福翁自伝 / 王政維新・幕府にも感服せず
藩に対しての身の成行、心の置どころは右の通りで、扨江戸に来て居る中に幕府に雇われて、後にはいよ/\幕府の家来になって仕舞えと云うので、高百五十俵、正味百俵ばかりの米を貰て一寸と旗本のような者になって居たことがある。けれども是れ亦、藩に居るときと同様、幕臣になって功名手柄をしようと云うような野心はないから、随て自分の身分が何であろうとも気に留めたことがない。一寸とした事だが可笑しい話があるその次第は、江戸で御家人の事を旦那と云い、旗本の事を殿様と云うのが一般の慣例である、所が私が旗本になったけれども、固より自分で殿様なんて馬鹿気たことを考える訳けもなければ、家内の者もその通りで、平生と少しも変た事はない。爾うすると或日知己の幕人(たしか福地源一郎であったかと覚ゆ)が玄関に来て殿様はお内か。「イーエそんな者は居ません。「お内においでなさらぬか、殿様は御不在か。「そんな人は居ませんと、取次の下女と頻に問答して居る様子、狭い家だからスグ私が聞付けて、玄関に出てその客を座敷に通したことがあるが、成るほど殿様と云て下女に分る訳けはない、私の家の中で云う者もなければ聞た者もない言葉だから。
書き下し
藩に対しての身の成行、心の置どころは右の通りで、扨江戸に来て居る中に幕府に雇われて、後にはいよ/\幕府の家来になって仕舞えと云うので、高百五十俵、正味百俵ばかりの米を貰て一寸と旗本のような者になって居たことがある。けれども是れ亦、藩に居るときと同様、幕臣になって功名手柄をしようと云うような野心はないから、随て自分の身分が何であろうとも気に留めたことがない。一寸とした事だが可笑しい話があるその次第は、江戸で御家人の事を旦那と云い、旗本の事を殿様と云うのが一般の慣例である、所が私が旗本になったけれども、固より自分で殿様なんて馬鹿気たことを考える訳けもなければ、家内の者もその通りで、平生と少しも変た事はない。爾うすると或日知己の幕人(たしか福地源一郎であったかと覚ゆ)が玄関に来て殿様はお内か。「イーエそんな者は居ません。「お内においでなさらぬか、殿様は御不在か。「そんな人は居ませんと、取次の下女と頻に問答して居る様子、狭い家だからスグ私が聞付けて、玄関に出てその客を座敷に通したことがあるが、成るほど殿様と云て下女に分る訳けはない、私の家の中で云う者もなければ聞た者もない言葉だから。
現代語訳
藩に対しての身の成り行き、心の置き所は右の通りで、さて江戸に来ているうちに幕府に雇われ、のちにはいよいよ幕府の家来になってしまえというので、高百五十俵、正味百俵ばかりの米をもらって、ちょっと旗本のような者になっていたことがあります。けれどもこれもまた、藩にいるときと同様、幕臣になって功名手柄を立てようという野心はなく、したがって自分の身分が何であろうとも気に留めたことがありません。ちょっとしたことですが、おかしな話があります。その次第は、江戸では御家人のことを旦那といい、旗本のことを殿様というのが一般の慣例です。ところが私が旗本になったけれども、もとより自分で殿様などという馬鹿げたことを考えるはずもなく、家内の者もその通りで、平生と少しも変わったことはありません。そうすると、ある日、知り合いの幕臣(たしか福地源一郎であったかと思う)が玄関に来て、「殿様はお内か」「いえ、そんな者はおりません」「お内においでなさらぬか。殿様は御不在か」「そんな人はおりません」と、取次ぎの下女としきりに問答している様子。狭い家だからすぐに私が聞きつけて、玄関に出てその客を座敷に通したことがあります。なるほど、殿様と言って下女に分かるはずはありません。私の家の中で言う者もなく、聞いた者もない言葉ですから。
解説
この章句が説くこと
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