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福翁自伝 / 王政維新・主従の間も売言葉に買言葉

爾う云う風であるから藩に対して甚だ淡白、淡白と云えば言葉が宜いけれども、同藩士族の眼から見れば不親切な薄情な奴と見えるも道理で、藩中の若い者等が酒席などで毎度議論を吹掛ることがあるその時に、私は答えて「不親切薄情と云うけれども、私は何も奥平様に向て悪い事をしたことはない、一寸とでも藩政の邪魔をしたことはない、只命令の儘に堅く守て居るのだ。この上に親切と云てドウ云うことをするのか。私は厚かましい事は出来ない、之を不親切と云えば仕方がない。今も申す通り私は藩に向て悪い事をしないのみか、一寸とでも求めたことがなかろう、或は身分を取立て呉れろ、禄を増して呉れろと云うような事は、蔭にも日向にも一言でも云たことがあるか。その言葉を聞た人がこの藩中に在るかドウか、御家老以下の役人に聞て見るが宜い。厚かましく親切を尽して、厚かましく泣付くと云うことは、自分の性質に於て出来ない。是れで悪いと云うならば追出すより外に仕方はあるまい。追出せば謹んで命を奉じて出て行く丈けの話だ。凡そ人間の交際は売言葉に買言葉で、藩の方から数代御奉公を仰付けられて難有い仕合せであろうと酷く恩に被せれば、失敬ながら此方にも言葉がある、数代家来になって正直に勤めたぞ、そんなに恩に被せなくても宜かろうと云わねばならぬ。之に反して藩の方から手前達のような家来が数代神妙に奉公して呉れたからこの藩も行立つと斯う云えば、此方も亦言葉を改め、数代御恩を蒙て難有い仕合せに存じ奉ります、累代の間には役に立たぬ小供もありました、病人もありました、ソレにも拘わらず下さる丈けの家禄はチャンと下さって家族一同安楽に生活しました、主恩海より深し山より高しと、此方も小さくなってお礼を申上げる。是れが即ち売言葉に買言葉だ。ソレ丈けの事は私も能く知て居る。爾う無闇に恩に被せる事ばかり云て、只漠然と不親切と云うような事を云て貰いたくないと云うような調子で、始終問答をして居ました。

書き下し

爾う云う風であるから藩に対して甚だ淡白、淡白と云えば言葉が宜いけれども、同藩士族の眼から見れば不親切な薄情な奴と見えるも道理で、藩中の若い者等が酒席などで毎度議論を吹掛ることがあるその時に、私は答えて「不親切薄情と云うけれども、私は何も奥平様に向て悪い事をしたことはない、一寸とでも藩政の邪魔をしたことはない、只命令の儘に堅く守て居るのだ。この上に親切と云てドウ云うことをするのか。私は厚かましい事は出来ない、之を不親切と云えば仕方がない。今も申す通り私は藩に向て悪い事をしないのみか、一寸とでも求めたことがなかろう、或は身分を取立て呉れろ、禄を増して呉れろと云うような事は、蔭にも日向にも一言でも云たことがあるか。その言葉を聞た人がこの藩中に在るかドウか、御家老以下の役人に聞て見るが宜い。厚かましく親切を尽して、厚かましく泣付くと云うことは、自分の性質に於て出来ない。是れで悪いと云うならば追出すより外に仕方はあるまい。追出せば謹んで命を奉じて出て行く丈けの話だ。凡そ人間の交際は売言葉に買言葉で、藩の方から数代御奉公を仰付けられて難有い仕合せであろうと酷く恩に被せれば、失敬ながら此方にも言葉がある、数代家来になって正直に勤めたぞ、そんなに恩に被せなくても宜かろうと云わねばならぬ。之に反して藩の方から手前達のような家来が数代神妙に奉公して呉れたからこの藩も行立つと斯う云えば、此方も亦言葉を改め、数代御恩を蒙て難有い仕合せに存じ奉ります、累代の間には役に立たぬ小供もありました、病人もありました、ソレにも拘わらず下さる丈けの家禄はチャンと下さって家族一同安楽に生活しました、主恩海より深し山より高しと、此方も小さくなってお礼を申上げる。是れが即ち売言葉に買言葉だ。ソレ丈けの事は私も能く知て居る。爾う無闇に恩に被せる事ばかり云て、只漠然と不親切と云うような事を云て貰いたくないと云うような調子で、始終問答をして居ました。

現代語訳

そういうありさまですから、藩に対して甚だ淡白で、淡白といえば言葉はよいけれども、同藩の士族の目から見れば不親切な薄情な奴と見えるのももっともで、藩中の若い者たちが酒席などでたびたび議論を吹っかけることがありました。そのとき私は答えて、「不親切薄情というけれども、私は何も奥平様に対して悪いことをしたことはない。少しでも藩政の邪魔をしたことはない。ただ命令のままに堅く守っているのだ。この上に親切といって、どういうことをするのか。私は厚かましいことはできない。これを不親切というなら仕方がない。今も言う通り、私は藩に向かって悪いことをしないのみか、少しでも求めたことがなかろう。あるいは身分を取り立ててくれ、禄を増してくれというようなことは、陰でも日向でも一言でも言ったことがあるか。その言葉を聞いた人がこの藩中にいるかどうか、御家老以下の役人に聞いてみるがよい。厚かましく親切を尽くし、厚かましく泣きつくということは、自分の性質においてできない。これで悪いというなら追い出すより外に仕方はあるまい。追い出せば、謹んで命を奉じて出て行くだけの話だ。およそ人間の交際は売り言葉に買い言葉で、藩のほうから、数代御奉公を仰せ付けられてありがたい仕合わせであろうと酷く恩に着せれば、失敬ながらこちらにも言葉がある。数代家来になって正直に勤めたぞ、そんなに恩に着せなくてもよかろうと言わねばならぬ。これに反して藩のほうから、手前たちのような家来が数代神妙に奉公してくれたから、この藩も行き立つのだとこう言えば、こちらもまた言葉を改め、数代の御恩を蒙りありがたい仕合わせに存じます、累代の間には役に立たぬ子供もありました、病人もありました、それにもかかわらず下さるだけの家禄はちゃんと下さって、家族一同安楽に生活しました、主恩は海より深く山より高しと、こちらも小さくなってお礼を申し上げる。これがすなわち売り言葉に買い言葉だ。それだけのことは私もよく知っている。そうむやみに恩に着せることばかり言って、ただ漠然と不親切というようなことを言ってもらいたくない」という調子で、始終問答をしていました。

解説

薄情と責められた福沢は、藩に悪いことも求めることもしていないと開き直ります。そして主従関係を売り言葉に買い言葉と呼び、藩が恩に着せれば、こちらも数代正直に勤めたと言い返し、藩が功を認めれば、こちらも主恩は海より深いと礼を言う、というのが人間の付き合いだと説きます。恩の貸し借りを先に主張すると反発を呼び、先に相手を立てると相手も立ててくれるという関係の力学です。上司と部下、取引先との関係でも、相手に恩を着せる言い方が摩擦を生み、感謝から入る言い方が信頼を生むことは、今も変わりません。

この章句が説くこと

売言葉に買言葉主従恩に着せる淡白不親切家禄

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