福翁自伝 / 老余の半生・忠臣義士の浮薄を厭う(2)
抑も王政維新の争が、政治主義の異同から起て、例えば勤王家は鎖国攘夷を主張し、佐幕家は開国改進を唱えて、遂に幕府の敗北と為り、その後に至て勤王家も大に悟りて開国主義に変じ、恰も佐幕家の宿論に投ずるが故に、之と共に爾後の方針を与にすると云えば至極尤もに聞ゆれども、当時の争に開鎖など云う主義の沙汰は少しもない。佐幕家の進退は一切万事、君臣の名分から割出して、徳川三百年の天下云々と争いながら、その天下が無くなったら争の点も無くなって平気の平左衛門とは可笑しい。ソレも理窟の分らぬ小輩ならば固より宜しいが、争論の発起人で頻りに忠義論を唱えて伯夷叔斉を気取り、又はその身躬から脱走して世の中を騒がした人達の気が知れない。勝負は時の運に由る、負けても恥かしいことはない、議論が中らなかっても構わないが、遣傷なったらその身の不運と諦らめて、山に引込むか、寺の坊主にでもなって、生涯を送れば宜いと思えども、中々以て坊主どころか、洒蛙々々と高い役人になって嬉しがって居るのが私の気に喰わぬ。扨々忠臣義士も当てにならぬ、君臣主従の名分論も浮気なものだ、コンな薄ぺらな人間と伍を為すよりも独りで居る方が心持が宜いと説を極めて、初一念を守り、政治の事は一切人に任せて、自分は自分だけの事を勉めるように身構えをしました。実は私の身の上に何も縁のないことで、入らざるお世話のようだが、前後の事情を能く知て居るから、忠臣義士の成行を見るとツイ気の毒になって、意気地なしのように腰抜のように、思うまいと思ても思われて堪らない。全く私の癇癪でしょうが、是れも自然に私の功名心を淡泊にさせた原因であろうと思われます。
書き下し
抑も王政維新の争が、政治主義の異同から起て、例えば勤王家は鎖国攘夷を主張し、佐幕家は開国改進を唱えて、遂に幕府の敗北と為り、その後に至て勤王家も大に悟りて開国主義に変じ、恰も佐幕家の宿論に投ずるが故に、之と共に爾後の方針を与にすると云えば至極尤もに聞ゆれども、当時の争に開鎖など云う主義の沙汰は少しもない。佐幕家の進退は一切万事、君臣の名分から割出して、徳川三百年の天下云々と争いながら、その天下が無くなったら争の点も無くなって平気の平左衛門とは可笑しい。ソレも理窟の分らぬ小輩ならば固より宜しいが、争論の発起人で頻りに忠義論を唱えて伯夷叔斉を気取り、又はその身躬から脱走して世の中を騒がした人達の気が知れない。勝負は時の運に由る、負けても恥かしいことはない、議論が中らなかっても構わないが、遣傷なったらその身の不運と諦らめて、山に引込むか、寺の坊主にでもなって、生涯を送れば宜いと思えども、中々以て坊主どころか、洒蛙々々と高い役人になって嬉しがって居るのが私の気に喰わぬ。扨々忠臣義士も当てにならぬ、君臣主従の名分論も浮気なものだ、コンな薄ぺらな人間と伍を為すよりも独りで居る方が心持が宜いと説を極めて、初一念を守り、政治の事は一切人に任せて、自分は自分だけの事を勉めるように身構えをしました。実は私の身の上に何も縁のないことで、入らざるお世話のようだが、前後の事情を能く知て居るから、忠臣義士の成行を見るとツイ気の毒になって、意気地なしのように腰抜のように、思うまいと思ても思われて堪らない。全く私の癇癪でしょうが、是れも自然に私の功名心を淡泊にさせた原因であろうと思われます。
現代語訳
そもそも王政維新の争いが、政治主義の違いから起こり、たとえば勤王家は鎖国攘夷を主張し、佐幕家は開国改進を唱え、ついに幕府の敗北となり、その後勤王家も大いに悟って開国主義に変わり、ちょうど佐幕家の持論に合致したので、彼らと共に今後の方針を共にする、というなら、至極もっともに聞こえますが、当時の争いに、開国か鎖国かといった主義の話は少しもありませんでした。佐幕家の進退は、一切万事、君臣の名分から割り出して、徳川三百年の天下云々と争いながら、その天下がなくなったら争う点もなくなって平気の平左衛門とは、おかしなことです。それも理屈の分からない小物ならもとよりよいのですが、争いの発起人で、しきりに忠義論を唱えて伯夷・叔斉を気取り、あるいは自ら脱走して世の中を騒がせた人たちの気が知れません。 勝負は時の運によります。負けても恥ずかしいことはなく、議論が当たらなくても構いませんが、やり損なったらその身の不運とあきらめて、山に引っ込むか、寺の坊主にでもなって、生涯を送ればよいと思うのに、坊主どころか、ぬけぬけと高い役人になって嬉しがっているのが、私の気に入りません。いやはや、忠臣義士も当てにならない、君臣主従の名分論も浮気なものだ、こんな薄っぺらな人間と仲間になるよりも、独りでいるほうが気持ちがよいと方針を決め、初一念を守って、政治のことは一切人に任せ、自分は自分だけのことを勉めるように身構えをしました。実は私の身の上に何も縁のないことで、余計なお世話のようですが、前後の事情をよく知っているので、忠臣義士の成り行きを見るとつい気の毒になって、意気地なしのように、腰抜けのように、思うまいと思っても思われて堪りません。まったく私の癇癪でしょうが、これも自然に私の功名心を淡泊にさせた原因であろうと思われます。
解説
この章句が説くこと
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