福翁自伝 / 老余の半生・忠臣義士の浮薄を厭う(1)
第三、幕末に勤王佐幕の二派が東西に立分れて居るその時に、私は唯古来の門閥制度が嫌い、鎖国攘夷が嫌いばかりで、固より幕府に感服せぬのみか、コンな政府は潰して仕舞うが宜いと不断気焔を吐て居たが、左ればとて勤王連の様を見れば、鎖攘論は幕府に較べて一段も二段も劇しいから、固よりコンな連中に心を寄せる筈はない。唯黙って傍観して居る中に維新の騒動になって、徳川将軍は逃げて帰て来た。スルと幕府の人は勿論、諸方の佐幕連が中々喧しくなって議論百出、東照神君三百年の遺業は一朝にして棄つべからず、三百年の君恩は臣子の身として忘るべからず、薩長何者ぞ、唯是れ関ヶ原の降参武士のみ、常々たる三河譜代の八万騎、何の面目あれば彼の降参武士に膝を届すべきやなんて、大造な剣幕で、薩長の賊軍を東海道に邀え撃んとする者もあれば、軍艦を以て脱走する者もあり、策士論客は将軍に謁して一戦の奮発を促がし、諫争の極、声を放て号泣するなんぞは、如何にもエライ有様で、忠臣義士の共進会であったが、その忠義論もトウ/\行われずに幕府がいよ/\解散になると、忠臣義士は軍艦に乗て箱館に居る者もあれば、陸兵を指揮して東北地方に戦う者もあり、又はプリ/\立腹して静岡の方に行く者もあるその中で、忠義心の堅い者は東京を賊地と云て、東京で出来た物は菓子も喰わぬ、夜分寝る時にも東京の方は頭にせぬ、東京の話をすれば口が汚れる、話を聞けば耳が汚れると云う塩梅式は、丸で今世の伯夷、叔斉、静岡は恰も明治初年の首陽山であったのは凄まじい。所が一年立ち二年立つ中に、その伯夷、叔斉殿が首陽山に蕨の乏しいのを感じたか、ソロ/\山の麓に下りて、賊地の方にノッソリ首を出すのみか、身体を丸出にして新政府に出身、海陸の脱走人も静岡行の伯夷、叔斉も、猫も杓子も政府の辺に群れ集て、以前の賊徒今の官員衆に謁見、是れは初めて御目に掛るとも云われまい、兼て御存じの日本臣民で御座ると云うような調子で、君子は既往を語らず、前言前行は唯戯れのみと、双方打解けて波風なく治まりの付たのは誠に目出度い、何も咎立てするにも及ばぬようだが、私には少し説がある。
書き下し
第三、幕末に勤王佐幕の二派が東西に立分れて居るその時に、私は唯古来の門閥制度が嫌い、鎖国攘夷が嫌いばかりで、固より幕府に感服せぬのみか、コンな政府は潰して仕舞うが宜いと不断気焔を吐て居たが、左ればとて勤王連の様を見れば、鎖攘論は幕府に較べて一段も二段も劇しいから、固よりコンな連中に心を寄せる筈はない。唯黙って傍観して居る中に維新の騒動になって、徳川将軍は逃げて帰て来た。スルと幕府の人は勿論、諸方の佐幕連が中々喧しくなって議論百出、東照神君三百年の遺業は一朝にして棄つべからず、三百年の君恩は臣子の身として忘るべからず、薩長何者ぞ、唯是れ関ヶ原の降参武士のみ、常々たる三河譜代の八万騎、何の面目あれば彼の降参武士に膝を届すべきやなんて、大造な剣幕で、薩長の賊軍を東海道に邀え撃んとする者もあれば、軍艦を以て脱走する者もあり、策士論客は将軍に謁して一戦の奮発を促がし、諫争の極、声を放て号泣するなんぞは、如何にもエライ有様で、忠臣義士の共進会であったが、その忠義論もトウ/\行われずに幕府がいよ/\解散になると、忠臣義士は軍艦に乗て箱館に居る者もあれば、陸兵を指揮して東北地方に戦う者もあり、又はプリ/\立腹して静岡の方に行く者もあるその中で、忠義心の堅い者は東京を賊地と云て、東京で出来た物は菓子も喰わぬ、夜分寝る時にも東京の方は頭にせぬ、東京の話をすれば口が汚れる、話を聞けば耳が汚れると云う塩梅式は、丸で今世の伯夷、叔斉、静岡は恰も明治初年の首陽山であったのは凄まじい。所が一年立ち二年立つ中に、その伯夷、叔斉殿が首陽山に蕨の乏しいのを感じたか、ソロ/\山の麓に下りて、賊地の方にノッソリ首を出すのみか、身体を丸出にして新政府に出身、海陸の脱走人も静岡行の伯夷、叔斉も、猫も杓子も政府の辺に群れ集て、以前の賊徒今の官員衆に謁見、是れは初めて御目に掛るとも云われまい、兼て御存じの日本臣民で御座ると云うような調子で、君子は既往を語らず、前言前行は唯戯れのみと、双方打解けて波風なく治まりの付たのは誠に目出度い、何も咎立てするにも及ばぬようだが、私には少し説がある。
現代語訳
第三。幕末に勤王と佐幕の二派が東西に分かれていたとき、私はただ昔からの門閥制度が嫌いで、鎖国攘夷が嫌いなだけで、もとより幕府に感服しないばかりか、こんな政府は潰してしまうのがよいといつも気炎を吐いていましたが、かといって勤王連中の様子を見れば、鎖国論は幕府に比べて一段も二段も激しいので、もちろんこんな連中に心を寄せるはずはありません。ただ黙って傍観しているうちに維新の騒動になり、徳川将軍は逃げ帰ってきました。すると幕府の人はもちろん、各地の佐幕連中がなかなか騒がしくなり、議論百出して、東照神君三百年の遺業は一朝にして捨てるべきではない、三百年の君恩は臣下の身として忘れてはならない、薩長何者ぞ、ただの関ヶ原の降参武士にすぎない、堂々たる三河譜代の八万騎が、何の面目があってあの降参武士に膝を屈するのか、などと大変な剣幕で、薩長の賊軍を東海道に迎え撃とうとする者もあれば、軍艦で脱走する者もあり、策士や論客は将軍にお目通りして一戦の奮起を促し、諫言の極みに声を上げて号泣するなど、いかにも大した有様で、まるで忠臣義士の共進会でした。 ところがその忠義論もついに行われず、幕府がいよいよ解散になると、忠臣義士は軍艦に乗って箱館にいる者もあれば、陸兵を指揮して東北地方で戦う者もあり、またぷりぷり腹を立てて静岡のほうへ行く者もありました。その中で忠義心の堅い者は、東京を賊地と呼び、東京でできた物は菓子も食わない、夜寝るときにも東京の方角は頭にしない、東京の話をすれば口が汚れる、話を聞けば耳が汚れる、という具合で、まるで現代の伯夷・叔斉、静岡はあたかも明治初年の首陽山のようで、すさまじいものでした。ところが一年たち二年たつうちに、その伯夷・叔斉殿が、首陽山で蕨が乏しいのを感じたのか、そろそろ山の麓に下りてきて、賊地のほうにのっそり首を出すだけでなく、身体を丸出しにして新政府に仕官しました。海陸の脱走人も、静岡行きの伯夷・叔斉も、猫も杓子も政府の辺りに群がり集まって、以前の賊徒、今の官員衆にお目にかかり、初めてお目にかかるとも言えまい、かねてご存じの日本臣民でございます、というような調子で、君子は過去を語らず、前の言葉も前の行いもただの戯れだと、双方打ち解けて波風なく治まりがついたのは、まことにめでたく、何もとがめ立てするにも及ばないようですが、私には少し言い分があります。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・老余の半生・忠臣義士の浮薄を厭う(2)抑も王政維新の争が、政治主義の異同から起て、例えば勤王家は鎖国攘夷を主張し、佐幕家は開国改進を唱えて、遂に幕府の敗北と為り、その後に至て勤王家も大に悟りて開国主義に変じ、恰も佐幕家の宿論に投ずるが故に、之と共に爾後の方針を与にすると云えば至極尤もに聞ゆれども、当時の争に開鎖など云う主義の沙汰は少しもない。佐幕家の進退は一切万事、君臣の名分から割出して、徳川三百年の天下云々と争いながら、その天下が無くなったら争の点も無くなって平気の平左衛門とは可笑しい。ソレも理窟の分らぬ小輩ならば固より宜しいが、争論の発起人で頻りに忠義論を唱えて伯夷叔斉を気取り、又はその身躬から脱走して世の中を騒がした人達の気が知れない。勝負は時の運に由る、負けても恥かしいことはない、議論が中らなかっても構わないが、遣傷なったらその身の不運と諦らめて、山に引込むか、寺の坊主にでもなって、生涯を送れば宜いと思えども、中々以て坊主どころか、洒蛙々々と高い役人になって嬉しがって居るのが私の気に喰わぬ。扨々忠臣義士も当てにならぬ、君臣主従の名分論も浮気なものだ、コンな薄ぺらな人間と伍を為すよりも独りで居る方が心持が宜いと説を極めて、初一念を守り、政治の事は一切人に任せて、自分は自分だけの事を勉めるように身構えをしました。実は私の身の上に何も縁のないことで、入らざるお世話のようだが、前後の事情を能く知て居るから、忠臣義士の成行を見るとツイ気の毒になって、意気地なしのように腰抜のように、思うまいと思ても思われて堪らない。全く私の癇癪でしょうが、是れも自然に私の功名心を淡泊にさせた原因であろうと思われます。
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福翁自伝・王政維新・洋行船中の談話夫れでも私に全く政治思想のないではない。例えば文久二年欧行の船中で松木弘安と箕作秋坪と私と三人、色々日本の時勢論を論じて、その時私が「ドウだ迚も幕府の一手持は六かしい、先ず諸大名を集めて独逸聯邦のようにしては如何と云うに、松木も箕作も、マアそんな事が穏かだろうと云う。夫れから段々身の上話に及んで、今日吾々共の思う通りを云えば、正米を年に二百俵貰うて親玉(将軍の事)の御師匠番になって、思う様に文明開国の説を吹込んで大変革をさして見たいと云うと、松木が手を拍て、左様だ/\、是れは遣て見たいと云たのは、松木の功名心もその時には二百俵の米を貰うて将軍に文明説を吹込むぐらいの事で、当時の洋学者の考は大抵皆大同小異、一身の為めに大きな事は考えない。後にその松木が寺島宗則となって、参議とか外務卿とか云う実際の国事に当たのは、実は本人の柄に於て商売違いであったと思います。 夫れは扨置き世の中の形勢を見れば、天下の浮浪即ち有志者は京都に集て居る。夫れから江戸の方では又幕府と云うものが勿論時の政府でリキンで居ると云う訳けで、日本の政治が東西二派に相分れて、勤王佐幕と云う二派の名が出来た。出来た所で、サア其処に至て私が如何するかと云うに、 第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国士族が極々嫌いで之に力を尽す気はない。 第二、左ればとて彼の勤王家と云う一類を見れば、幕府より尚お一層甚だしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気は固よりない。 第三、東西二派の理非曲直は姑く扨置き、男子が所謂宿昔青雲の志を達するは乱世に在り、勤王でも佐幕でも試みに当て砕けると云うが書生の事であるが、私にはその性質習慣がない。 今その次第を語りましょう。抑も私が始めて江戸に来た時からして幕府の人には感服しない。一寸と旗本御家人に出遇う所が、応接振りは上品で、田舎者と違い弁舌も好く行儀も立派であるが、何分にも外辺ばかりで、物事を微密に考える脳力もなければ又腕力も弱そうに見える、けれども先方は幕府の御直参、此方は又る影もない陪臣だから手の着けようもなく、旗本などに対してはその人の居ない処でも何様々々と尊敬して居るその塩梅式は、京都の御公卿様を取扱うように、唯見た所ばかりを丁寧にして心の中では見縊り抜て居た。
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福翁自伝・老余の半生・仕官を嫌う由縁私の生涯は終始替ることなく、少年時代の辛苦、老後の安楽、何も珍らしいことはない。今の世界に人間普通の苦楽を嘗めて、今日に至るまで大に愧ることもなく大に後悔することもなく、心静に月日を送りしは、先ず以て身の仕合せと云わねばならぬ。所で世間は広し、私の苦楽を遠方から見て色々に評論し色々に疑う者もありましょう。就中私がマンザラの馬鹿でもなく政治の事も随分知て居ながら、遂に政府の役人にならぬと云うは可笑しい、日本社会の十人は十人、百人は百人、皆立身出世を求めて役人にこそなりたがるその処に、福澤が一人これをいやがるのは不審だと、蔭で窃に評論する計りでない、現に直接に私に向て質問する者もある。啻に日本人ばかりでない、知己の外国人も私の進退を疑い、何故政府に出て仕事をせぬか、政府の好地位に立て思う事を行えば、名誉にも為り金にも為り、面白いではないかと、米国人などは毎度勧めに来たことがあるけれども、私は唯笑て取合わぬ。ソコで維新の当分は政府の連中が私を評して佐幕家の一人と認め、彼れは旧幕府に操を立てゝ新政府に仕官せぬ者である、将軍政治を悦んで王政を嫌う者である、古来、革命の歴史に前朝の遺臣と云う者があるが、福澤もその遺臣を気取て、物外に瓢然として居ながら心中無限の不平を抱いて居るに違いない、心に不平があれば新政府の為めに宜いことは考えない、油断のならぬ奴だなんて、種々様々な想像を運らして居る者の多いのは、私も大抵知て居る。所が斯く評せらるゝ前朝の遺臣殿は、久しい以前から前朝の門閥制度、鎖国主義に愛想をつかして、維新の際に幕府の忠臣義士が盛んに忠義論を論じて佐幕の気焔を吐て脱走までする時に、私は強て議論もせず、脱走連中に知て居る者があれば、余計な事をするな、負けるから罷にしろと云て止めて居た位だから、福澤を評するに前朝の遺臣論も勘定が合わぬ。前朝の遺臣と云えば維新の時に幕府の忠臣義士こそ丁度適当の嵌役なれども、この忠臣義士は前朝に忠義の一役を勤めて何時の間にか早替り、第二の忠義役を勤めて第二の忠臣義士となって居るから、是れも遺臣と云われぬ。その遺臣論は姑く擱き、私の身の進退は、前に申す通り、維新の際に幕府の門閥制度、鎖国主義が腹の底から嫌だから佐幕の気がない。左ればとて勤王家の挙動を見れば、幕府に較べてお釣りの出る程の鎖国攘夷、固よりコンな連中に加勢しようと思いも寄らず、唯ジッと中立独立と説を極めて居ると、今度の新政府は開国に豹変した様子で立派な命令は出たけれども、開国の名義中、鎖攘タップリ、何が何やら少しも信ずるに足らず、東西南北何れを見ても共に語るべき人は一人もなし、唯独りで身に叶う丈けの事を勤めて開国一偏、西洋文明の一天張りでリキンで居る内に、政府の開国論が次第々々に真成のものになって来て、一切万事改進ならざるはなし、所謂文明駸々乎として進歩するの世の中になったこそ実に有り難い仕合せで、実に不思議な事で、云わば私の大願も成就したようなものだから、最早や一点の不平は云われない。
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福翁自伝・王政維新・幕府の攘夷主義(6)扨慶喜さんが京都から江戸に帰て来たと云うその時には、サア大変。朝野共に物論沸騰して、武家は勿論、長袖の学者も医者も坊主も皆政治論に忙しく、酔えるが如く狂するが如く、人が人の顔を見れば唯その話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。平生なれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名の居る処で中々喧ましいのが、丸で無住のお寺を見たようになって、ゴロ/″\箕坐を掻て、怒鳴る者もあれば、ソット袂から小さいビンを出してブランデーを飲んでる者もあると云うような乱脈になり果てたけれども、私は時勢を見る必要がある、城中の外国方に飜訳抔の用はないけれども、見物半分に毎日のように城中に出て居ましたが、その政論流行の一例を云て見ると、或日加藤弘之と今一人、誰であったか名を覚えませぬが、二人がを着て出て来て外国方の役所に休息して居るから、私が其処へ行て、「イヤ加藤君、今日はおで何事に出て来たのかと云うと、「何事だッて、お逢いを願うと云うのは、此の時に慶喜さんが帰て来て城中に居るでしょう、ソコで色々な策士論客忠臣義士が躍気となって、上方の賊軍が出発したから何でも是れは富士川で防がなければならぬとか、イヤ爾うでない、箱根の嶮阻に拠て二子山の処で賊を鏖殺しにするが宜い、東照神君三百年の洪業は一朝にして棄つべからず、吾々臣子の分として義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するに若かずなんて、種々様々の奇策妙案を献じ、悲憤慷慨の気焔を吐く者が多いから、云わずと知れた加藤等もその連中で、慶喜さんにお逢いを願う者に違いない。ソコデ私が、「今度の一件はドウなるだろう、いよ/\戦争になるか、ならないか、君達には大抵分るだろうから、ドウぞ夫れを僕に知らして呉れ給え、是非聞きたいものだ。「ソレを聞いて何にするか。「何にするッて分てるではないか、是れがいよ/\戦争に極まれば僕は荷物を拵えて逸げなくてはならぬ、戦争にならぬと云えば落付て居る。その和戦如何はなか/\容易ならぬ大切な事であるから、ドウぞ知らして貰いたいと云うと、加藤は眼を丸くして、「ソンな気楽な事を云て居る時勢ではないぞ、馬鹿々々しい。「イヤ/\気楽な所ではない、僕は命掛けだ。君達は戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻迯げて行くのだからと云たら、加藤がプリ/\怒て居たことがあります。
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福翁自伝・王政維新・幕府の攘夷主義(4)然らば則ち之に取て代ろうと云う上方の勤王家はドウだと云うに、彼等が代たら却てお釣の出るような攘夷家だ。コリャ又幕府よりか一層悪い。勤王攘夷と佐幕攘夷と名こそ変れ、その実は双方共に純粋無雑な攘夷家でその攘夷に深浅厚薄の別はあるも、詰る所は双方共に尊攘の仕振りが善いとか悪いとか云うのが争論の点で、その争論喧嘩が遂に上方の攘夷家と関東の攘夷家と鉄砲を打合うような事になるであろう。ドチラも頼むに足らず、その中にも上方の勤王家は、事実に於て人殺しもすれば放火もして居る、その目的を尋ねて見ると、仮令いこの国を焦土にしても飽くまで攘夷をしなければならぬと云う触込みで、一切万事一挙一動悉く攘夷ならざるはなし。然るに日本国中の人がワッとソレに応じて騒ぎ立て居るのであるから、何としても之に同情を表して仲間になるような事は出来られない。是れこそ実に国を滅す奴等だ、こんな不文不明な分らぬ乱暴人に国を渡せば亡国は限前に見える、情けない事だと云う考が始終胸に染込んで居たから、何としても上方の者に左袒する気にならぬ。その前後に緒方の隠居は江戸に居る。是れは故緒方洪庵先生の夫人で、私は阿母さんのようにして居る恩人である。或時に隠居が私と箕作を呼んで、ドウじゃい、お前さん方は幕府に雇われて勤めて居るけれども、馬鹿々々しい止しなさい、ソレよりか上方に行て御覧。ソリャどうもいろ/\な面白いことかあるぜ、と云う。段々聞て見ると村田造六即ち大村益次郎とか佐野栄寿(常民)とか云うような有志者が、皆緒方の家に出入をして居る。ソレを隠居さんが知て居て、私と箕作の事は自分の子のようにして居たものだから、江戸に居るな、上方に行けと勧めたのも無理はない。その時に私は、誠に難有うございます、大阪に行けば必ず面白い仕事がありましょうけれども、私はドウも首をもがれたッて攘夷のお供は出来ません、爾うじゃないかと、箕作と云て断わったことがありましたが、その位の訳けで、ドウしてもその上方勢に与みすることは出来なかった。
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福翁自伝・王政維新・幕府の攘夷主義(1)幕政の殻威張りが癇癪に障ると云うのは、是れは此方の血気の熱心であるとして姑く差置き、扨この日本を開いて外国交際をドウするかと云うことになっては、如何も見て居られない、と云うのは私は若い時から洋書を読で、夫れから亜米利加に行き、その次には欧羅巴に行き、又亜米利加に行て、只学問ばかりでなく実地を見聞して見れば、如何しても対外国是は斯う云うように仕向けなければならぬと、ボンヤリした処でも外国交際法と云うことに気の付くは当然の話であろう。ソコでその私の考から割出して、この徳川政府を見ると殆んど取所のない有様で、当時日本国中の輿論は都て攘夷で、諸藩残らず攘夷藩で徳川幕府ばかりが開国論のように見えもすれば聞えもするようでありますけれども、正味の精神を吟味すれば天下随一の攘夷藩、西洋嫌いは徳川であると云て間違いはあるまい。或は後年に至て大老井伊掃部頭は開国論を唱えた人であるとか開国主義であったとか云うような事を、世間で吹聴する人もあれば書に著わした者もあるが、開国主義なんて大嘘の皮、何が開国論なものか、存じ掛けもない話だ。井伊掃部頭と云う人は純粋無雑、申分のない参河武士だ。江戸の大城炎上のとき幼君を守護して紅葉山に立退き、周囲に枯草の繁りたるを見て非常の最中不用心なりとて、親から腰の一刀を抜てその草を切払い、手に幼君を擁して終夜家外に立詰めなりしと云う話がある。又この人が京都辺の攘夷論者を捕縛して刑に処したることはあれども、是れは攘夷論を悪む為めではない、浮浪の処士が横議して徳川政府の政権を犯すが故にその罪人を殺したのである。
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