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福翁自伝 / 王政維新・葵の紋の御威光

所がその無脳力、無腕力と思う幕府人の剣幕は中々大造のものである。些細な事のようだが、当時最も癪に障るのは旅行の道中で、幕人の威張り方と云うものは迚も今時の人に想像は出来ない。私などは譜代大名の家来だから丸で人種違いの蛆虫同様、幕府の役人は勿論、凡そ葵の紋所の付て居る御三家と云い、夫れから徳川親藩の越前家と云うような大名か又はその家来が道中をして居る処に打付かろうものならソリャ堪らない。寒中朝寒い時に宿屋を出て、河を渡ろうと思て寒風の吹く処に立て一時間も船の来るのを待て居る、ヤッと船が着て、やれ嬉しやこの船に乗ろうと云う時に、不意と後ろから葵の紋の侍が来るとその者が先きへその船に乗て仕舞う、又アト一時間も待たなければならぬ。駕籠を舁ぐ人足でも無人のときには吾々は問屋場に行て頼んでヤッと出来た処に、アトから例の葵の紋が来ると、出来たその人足を横合から取られて仕舞う。如何なお心善でも腹を立てずには居られない。凡そ幕府の圧制殻威張りは際限のない事ながら、私共が若い時に直接に侮辱軽蔑を受けたのは、道中の一事でも血気の熱心は自から禁ずることが出来ず、前後左右に深い考えもなく、唯癇癪の余りに、こんな悪政府は世界中にあるまいと腹の底から観念して居た。

書き下し

所がその無脳力、無腕力と思う幕府人の剣幕は中々大造のものである。些細な事のようだが、当時最も癪に障るのは旅行の道中で、幕人の威張り方と云うものは迚も今時の人に想像は出来ない。私などは譜代大名の家来だから丸で人種違いの蛆虫同様、幕府の役人は勿論、凡そ葵の紋所の付て居る御三家と云い、夫れから徳川親藩の越前家と云うような大名か又はその家来が道中をして居る処に打付かろうものならソリャ堪らない。寒中朝寒い時に宿屋を出て、河を渡ろうと思て寒風の吹く処に立て一時間も船の来るのを待て居る、ヤッと船が着て、やれ嬉しやこの船に乗ろうと云う時に、不意と後ろから葵の紋の侍が来るとその者が先きへその船に乗て仕舞う、又アト一時間も待たなければならぬ。駕籠を舁ぐ人足でも無人のときには吾々は問屋場に行て頼んでヤッと出来た処に、アトから例の葵の紋が来ると、出来たその人足を横合から取られて仕舞う。如何なお心善でも腹を立てずには居られない。凡そ幕府の圧制殻威張りは際限のない事ながら、私共が若い時に直接に侮辱軽蔑を受けたのは、道中の一事でも血気の熱心は自から禁ずることが出来ず、前後左右に深い考えもなく、唯癇癪の余りに、こんな悪政府は世界中にあるまいと腹の底から観念して居た。

現代語訳

ところが、その無能力・無腕力と思う幕府の人たちの剣幕は、なかなか大変なものです。些細なことのようですが、当時最も癪に障ったのは旅行の道中で、幕臣の威張り方というものは、とても今時の人には想像できません。私などは譜代大名の家来だから、まるで人種違いの蛆虫同様で、幕府の役人はもちろん、およそ葵の紋所の付いている御三家といい、それから徳川の親藩の越前家というような大名か、またはその家来が道中をしているところに出くわそうものなら、それはたまりません。寒中の朝寒いときに宿屋を出て、川を渡ろうと思って寒風の吹く所に立って、一時間も船の来るのを待っている。やっと船が着いて、やれうれしやこの船に乗ろうというとき、不意に後ろから葵の紋の侍が来ると、その者が先にその船に乗ってしまう。また後一時間も待たなければなりません。駕籠をかつぐ人足でも人が少ないときには、私どもは問屋場に行って頼み、やっとできたところに、後から例の葵の紋が来ると、できたその人足を横合いから取られてしまう。どんなにお人よしでも、腹を立てずにはいられません。およそ幕府の圧制や空威張りは際限のないことですが、私どもが若い時に直接に侮辱軽蔑を受けたのは、道中の一事でも、血気の熱心でおのずから禁じることができず、前後左右に深い考えもなく、ただ癇癪のあまり、こんな悪政府は世界中にあるまいと腹の底から観念していました。

解説

幕府への嫌悪の原点が、旅の道中の理不尽な扱いだったと語ります。寒風の中で一時間待ってやっと来た船に、後から来た葵の紋の侍が先に乗ってしまい、また一時間待たされる。人足まで横取りされる。福沢は譜代大名の家来という陪臣の身分で、こうした優先を日常的に経験しました。後年の洋学者としての冷静な政治批判の根に、こうした感情的な体験があったと、本人が率直に認めています。理屈で語られる主張の背景に、小さな屈辱の積み重ねがあることは多く、人の意見の裏にある体験に目を向ける大切さを感じさせます。

この章句が説くこと

葵の紋道中御三家侮辱癇癪陪臣

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