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福翁自伝 / 幼少の時・下執事の文字に叱かられる

況して大人同士、藩の御用を勤めて居る人々に貴賤の区別は中々喧ましいことで、私が覚えて居るが、或時私の兄が家老の処に手紙を遣て、少し学者風でその表書に何々様下執事と書いて遣たら大に叱られ、下執事とは何の事だ、御取次衆と認めて来いと云て、手紙を突返して来た。私は之を見ても側から独り立腹して泣たことがある。馬鹿々々しい、こんな処に誰が居るものか、如何したって是れはモウ出るより外に仕様がないと、始終心の中に思て居ました。ソレカラ私も次第に成長して、少年ながらも少しは世の中の事が分るようになる中に、私の従兄弟などにも随分一人や二人は学者がある。能く書を読む男がある。固より下士族の仲間だから、兄なぞと話のときには藩風が善くないとか何とかいろ/\不平を洩らして居るのを聞いて、私は始終ソレを止めて居ました。「よしなさい、馬鹿々々しい。この中津に居る限りは、そんな愚論をしても役に立つものでない。不平があれば出て仕舞が宜い、出なければ不平を云わぬが宜と、毎度止て居たことがあるが、是れはマア私の生付きの性質とでも云うようなものでしょう。

書き下し

況して大人同士、藩の御用を勤めて居る人々に貴賤の区別は中々喧ましいことで、私が覚えて居るが、或時私の兄が家老の処に手紙を遣て、少し学者風でその表書に何々様下執事と書いて遣たら大に叱られ、下執事とは何の事だ、御取次衆と認めて来いと云て、手紙を突返して来た。私は之を見ても側から独り立腹して泣たことがある。馬鹿々々しい、こんな処に誰が居るものか、如何したって是れはモウ出るより外に仕様がないと、始終心の中に思て居ました。ソレカラ私も次第に成長して、少年ながらも少しは世の中の事が分るようになる中に、私の従兄弟などにも随分一人や二人は学者がある。能く書を読む男がある。固より下士族の仲間だから、兄なぞと話のときには藩風が善くないとか何とかいろ/\不平を洩らして居るのを聞いて、私は始終ソレを止めて居ました。「よしなさい、馬鹿々々しい。この中津に居る限りは、そんな愚論をしても役に立つものでない。不平があれば出て仕舞が宜い、出なければ不平を云わぬが宜と、毎度止て居たことがあるが、是れはマア私の生付きの性質とでも云うようなものでしょう。

現代語訳

まして大人同士、藩の御用を勤めている人々の間では、貴賤の区別はなかなかやかましいもので、私が覚えていますが、あるとき私の兄が家老のところに手紙を出して、少し学者風に、その表書きに「何々様下執事」と書いて出したところ、たいへん叱られ、「下執事とは何のことだ、御取次衆と書いて来い」といって、手紙を突き返して来ました。私はこれを見て、そばでひとり腹を立てて泣いたことがあります。馬鹿々々しい、こんなところに誰がいるものか、どうしたってこれはもう出るより外に仕方がないと、いつも心の中に思っていました。それから私も次第に成長して、少年ながらも少しは世の中のことが分かるようになるうちに、私の従兄弟などにもずいぶん一人や二人は学者がいて、よく書を読む男がいます。もとより下士族の仲間ですから、兄などと話すときには、藩風がよくないとか何とかいろいろ不満を漏らしているのを聞いて、私はいつもそれを止めていました。「やめなさい、馬鹿々々しい。この中津にいる限りは、そんな愚論をしても役に立つものではない。不満があれば出てしまうがよい、出なければ不満をいわないがよい」と、たびたび止めていたことがありますが、これはまあ私の生まれつきの性質とでもいうようなものでしょう。

解説

家老への手紙の宛名に下執事と書いただけで叱られ、御取次衆と書き直せと突き返された。兄に向けられたこの侮辱に、少年の福沢は泣いて腹を立てます。下の者は宛名の敬称一つにまで差をつけられました。注目すべきは、そこから先の態度です。不満を言うだけの従兄弟たちに、出られないなら言うな、出たいなら出ろ、と諭しています。愚痴を並べても状況は変わりません。変えられない環境に文句だけを重ねるのか、環境を離れる決断をするのか。選択を迫る言葉は、現代の転職や異動の悩みにもそのまま届く、鋭い助言です。

この章句が説くこと

下執事貴賤の区別侮辱不平出る愚論

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