福翁自伝 / 攘夷論・緒方先生の急病村田蔵六の変態(1)
所で京都の方では愈よ五月十日(文久三年)が攘夷の期限だと云う。ソレで和蘭の商船が下ノ関を通ると、下ノ関から鉄砲を打掛けた。けれども幸に和蘭船は沈みもせずに通たが、ソレがなか/\大騒ぎになって、世の中は益々恐ろしい事になって来た。所でその歳の六月十日に緒方洪庵先生の不幸。その前から江戸に出て来て下谷に居た緒方先生が、急病で大層吐血したと云う急使に、私は実に胆を潰した。その二、三日前に先生の処へ行てチャント様子を知て居るのに、急病とは何事であろうと、取るものも取敢えず即刻宅を駈出して、その時分には人力車も何もありはしないから、新銭座から下谷まで駈詰で緒方の内に飛込んだ所が、もう縡切れて仕舞た跡。是れはマア如何したら宜かろうかと丸で夢を見たような訳け。道の近い門人共は疾く先に来て、後から来る者も多い。三十人も五十人も詰掛けて、外に用事もなし、今夜は先ずお通夜として皆起きて居る。所が狭い家だから大勢坐る処もないような次第で、その時は恐ろしい暑い時節で、坐敷から玄関から台所まで一杯人が詰て、私は夜半玄関の敷台の処に腰を掛けて居たら、その時に村田蔵六(後に大村益次郎)が私の隣に来て居たから、「オイ村田君――君は何時長州から帰て来たか。「この間帰た。「ドウダエ馬関では大変な事を遣たじゃないか。何をするのか気狂共が、呆返た話じゃないかと云うと、村田が眼に角を立て、「何だと、遣たら如何だ。「如何だッて、この世の中に攘夷なんて丸で気狂いの沙汰じゃないか。「気狂いとは何だ、怪しからん事を云うな。長州ではチャント国是が極まってある。
書き下し
所で京都の方では愈よ五月十日(文久三年)が攘夷の期限だと云う。ソレで和蘭の商船が下ノ関を通ると、下ノ関から鉄砲を打掛けた。けれども幸に和蘭船は沈みもせずに通たが、ソレがなか/\大騒ぎになって、世の中は益々恐ろしい事になって来た。所でその歳の六月十日に緒方洪庵先生の不幸。その前から江戸に出て来て下谷に居た緒方先生が、急病で大層吐血したと云う急使に、私は実に胆を潰した。その二、三日前に先生の処へ行てチャント様子を知て居るのに、急病とは何事であろうと、取るものも取敢えず即刻宅を駈出して、その時分には人力車も何もありはしないから、新銭座から下谷まで駈詰で緒方の内に飛込んだ所が、もう縡切れて仕舞た跡。是れはマア如何したら宜かろうかと丸で夢を見たような訳け。道の近い門人共は疾く先に来て、後から来る者も多い。三十人も五十人も詰掛けて、外に用事もなし、今夜は先ずお通夜として皆起きて居る。所が狭い家だから大勢坐る処もないような次第で、その時は恐ろしい暑い時節で、坐敷から玄関から台所まで一杯人が詰て、私は夜半玄関の敷台の処に腰を掛けて居たら、その時に村田蔵六(後に大村益次郎)が私の隣に来て居たから、「オイ村田君――君は何時長州から帰て来たか。「この間帰た。「ドウダエ馬関では大変な事を遣たじゃないか。何をするのか気狂共が、呆返た話じゃないかと云うと、村田が眼に角を立て、「何だと、遣たら如何だ。「如何だッて、この世の中に攘夷なんて丸で気狂いの沙汰じゃないか。「気狂いとは何だ、怪しからん事を云うな。長州ではチャント国是が極まってある。
現代語訳
さて、京都の方ではいよいよ五月十日(文久三年)が攘夷の期限だといいます。それでオランダの商船が下関を通ると、下関から鉄砲を撃ちかけました。けれども幸いオランダ船は沈みもせずに通りましたが、それがなかなか大騒ぎになって、世の中はますます恐ろしいことになってきました。ところでその年の六月十日に、緒方洪庵先生の不幸がありました。その前から江戸に出てきて下谷にいた緒方先生が、急病でひどく吐血したという急使に、私は実に肝をつぶしました。その二、三日前に先生のところへ行って、ちゃんと様子を知っているのに、急病とは何事だろうと、取るものも取りあえずすぐに家を駆け出し、そのころは人力車も何もありませんから、新銭座から下谷まで駆け通しで緒方の家に飛び込んだところ、もう事切れてしまったあとでした。これはどうしたらよかろうかと、まるで夢を見ているようなありさま。近所の門人たちはとっくに先に来ていて、後から来る者も多く、三十人も五十人も詰めかけて、ほかにすることもなく、今夜はまずお通夜として皆起きています。ところが狭い家なので大勢が座る所もないようなありさまで、そのときはひどく暑い時節で、座敷から玄関から台所まで一杯に人が詰まり、私は夜半、玄関の敷台のところに腰を掛けていたら、そのとき村田蔵六(後に大村益次郎)が私の隣に来ていたので、「おい村田君、君はいつ長州から帰ってきたか」「この間帰った」「どうだい、馬関では大変なことをやったじゃないか。何をするのか、気狂いどもが、あきれ返った話じゃないか」と言うと、村田が眼に角を立て、「何だと、やったらどうだ」「どうだって、この世の中に攘夷なんて、まるで気狂いの沙汰じゃないか」「気狂いとは何だ、けしからんことを言うな。長州ではちゃんと国是が決まってある。
解説
この章句が説くこと
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