福翁自伝 / 王政維新・長州征伐に学生の帰藩を留める
夫れから長州藩が穏かでない。朝敵と銘が付て、ソコで将軍御親発となり、又幕府から九州の諸大名にも長州に向て兵を出せと云う命令が下て、豊前中津藩からも兵を出す。就ては江戸に留学して居る学生、小幡篤次郎を始め十人も居ました、ソレを出兵の御用だから帰れと云て呼還しに来たその時にも、私は不承知だ。この若い者が戦争に出るとは誠に危ない話で、流丸に中ても死んで仕舞わなければならぬ、こんな分らない戦争に鉄砲を担がせると云うならば、領分中の百姓に担がせても同じ事だ、この大事な留学生に帰て鉄砲を担げなんて、ソンな不似合な事をするには及ばぬ、仮令い弾丸に中らないでも、足に踏抜きしても損だ、構うことはない病気と云て断て仕舞え、一人も還さない、ソレが罷り間違えば藩から放逐丈けの話だ、長州征伐と云う事の理非曲直はどうでも宜しい、兎に角に学者書生の関係すべき事でないから決して帰らせないと頑張た所が、藩の方でも因循であったのか、強いて呼返すと云うこともせずに、その罪は中津に居る父兄の身に降り来て、その方共の子弟が命に背いて帰藩せぬのは平生の教訓宜しからざるに由る云々の文句で、何でも五十日か六十日の閉門を申付けられたことがある。凡そ私の心事はこんな風で、藩に仕えて藩政を如何しようとも思わず、立身出世して威張ろうとも思わず、世間で云う功名心は腹の底から洗たように何にもなかった。
書き下し
夫れから長州藩が穏かでない。朝敵と銘が付て、ソコで将軍御親発となり、又幕府から九州の諸大名にも長州に向て兵を出せと云う命令が下て、豊前中津藩からも兵を出す。就ては江戸に留学して居る学生、小幡篤次郎を始め十人も居ました、ソレを出兵の御用だから帰れと云て呼還しに来たその時にも、私は不承知だ。この若い者が戦争に出るとは誠に危ない話で、流丸に中ても死んで仕舞わなければならぬ、こんな分らない戦争に鉄砲を担がせると云うならば、領分中の百姓に担がせても同じ事だ、この大事な留学生に帰て鉄砲を担げなんて、ソンな不似合な事をするには及ばぬ、仮令い弾丸に中らないでも、足に踏抜きしても損だ、構うことはない病気と云て断て仕舞え、一人も還さない、ソレが罷り間違えば藩から放逐丈けの話だ、長州征伐と云う事の理非曲直はどうでも宜しい、兎に角に学者書生の関係すべき事でないから決して帰らせないと頑張た所が、藩の方でも因循であったのか、強いて呼返すと云うこともせずに、その罪は中津に居る父兄の身に降り来て、その方共の子弟が命に背いて帰藩せぬのは平生の教訓宜しからざるに由る云々の文句で、何でも五十日か六十日の閉門を申付けられたことがある。凡そ私の心事はこんな風で、藩に仕えて藩政を如何しようとも思わず、立身出世して威張ろうとも思わず、世間で云う功名心は腹の底から洗たように何にもなかった。
現代語訳
それから長州藩が穏やかでありません。朝敵という名がついて、そこで将軍が御親征となり、また幕府から九州の諸大名にも長州に向かって兵を出せという命令が下り、豊前中津藩からも兵を出します。ついては、江戸に留学している学生、小幡篤次郎をはじめ十人もいましたが、その者たちを、出兵の御用だから帰れと言って呼び戻しに来たときにも、私は不承知です。この若い者が戦争に出るとは誠に危ない話で、流れ弾に当たって死んでしまうかもしれない。こんな分からない戦争に鉄砲を担がせるというなら、領分中の百姓に担がせても同じことだ。この大事な留学生に、帰って鉄砲を担げなどと、そんな不似合いなことをするには及ばない。たとえ弾丸に当たらなくても、足に踏み抜きをしても損だ。構うことはない、病気と言って断ってしまえ、一人も還さない。それがまかり間違えば、藩から放逐されるだけの話だ。長州征伐という事の理非曲直はどうでもよろしい、とにかく学者書生の関係すべきことではないから、決して帰らせないと頑張ったところ、藩のほうでも因循であったのか、強いて呼び返すこともせず、その罪は中津にいる父兄の身に降りかかって、お前たちの子弟が命に背いて帰藩しないのは、平生の教訓がよろしくないからであるなどという文句で、たしか五十日か六十日の閉門を申し付けられたことがあります。およそ私の心事はこんな風で、藩に仕えて藩政をどうしようとも思わず、立身出世して威張ろうとも思わず、世間でいう功名心は腹の底から洗ったように何もありませんでした。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・一身一家経済の由来・旧藩の平穏は自から原因あり私の経済話から段々枝がさいて長くなりましたが、序ながら中津藩の事に就て、モ少し云う事があります。前に申す通り私は勤王佐幕など云う天下の政治論に少しも関係しないのみならず、奥平藩の藩政にまでも至極淡泊にあったと云うその為めに、茲に随分心に快いことがある、と云うのはあの王政維新の改革が行われたときに、諸藩の事情を察するに、勤王佐幕の議論が盛で、動もすれば旧大臣等に腹を切らせるとか、大英断を以て藩政改革とか云う為めに、一藩中に争論が起り、党派が分れて血を流すと云うようなことは、何れの藩も十中八、九、皆ソレであったその時に、若し私に政治上の功名心があって、藩に行て佐幕とか勤王とか何か云出せば、必ず一騒動を起すに違いない。所が私は黙て居て一寸も発言せず、人が噂をすれば、爾う喧しく云わんでも宜い、棄てゝ置きなさいと云うように、極淡泊にして居たから、中津の藩中が誠に静で、人殺しも何もなかったのはソレが為めだろうと思います。人殺しどころか人を黜陟したと云うこともなかった。
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福翁自伝・暗殺の心配・長州室津の心配是れも私が姓名を隠して豊前中津から江戸に帰て来た時の事です。元治元年、私が中津に行て、小幡篤次郎兄弟を始め同藩子弟七、八名に洋学修業を勧めて共に出府するときに、中津から先ず船に乗て出帆すると、二、三日天気が悪くて、風次第で何処の港に入るか知れない、スルと南無三宝、攘夷最中の長州室津と云う港に船が着た。そのとき私は同行少年の名を借りて三輪光五郎(今日は府下目黒のビール会社に居る)と名乗て居たが、一寸上陸して髪結床に行た所が、床の親仁が喋々述べて居る、「幕府を打潰す――毛唐人を追巻くると云い、女子供の唄の文句は忘れたが、「やがて長門は江戸になるとか何とか云うことを面白そうに唄うて居る、そのあたりを見れば兵隊が色々な服装をして鉄砲を担いで威張て居るから、若しも福澤と云う正体が現われては、たった一発と、安い気はしないが、爰が大事と思い態と平気な顔をして、唯順風を祈て船の出られるのを待て居るその間の怖さと云うものは、何の事はない、躄者が病犬に囲まれたようなものでした。
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福翁自伝・王政維新・本藩に対して功名心なし既に心に決定して居れば、藩に居て功名心と云うものは更らにない、立身出世して高い身分になって錦を故郷に着て人を驚かすと云うような野心は少しもないのみか、私にはその錦が却て恥かしくて着ることが出来ない。グヅ/″\云えば唯この藩を出て仕舞う丈けの事だと云うのが若い時からの考えで、人にこそ云わね、私の心では眼中藩なしと斯う安心を極めて居ましたので、夫れから長崎に行き大阪に出て修業して居るその中に、藩の御用で江戸に呼ばれて藩中の子弟を教うると云うことをして居ながらも、藩の政庁に対しては誠に淡泊で、長い歳月の間只の一度も建白なんと云うことをしたことはない。能く世間にある事で、イヤどうも藩政を改革して洋学を盛にするが宜いとか、兵制を改革するが宜いとか云うことは書生の能く遣ることだ、けれども私に限り只の一度も云出したことがない。ソレと同時に自分の立身出世を藩に向て求めたことがない。ドウ云うように身分を取立てゝ貰いたい、ドウ云うようにして禄を増して貰いたいと云うような事は、陰にも陽にもどんな事があっても藩の長老に内願などしたことがない。ソコで江戸に参てからも、本藩の様子を見れば種々な事を試みて居る。兵制で申せば西洋流の操練を採用したことがある。けれども私はソレを宜いと云て誉めもしなければ悪いと云て止めたこともなし、又或は大に漢学を盛にすると云て頻りに学校の改革などを企てたこともある。或は兵制は甲州流が宜いと云て法螺の貝を吹て藩中で調練をしたこともある。ソレも私は只目前に見て居るばかりで、善いとも悪いとも一寸とも云たことがない。或時に家老の隠居があって、大層政治論の好きな人で、私が家老の家に行たらば、その隠居が、ドウも公武の間が甚だ穏かでない、全体どうも近衛様が爾うも有りそうもない事だとか、或は江戸の御老中が詰らないとか云うような慷慨談を頻りに云て居る。爾う云われると私も何か云いそうな事だ、所が私は決して云わない。如何にも爾うでしょう、ソリャ成程近衛様も爾うだろう、御老中も爾うだろうが、扨ソレが実地になると傍観者の思うようにはならぬもので、近くはこの奥平様の屋敷でも、マダして宜いこともあるだろう、為なくて宜いこともあるだろう、傍観者から之を見たらば嘸堪え難いことに思うでありましょうけれども、当局の御家老の身になって見れば又爾う思う通りに行かないもので、矢張り今の通りより外に仕様がない。余り人の事を批評しても詰らぬ事です。私は一体そんな事に就ては何を議論しようとも思わぬと云て、少しも相手にならなかった。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・武器売却を勧む夫れから段々話が進んで来た所で、私は一つ注文を出した。今云う通り禄も身分も元の通りにして置くが宜かろう、ソレは宜しいが、茲に一つ忠告したいことがある。今この中津藩には小銃もあれば大砲もあり、武を以て国を立てようと云うその趣はチャンと見えて居るが、併し今の藩士とこの藩に在る武器で以て果して戦争が出来るかドウか、私はドウも出来なかろうと思う、左れば今日只今長州の人がズッと暴れ込めば長州に従わなければならぬ、又薩州の兵が攻来れば之にも抵抗することが出来ないから薩州に従わなければならぬ、誠に心配な話である、之を私が言葉を設けて評すれば、弱藩罪なし武器災をなすと云わねばならぬ、ダカラ寧そこの鉄砲を皆売て仕舞いたい、見れば大砲は何れもクルップだ、これを売れば三千五千或は一万円になるかも知れぬから、一切売て仕舞て昔の琉球見たようになって仕舞うが宜い、爾うして置て長州から政めて来たら、ヘイ/\、又薩摩から遣て来たら、ヘイ/\、斯う為ようとか、アヽ為ようとか云えば、ドウか長州に行て直に話をして下さい、又長州ならドウか薩州に行て直談を頼むと云て、一切の面倒を他に嫁して、此方はドウでも宜いと、斯う云う仕向けが宜かろう、そうした所で殺しもしなければ捕縛して行きもしないから爾う云うようにしたい、そうして一方に於てはドウしてもこの世の中は文明開化になるに極てるから、学校を拵えて文明開化の何物たるを藩中の少年子弟に知らせると云う方針を執るが一番大事である、扨爾う云う方針を執るとして、武器を廃して仕舞えば、余り割合が宜過ぎるようだが、ソコには斯う云うことがある、今私は東京の事情を察するに、新政府は陸海軍を大に改革しようとして金がなくて困て居る、ソコで一片の願書なり届書なり認めて出して見るが宜しい、その次第はこの中津藩は武備を廃したる為めに年々何万円と云う余計な金がある、この金を納めましょうから政府の方でドウでも為すって下さいと斯う云えば、海陸軍では大に悦ぶ、政府の身になって見れば、この諸藩三百の大名が各々色変りの武器を作り色変りの兵を備えて置くその始末に堪まるものじゃない、ドウしたッて一様にしたいと云うのは、コリャ政府の政略に於て有るに極た訳けではないか、然るに此処ではクルップの鉄砲だ、隣ではアームストロングの大砲だ、イヤ彼処では仏蘭西の小銃、此方は和蘭から昔し輸入したゲベルを持て居ると云うような、日本国中千種万様の兵備では、政府に於てイザ事と云ても戦争が出来そうにもしない、ソレよりかその金を納むるが宜い、爾うすれば独り政府が悦ぶのみならずして、中津藩も誠に安楽になる、所謂一挙両全の策であるから爾う遣りなさいと云た。
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福翁自伝・王政維新・塾の始末に困る、楽書無用夫れはそれとして又一方から見れば、塾生の始末には誠に骨が折れました。戦争後意外に人の数は増したが、その人はどんな種類の者かと云うに、去年から出陣してさん/″\奥州地方で戦て漸く除隊になって、国には帰らずに鉄砲を棄てゝその儘塾に来たと云うような少年生が中々多い。中にも土佐の若武者などは長い朱鞘の大小を挟して、鉄砲こそ持たないが今にも斬て掛ろうと云うような恐ろしい顔色をして居る。爾うかと思うとその若武者が紅い女の着物を着て居る。是れはドウしたのかと云うと、会津で分捕りした着物だと云て威張て居る。実に血腥い怖い人物で、一見先ず手の着けようがない。ソコデ私は前申す通り新銭座の塾を立てると同時に極めて簡単な塾則を拵えて、塾中金の貸借は一切相成らぬ、寝るときは寝て、起るときは起き、喰うときには定めの時間に食堂に出る、夫れから楽書一切相成らぬ、壁や障子に楽書を禁ずるは勿論、自分所有の行灯にも机にも一切の品物に楽書は相成らぬと云うくらいの箇条で、既に規則を極めた以上はソレを実行しなくてはならぬ。ソコで障子に楽書してあれば私は小刀を以て其処だけ切破て、この部屋に居る者が元の通りに張れと申付ける。夫れから行灯に書てあれば、誰の行灯でも構わぬ、その持主を咎めると、時としてはその者が、「是れは自分でない、人の書たのですと云ても私は許さぬ。人が書たと云うのは云訳けにならぬ、自分の行灯に楽書されてソレを見て居ると云うのは馬鹿だ、馬鹿の罰に早々張替えるが宜しい、楽書した行灯は塾に置かぬ、破るからアトを張て置きなさいと云うようにして、寸毫も仮さない。如何に血腥い若武者が何と云おうとも、そんな事を恐れて居られない。ミシ/\遣付けて遣る。名は忘れたが、不図見た所が桐の枕に如何な楽書がしてある。「コリャ何だ。銘々の私有品でも楽書は一切相成らぬと云たではないか、ドウ云う訳けだ、一句の返答も出来なかろう。この枕は私は削りたいけれども削ることが出来ない、打毀わすから代りを取て来なさいと云て、その枕を取上げて足で踏潰して、サアどうでもしろ、攫み掛て来るなら相手になろうと云わぬばかりの思惑を示した所で、決して掛らぬ。全体私は骨格は少し大きいが、本当は柔術も何も知らない、生れてから人を打たこともない男だけれども、その権幕はドウも撃ちそうな攫み掛りそうな気色で、口の法螺でなくして身体の法螺で吹倒した。所が皆小さくなって言うことを聞くようになって来て、ソレでマア戦争帰りの血腥い奴も自から静になって塾の治まりが付き、その中には真成な大人しい学者風の少年も多く、至極勉強してます/\塾風を高尚にして、明治四年まで新銭座に居ました。
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福翁自伝・王政維新・幕府の攘夷主義(3)「成程、爾う云えば分らないことはないが、何分ドウも争と云う文字が穏かならぬ。是れではドウモ御老中方へ御覧に入れることが出来ないと、妙な事を云うその様子を見るに、経済書中に人間互に相譲るとか云うような文字が見たいのであろう。例えば商売をしながらも忠君愛国、国家の為めには無代価でも売るとか云うような意味が記してあったらば気に入るであろうが、夫れは出来ないから、「ドウも争と云う字が御差支ならば、外に飜訳の致しようもないから、丸で是れは削りましょうと云て、競争の文字を真黒に消して目録書を渡したことがある。この一事でも幕府全体の気風は推察が出来ましょう。夫れから又長州征伐のとき外国人は中々注意して居て、或時英人であったか米人であったか幕府に書翰を出し、長州の大名にドウ云う罪があって征伐するのだろうか、ソレを承りたいと云て来た。爾うするとその時の閣老役人達がいろ/\評議をしたと見え、長々と返辞を遣たその返辞の中に、開鎖論と云うことを頓と云わない。当りまえならば国を開いた今日、長州の大名は政府の命令を奉ぜずに外国人を敵視するとか、下ノ関で外国の船艦に発砲したからとか云いそうなものであるに、ソンな事は一言半句も云わないで、イヤどうも京都に暴れ込んだとか、或は勅命に戻り台命に背き、その罪南山の竹を尽すも数えがたしと云うような、漢学者流の文句をゴテ/″\書て遣た。私はその返辞を見て、コリャどうも仕様がない、表面には開国を装うて居るも、幕府は真実自分も攘夷が為たくて堪らないのだ、迚もモウ手の着けようのない政府だと、実に愛想が尽きて同情を表する気がない。
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