福翁自伝 / 王政維新・洋行船中の談話
夫れでも私に全く政治思想のないではない。例えば文久二年欧行の船中で松木弘安と箕作秋坪と私と三人、色々日本の時勢論を論じて、その時私が「ドウだ迚も幕府の一手持は六かしい、先ず諸大名を集めて独逸聯邦のようにしては如何と云うに、松木も箕作も、マアそんな事が穏かだろうと云う。夫れから段々身の上話に及んで、今日吾々共の思う通りを云えば、正米を年に二百俵貰うて親玉(将軍の事)の御師匠番になって、思う様に文明開国の説を吹込んで大変革をさして見たいと云うと、松木が手を拍て、左様だ/\、是れは遣て見たいと云たのは、松木の功名心もその時には二百俵の米を貰うて将軍に文明説を吹込むぐらいの事で、当時の洋学者の考は大抵皆大同小異、一身の為めに大きな事は考えない。後にその松木が寺島宗則となって、参議とか外務卿とか云う実際の国事に当たのは、実は本人の柄に於て商売違いであったと思います。 夫れは扨置き世の中の形勢を見れば、天下の浮浪即ち有志者は京都に集て居る。夫れから江戸の方では又幕府と云うものが勿論時の政府でリキンで居ると云う訳けで、日本の政治が東西二派に相分れて、勤王佐幕と云う二派の名が出来た。出来た所で、サア其処に至て私が如何するかと云うに、 第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国士族が極々嫌いで之に力を尽す気はない。 第二、左ればとて彼の勤王家と云う一類を見れば、幕府より尚お一層甚だしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気は固よりない。 第三、東西二派の理非曲直は姑く扨置き、男子が所謂宿昔青雲の志を達するは乱世に在り、勤王でも佐幕でも試みに当て砕けると云うが書生の事であるが、私にはその性質習慣がない。 今その次第を語りましょう。抑も私が始めて江戸に来た時からして幕府の人には感服しない。一寸と旗本御家人に出遇う所が、応接振りは上品で、田舎者と違い弁舌も好く行儀も立派であるが、何分にも外辺ばかりで、物事を微密に考える脳力もなければ又腕力も弱そうに見える、けれども先方は幕府の御直参、此方は又る影もない陪臣だから手の着けようもなく、旗本などに対してはその人の居ない処でも何様々々と尊敬して居るその塩梅式は、京都の御公卿様を取扱うように、唯見た所ばかりを丁寧にして心の中では見縊り抜て居た。
書き下し
夫れでも私に全く政治思想のないではない。例えば文久二年欧行の船中で松木弘安と箕作秋坪と私と三人、色々日本の時勢論を論じて、その時私が「ドウだ迚も幕府の一手持は六かしい、先ず諸大名を集めて独逸聯邦のようにしては如何と云うに、松木も箕作も、マアそんな事が穏かだろうと云う。夫れから段々身の上話に及んで、今日吾々共の思う通りを云えば、正米を年に二百俵貰うて親玉(将軍の事)の御師匠番になって、思う様に文明開国の説を吹込んで大変革をさして見たいと云うと、松木が手を拍て、左様だ/\、是れは遣て見たいと云たのは、松木の功名心もその時には二百俵の米を貰うて将軍に文明説を吹込むぐらいの事で、当時の洋学者の考は大抵皆大同小異、一身の為めに大きな事は考えない。後にその松木が寺島宗則となって、参議とか外務卿とか云う実際の国事に当たのは、実は本人の柄に於て商売違いであったと思います。 夫れは扨置き世の中の形勢を見れば、天下の浮浪即ち有志者は京都に集て居る。夫れから江戸の方では又幕府と云うものが勿論時の政府でリキンで居ると云う訳けで、日本の政治が東西二派に相分れて、勤王佐幕と云う二派の名が出来た。出来た所で、サア其処に至て私が如何するかと云うに、 第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国士族が極々嫌いで之に力を尽す気はない。 第二、左ればとて彼の勤王家と云う一類を見れば、幕府より尚お一層甚だしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気は固よりない。 第三、東西二派の理非曲直は姑く扨置き、男子が所謂宿昔青雲の志を達するは乱世に在り、勤王でも佐幕でも試みに当て砕けると云うが書生の事であるが、私にはその性質習慣がない。 今その次第を語りましょう。抑も私が始めて江戸に来た時からして幕府の人には感服しない。一寸と旗本御家人に出遇う所が、応接振りは上品で、田舎者と違い弁舌も好く行儀も立派であるが、何分にも外辺ばかりで、物事を微密に考える脳力もなければ又腕力も弱そうに見える、けれども先方は幕府の御直参、此方は又る影もない陪臣だから手の着けようもなく、旗本などに対してはその人の居ない処でも何様々々と尊敬して居るその塩梅式は、京都の御公卿様を取扱うように、唯見た所ばかりを丁寧にして心の中では見縊り抜て居た。
現代語訳
それでも私にまったく政治思想がないわけではありません。たとえば文久二年の欧州行きの船中で、松木弘安と箕作秋坪と私と三人、いろいろ日本の時勢論を論じたとき、私が、「どうだ、とても幕府一手で持つのは難しい。まず諸大名を集めてドイツ連邦のようにしてはどうか」と言うと、松木も箕作も、まあそんなことが穏当だろうと言います。それからだんだん身の上話に及んで、「今日我々の思う通りを言えば、正米を年に二百俵もらって、親玉(将軍のこと)のお師匠番になって、思うように文明開国の説を吹き込んで、大変革をさせてみたい」と言うと、松木が手を打って、「そうだそうだ、これはやってみたい」と言ったのは、松木の功名心もそのときには二百俵の米をもらって将軍に文明説を吹き込むくらいのことで、当時の洋学者の考えは、おおむね皆大同小異、一身のために大きなことは考えませんでした。のちにその松木が寺島宗則となって、参議とか外務卿とかいう実際の国事に当たったのは、実は本人の柄において商売違いだったと思います。 それはさておき、世の中の形勢を見れば、天下の浮浪、すなわち有志者は京都に集まっています。それから江戸のほうでは、また幕府というものが、もちろん時の政府で力んでいるというわけで、日本の政治が東西二派に分かれ、勤王佐幕という二派の名ができました。できたところで、さあそこに至って私がどうするかというと、 第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国の士族が極めて嫌いで、これに力を尽くす気はない。 第二、さりとてあの勤王家という一類を見れば、幕府よりなお一層ひどい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気はもちろんない。 第三、東西二派の理非曲直はしばらくさておき、男子がいわゆる宿昔の青雲の志を達するのは乱世にある、勤王でも佐幕でも試みに当たって砕けるというのが書生のことだが、私にはその性質習慣がない。 今その次第を語りましょう。そもそも私が初めて江戸に来た時から、幕府の人には感服しません。ちょっと旗本や御家人に出会うと、応接振りは上品で、田舎者と違って弁舌もよく行儀も立派ですが、何分にも外面ばかりで、物事を綿密に考える脳力もなければ腕力も弱そうに見えます。けれども先方は幕府の直参、こちらは見る影もない陪臣だから手の着けようもなく、旗本などに対してはその人のいない所でも何様何様と尊敬しているふうでしたが、それは京都の公卿様を扱うように、ただ見た目ばかりを丁寧にして、心の中では見くびりきっていました。
解説
この章句が説くこと
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