振りが善いとか悪いとか云うのが争論の点で、その争論喧嘩が遂に上方の攘夷家と関東の攘夷家と鉄砲を打合うような事になるであろう。ドチラも頼むに足らず、その中にも上方の勤王家は、事実に於て人殺しもすれば放火もして居る、その目的を尋ねて見ると、仮令いこの国を焦土にしても飽くまで攘夷をしなければならぬと云う触込みで、一切万事一挙一動悉く攘夷ならざるはなし。然るに日本国中の人がワッとソレに応じて騒ぎ立て居るのであるから、何としても之に同情を表して仲間になるような事は出来られない。是れこそ実に国を滅す奴等だ、こんな不文不明な分らぬ乱暴人に国を渡せば亡国は限前に見える、情けない事だと云う考が始終胸に染込んで居たから、何としても上方の者に左袒する気にならぬ。その前後に緒方の隠居は江戸に居る。是れは故緒方洪庵先生の夫人で、私は阿母さんのようにして居る恩人である。或時に隠居が私と箕作を呼んで、ドウじゃい、お前さん方は幕府に雇われて勤めて居るけれども、馬鹿々々しい止しなさい、ソレよりか上方に行て御覧。ソリャどうもいろ/\な面白いことかあるぜ、と云う。段々聞て見ると村田造六即ち大村益次郎とか佐野栄寿(常民)とか云うような有志者が、皆緒方の家に出入をして居る。ソレを隠居さんが知て居て、私と箕作の事は自分の子のようにして居たものだから、江戸に居るな、上方に行けと勧めたのも無理はない。その時に私は、誠に難有うございます、大阪に行けば必ず面白い仕事がありましょうけれども、私はドウも首をもがれたッて攘夷のお供は出来ません、爾うじゃないかと、箕作と云て断わったことがありましたが、その位の訳けで、ドウしてもその上方勢に与みすることは出来なかった。
現代語訳
それなら、これに取って代わろうという上方の勤王家はどうかというと、彼らが代わったら、かえってお釣りが来るほどの攘夷家です。これはまた幕府よりも一層悪い。勤王攘夷と佐幕攘夷と、名こそ変わりますが、その実は双方とも純粋無雑な攘夷家で、その攘夷に深浅厚薄の別があるにしても、つまるところ双方とも、尊攘のやり方が善いとか悪いとかいうのが争いの点で、その争論喧嘩が、ついには上方の攘夷家と関東の攘夷家とが鉄砲を撃ち合うようなことになるでしょう。どちらも頼むに足りず、その中でも上方の勤王家は、事実において人殺しもすれば放火もしている。その目的を尋ねてみると、たとえこの国を焦土にしても飽くまで攘夷をしなければならないという触れ込みで、一切万事、一挙一動ことごとく攘夷ならざるはなし。しかるに日本国中の人がワッとそれに応じて騒ぎ立てているのですから、どうしてもこれに同情を表して仲間になるようなことはできません。これこそ実に国を滅ぼす奴らだ、こんな不文不明な分からぬ乱暴人に国を渡せば、亡国は目前に見える、情けないことだという考えが始終胸にしみ込んでいたので、どうしても上方の者に味方する気になれません。その前後に緒方の隠居は江戸にいます。これは故緒方洪庵先生の夫人で、私は母さんのようにしている恩人です。あるとき、その隠居が私と箕作を呼んで、「どうじゃ、お前さん方は幕府に雇われて勤めているけれども、馬鹿馬鹿しい、止しなさい。それよりも上方に行ってご覧。それはどうもいろいろ面白いことがあるぜ」と言います。だんだん聞いてみると、村田蔵六、つまり大村益次郎とか、佐野栄寿(常民)とかいう有志者が、皆、緒方の家に出入りをしています。それを隠居さんが知っていて、私と箕作のことは自分の子のようにしていたものだから、江戸にいるな、上方に行けと勧めたのも無理はありません。そのとき私は、「誠にありがとうございます。大阪に行けば必ず面白い仕事がありましょうけれども、私はどうも首をもがれても攘夷のお供はできません。そうじゃないか」と箕作と言って断ったことがありましたが、そのくらいのわけで、どうしてもその上方勢に味方することはできませんでした。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・王政維新・洋行船中の談話夫れでも私に全く政治思想のないではない。例えば文久二年欧行の船中で松木弘安と箕作秋坪と私と三人、色々日本の時勢論を論じて、その時私が「ドウだ迚も幕府の一手持は六かしい、先ず諸大名を集めて独逸聯邦のようにしては如何と云うに、松木も箕作も、マアそんな事が穏かだろうと云う。夫れから段々身の上話に及んで、今日吾々共の思う通りを云えば、正米を年に二百俵貰うて親玉(将軍の事)の御師匠番になって、思う様に文明開国の説を吹込んで大変革をさして見たいと云うと、松木が手を拍て、左様だ/\、是れは遣て見たいと云たのは、松木の功名心もその時には二百俵の米を貰うて将軍に文明説を吹込むぐらいの事で、当時の洋学者の考は大抵皆大同小異、一身の為めに大きな事は考えない。後にその松木が寺島宗則となって、参議とか外務卿とか云う実際の国事に当たのは、実は本人の柄に於て商売違いであったと思います。 夫れは扨置き世の中の形勢を見れば、天下の浮浪即ち有志者は京都に集て居る。夫れから江戸の方では又幕府と云うものが勿論時の政府でリキンで居ると云う訳けで、日本の政治が東西二派に相分れて、勤王佐幕と云う二派の名が出来た。出来た所で、サア其処に至て私が如何するかと云うに、 第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国士族が極々嫌いで之に力を尽す気はない。 第二、左ればとて彼の勤王家と云う一類を見れば、幕府より尚お一層甚だしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気は固よりない。 第三、東西二派の理非曲直は姑く扨置き、男子が所謂宿昔青雲の志を達するは乱世に在り、勤王でも佐幕でも試みに当て砕けると云うが書生の事であるが、私にはその性質習慣がない。 今その次第を語りましょう。抑も私が始めて江戸に来た時からして幕府の人には感服しない。一寸と旗本御家人に出遇う所が、応接振りは上品で、田舎者と違い弁舌も好く行儀も立派であるが、何分にも外辺ばかりで、物事を微密に考える脳力もなければ又腕力も弱そうに見える、けれども先方は幕府の御直参、此方は又る影もない陪臣だから手の着けようもなく、旗本などに対してはその人の居ない処でも何様々々と尊敬して居るその塩梅式は、京都の御公卿様を取扱うように、唯見た所ばかりを丁寧にして心の中では見縊り抜て居た。
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福翁自伝・攘夷論・緒方先生の急病村田蔵六の変態(1)所で京都の方では愈よ五月十日(文久三年)が攘夷の期限だと云う。ソレで和蘭の商船が下ノ関を通ると、下ノ関から鉄砲を打掛けた。けれども幸に和蘭船は沈みもせずに通たが、ソレがなか/\大騒ぎになって、世の中は益々恐ろしい事になって来た。所でその歳の六月十日に緒方洪庵先生の不幸。その前から江戸に出て来て下谷に居た緒方先生が、急病で大層吐血したと云う急使に、私は実に胆を潰した。その二、三日前に先生の処へ行てチャント様子を知て居るのに、急病とは何事であろうと、取るものも取敢えず即刻宅を駈出して、その時分には人力車も何もありはしないから、新銭座から下谷まで駈詰で緒方の内に飛込んだ所が、もう縡切れて仕舞た跡。是れはマア如何したら宜かろうかと丸で夢を見たような訳け。道の近い門人共は疾く先に来て、後から来る者も多い。三十人も五十人も詰掛けて、外に用事もなし、今夜は先ずお通夜として皆起きて居る。所が狭い家だから大勢坐る処もないような次第で、その時は恐ろしい暑い時節で、坐敷から玄関から台所まで一杯人が詰て、私は夜半玄関の敷台の処に腰を掛けて居たら、その時に村田蔵六(後に大村益次郎)が私の隣に来て居たから、「オイ村田君――君は何時長州から帰て来たか。「この間帰た。「ドウダエ馬関では大変な事を遣たじゃないか。何をするのか気狂共が、呆返た話じゃないかと云うと、村田が眼に角を立て、「何だと、遣たら如何だ。「如何だッて、この世の中に攘夷なんて丸で気狂いの沙汰じゃないか。「気狂いとは何だ、怪しからん事を云うな。長州ではチャント国是が極まってある。
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福翁自伝・攘夷論・緒方先生の急病村田蔵六の変態(2)あんな奴原に我儘をされて堪るものか。殊に和蘭の奴が何だ、小さい癖に横風な面して居る。之を打攘うのは当然だ。モウ防長の士民は悉く死尽しても許しはせぬ、何処までも遣るのだと云うその剣幕は以前の村田ではない。実に思掛けもない事で、是れは変なことだ、妙なことだと思うたから、私は宜加減に話を結んで、夫れから箕作の処に来て、大変だ/\、村田の剣幕は是れ/\の話だ、実に驚いた、と云うのはその前から村田が長州に行たと云うことを聞て、朋友は皆心配して、あの攘夷の真盛りに村田がその中に呼込まれては身が危い、どうか径我のないようにしたいものだと、寄ると触ると噂をして居る其処に、本人の村田の話を聞て見れば今の次第、実に訳けが分らぬ。一体村田は長州に行て如何にも怖いと云うことを知て、そうして攘夷の仮面を冠て態とりきんで居るのだろうか、本心からあんな馬鹿を云う気遣はあるまい、どうも彼の気が知れない。「そうだ、実に分らない事だ。兎にも角にも一切彼の男の相手になるな。下手な事を云うとどんな間違いになるか知れぬから、暫く別ものにして置くが宜いと、箕作と私と二人云合して、夫れから外の朋友にも、村田は変だ、滅多な事を云うな、何をするか知れないからと気を付けた。是れがその時の実事談で、今でも不審が晴れぬ。当時村田は自身防禦の為めに攘夷の仮面を冠て居たのか、又は長州に行て、どうせ毒を舐めれば皿までと云うような訳けで、本当に攘夷主義になったのか分りませぬが、何しろ私を始め箕作秋坪その外の者は、一時彼に驚かされてその儘ソーッと棄置たことがあります。
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福翁自伝・老余の半生・忠臣義士の浮薄を厭う(1)第三、幕末に勤王佐幕の二派が東西に立分れて居るその時に、私は唯古来の門閥制度が嫌い、鎖国攘夷が嫌いばかりで、固より幕府に感服せぬのみか、コンな政府は潰して仕舞うが宜いと不断気焔を吐て居たが、左ればとて勤王連の様を見れば、鎖攘論は幕府に較べて一段も二段も劇しいから、固よりコンな連中に心を寄せる筈はない。唯黙って傍観して居る中に維新の騒動になって、徳川将軍は逃げて帰て来た。スルと幕府の人は勿論、諸方の佐幕連が中々喧しくなって議論百出、東照神君三百年の遺業は一朝にして棄つべからず、三百年の君恩は臣子の身として忘るべからず、薩長何者ぞ、唯是れ関ヶ原の降参武士のみ、常々たる三河譜代の八万騎、何の面目あれば彼の降参武士に膝を届すべきやなんて、大造な剣幕で、薩長の賊軍を東海道に邀え撃んとする者もあれば、軍艦を以て脱走する者もあり、策士論客は将軍に謁して一戦の奮発を促がし、諫争の極、声を放て号泣するなんぞは、如何にもエライ有様で、忠臣義士の共進会であったが、その忠義論もトウ/\行われずに幕府がいよ/\解散になると、忠臣義士は軍艦に乗て箱館に居る者もあれば、陸兵を指揮して東北地方に戦う者もあり、又はプリ/\立腹して静岡の方に行く者もあるその中で、忠義心の堅い者は東京を賊地と云て、東京で出来た物は菓子も喰わぬ、夜分寝る時にも東京の方は頭にせぬ、東京の話をすれば口が汚れる、話を聞けば耳が汚れると云う塩梅式は、丸で今世の伯夷、叔斉、静岡は恰も明治初年の首陽山であったのは凄まじい。所が一年立ち二年立つ中に、その伯夷、叔斉殿が首陽山に蕨の乏しいのを感じたか、ソロ/\山の麓に下りて、賊地の方にノッソリ首を出すのみか、身体を丸出にして新政府に出身、海陸の脱走人も静岡行の伯夷、叔斉も、猫も杓子も政府の辺に群れ集て、以前の賊徒今の官員衆に謁見、是れは初めて御目に掛るとも云われまい、兼て御存じの日本臣民で御座ると云うような調子で、君子は既往を語らず、前言前行は唯戯れのみと、双方打解けて波風なく治まりの付たのは誠に目出度い、何も咎立てするにも及ばぬようだが、私には少し説がある。
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福翁自伝・老余の半生・忠臣義士の浮薄を厭う(2)抑も王政維新の争が、政治主義の異同から起て、例えば勤王家は鎖国攘夷を主張し、佐幕家は開国改進を唱えて、遂に幕府の敗北と為り、その後に至て勤王家も大に悟りて開国主義に変じ、恰も佐幕家の宿論に投ずるが故に、之と共に爾後の方針を与にすると云えば至極尤もに聞ゆれども、当時の争に開鎖など云う主義の沙汰は少しもない。佐幕家の進退は一切万事、君臣の名分から割出して、徳川三百年の天下云々と争いながら、その天下が無くなったら争の点も無くなって平気の平左衛門とは可笑しい。ソレも理窟の分らぬ小輩ならば固より宜しいが、争論の発起人で頻りに忠義論を唱えて伯夷叔斉を気取り、又はその身躬から脱走して世の中を騒がした人達の気が知れない。勝負は時の運に由る、負けても恥かしいことはない、議論が中らなかっても構わないが、遣傷なったらその身の不運と諦らめて、山に引込むか、寺の坊主にでもなって、生涯を送れば宜いと思えども、中々以て坊主どころか、洒蛙々々と高い役人になって嬉しがって居るのが私の気に喰わぬ。扨々忠臣義士も当てにならぬ、君臣主従の名分論も浮気なものだ、コンな薄ぺらな人間と伍を為すよりも独りで居る方が心持が宜いと説を極めて、初一念を守り、政治の事は一切人に任せて、自分は自分だけの事を勉めるように身構えをしました。実は私の身の上に何も縁のないことで、入らざるお世話のようだが、前後の事情を能く知て居るから、忠臣義士の成行を見るとツイ気の毒になって、意気地なしのように腰抜のように、思うまいと思ても思われて堪らない。全く私の癇癪でしょうが、是れも自然に私の功名心を淡泊にさせた原因であろうと思われます。
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福翁自伝・王政維新・幕府の攘夷主義(1)幕政の殻威張りが癇癪に障ると云うのは、是れは此方の血気の熱心であるとして姑く差置き、扨この日本を開いて外国交際をドウするかと云うことになっては、如何も見て居られない、と云うのは私は若い時から洋書を読で、夫れから亜米利加に行き、その次には欧羅巴に行き、又亜米利加に行て、只学問ばかりでなく実地を見聞して見れば、如何しても対外国是は斯う云うように仕向けなければならぬと、ボンヤリした処でも外国交際法と云うことに気の付くは当然の話であろう。ソコでその私の考から割出して、この徳川政府を見ると殆んど取所のない有様で、当時日本国中の輿論は都て攘夷で、諸藩残らず攘夷藩で徳川幕府ばかりが開国論のように見えもすれば聞えもするようでありますけれども、正味の精神を吟味すれば天下随一の攘夷藩、西洋嫌いは徳川であると云て間違いはあるまい。或は後年に至て大老井伊掃部頭は開国論を唱えた人であるとか開国主義であったとか云うような事を、世間で吹聴する人もあれば書に著わした者もあるが、開国主義なんて大嘘の皮、何が開国論なものか、存じ掛けもない話だ。井伊掃部頭と云う人は純粋無雑、申分のない参河武士だ。江戸の大城炎上のとき幼君を守護して紅葉山に立退き、周囲に枯草の繁りたるを見て非常の最中不用心なりとて、親から腰の一刀を抜てその草を切払い、手に幼君を擁して終夜家外に立詰めなりしと云う話がある。又この人が京都辺の攘夷論者を捕縛して刑に処したることはあれども、是れは攘夷論を悪む為めではない、浮浪の処士が横議して徳川政府の政権を犯すが故にその罪人を殺したのである。
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