福沢諭吉小品集 / 故社員の一言今尚精神・第3段
時に本塾の教員小幡仁三郎(小幡篤次郎の実弟。明治四年亜米利加に遊学中不幸にして同六年彼地に物故。)この事を聞き、走て塾の広間に出て、顔色を変じ目を瞋らして同窓の諸友に告て曰く、諸君は今日の形勢を見て如何の観を為すや、東軍西軍相戦うならんと雖ども、畢竟日本国内の戦争にして唯是れ内乱なるぞ、我輩は文を事としてその戦争に関するなしと雖ども、内外の分は未だ之を忘れず、西軍或は暴ならん、東軍或は無法ならん、来て我輩に害を加えんとする者あらば、我亦男児なり、よく之を防がん、之を防て力足らざるときは唯一死あるのみ、堂々たる日本国人にして報国の大義を忘れ、外人の庇護の下に苟も免かれんより、寧ろ同国人の刃に死せんのみ、我輩が共にこの義塾を創立して共に苦学するその目的は何処に在るや、日本人にして外国の書を読み、一身の独立を謀てその趣旨を一国に及ぼし、以て我国権を皇張するの一点に在るのみ、然るを今にしてこの大義を顧みざるが如きは初より目的を誤るものと云うべし、我義塾の命脈を絶つものと云うべし、彼の印鑑の如きは速に之を火に投じて可なりとて、その語気凜々、決する所あるが如し。聞く者悚然として復た一言を発せず。之より社中の気風益固結して曾て動変することなく、爾後王政維新の太平に逢い又無数の事変をも目撃したれども、報国致死は我社中の精神にして、今日我輩が専ら国権の議論を主唱するも、その由来一朝一夕に非ず、蓋し社中全体の気風なりとは雖ども、仁三郎君の一言亦重しと云うべし。往事回顧すれば十五年、社中君を喪うてより又十年、今の学友或は之を知らざる者もあらん。記して以て君の言行の一班を知らしめ、兼て天下国権論者の警に供す。
新字:時に本塾の教員小幡仁三郎(小幡篤次郎の実弟。明治四年亜米利加に遊学中不幸にして同六年彼地に物故。)この事を聞き、走て塾の広間に出て、顔色を変じ目を瞋らして同窓の諸友に告て曰く、諸君は今日の形勢を見て如何の観を為すや、東軍西軍相戦うならんと雖ども、畢竟日本国内の戦争にして唯是れ内乱なるぞ、我輩は文を事としてその戦争に関するなしと雖ども、内外の分は未だ之を忘れず、西軍或は暴ならん、東軍或は無法ならん、来て我輩に害を加えんとする者あらば、我亦男児なり、よく之を防がん、之を防て力足らざるときは唯一死あるのみ、堂々たる日本国人にして報国の大義を忘れ、外人の庇護の下に苟も免かれんより、寧ろ同国人の刃に死せんのみ、我輩が共にこの義塾を創立して共に苦学するその目的は何処に在るや、日本人にして外国の書を読み、一身の独立を謀てその趣旨を一国に及ぼし、以て我国権を皇張するの一点に在るのみ、然るを今にしてこの大義を顧みざるが如きは初より目的を誤るものと云うべし、我義塾の命脈を絶つものと云うべし、彼の印鑑の如きは速に之を火に投じて可なりとて、その語気凜々、決する所あるが如し。聞く者悚然として復た一言を発せず。之より社中の気風益固結して曽て動変することなく、爾後王政維新の太平に逢い又無数の事変をも目撃したれども、報国致死は我社中の精神にして、今日我輩が専ら国権の議論を主唱するも、その由来一朝一夕に非ず、蓋し社中全体の気風なりとは雖ども、仁三郎君の一言亦重しと云うべし。往事回顧すれば十五年、社中君を喪うてより又十年、今の学友或は之を知らざる者もあらん。記して以て君の言行の一班を知らしめ、兼て天下国権論者の警に供す。
書き下し
時に本塾の教員小幡仁三郎(小幡篤次郎の実弟。明治四年亜米利加に遊学中不幸にして同六年彼地に物故。)この事を聞き、走て塾の広間に出て、顔色を変じ目を瞋らして同窓の諸友に告て曰く、諸君は今日の形勢を見て如何の観を為すや、東軍西軍相戦うならんと雖ども、畢竟日本国内の戦争にして唯是れ内乱なるぞ、我輩は文を事としてその戦争に関するなしと雖ども、内外の分は未だ之を忘れず、西軍或は暴ならん、東軍或は無法ならん、来て我輩に害を加えんとする者あらば、我亦男児なり、よく之を防がん、之を防て力足らざるときは唯一死あるのみ、堂々たる日本国人にして報国の大義を忘れ、外人の庇護の下に苟も免かれんより、寧ろ同国人の刃に死せんのみ、我輩が共にこの義塾を創立して共に苦学するその目的は何処に在るや、日本人にして外国の書を読み、一身の独立を謀てその趣旨を一国に及ぼし、以て我国権を皇張するの一点に在るのみ、然るを今にしてこの大義を顧みざるが如きは初より目的を誤るものと云うべし、我義塾の命脈を絶つものと云うべし、彼の印鑑の如きは速に之を火に投じて可なりとて、その語気凜々、決する所あるが如し。聞く者悚然として復た一言を発せず。之より社中の気風益固結して曽て動変することなく、爾後王政維新の太平に逢い又無数の事変をも目撃したれども、報国致死は我社中の精神にして、今日我輩が専ら国権の議論を主唱するも、その由来一朝一夕に非ず、蓋し社中全体の気風なりとは雖ども、仁三郎君の一言亦重しと云うべし。往事回顧すれば十五年、社中君を喪うてより又十年、今の学友或は之を知らざる者もあらん。記して以て君の言行の一班を知らしめ、兼て天下国権論者の警に供す。
現代語訳
そのとき、本塾の教員の小幡仁三郎(小幡篤次郎の実弟。明治四年にアメリカに遊学中、不幸にして同六年に彼の地で亡くなった)は、この事を聞いて、走って塾の広間に出て、顔色を変え目を怒らせて、同窓の諸友に告げて言いました。諸君は今日の形勢を見てどう思うか。東軍と西軍が相戦うだろうが、結局は日本国内の戦争であって、これはただの内乱である。我々は文を事として、その戦争には関わりがないが、内と外の区別はまだこれを忘れてはいない。西軍はあるいは乱暴かもしれない。東軍はあるいは無法かもしれない。来て我々に害を加えようとする者があれば、我もまた男児である。よくこれを防ごう。これを防いで力が足りないときは、ただ一死あるのみ。堂々たる日本国人でありながら、報国の大義を忘れ、外国人の庇護のもとでかりそめに免れるより、むしろ同国人の刃に死ぬだけだ。我々が共にこの義塾を創立し、共に苦学するその目的はどこにあるのか。日本人でありながら外国の書を読み、一身の独立を図って、その趣旨を一国に及ぼし、それによってわが国権を拡張する、その一点にあるだけである。それなのに今になって、この大義を顧みないようなことがあれば、初めから目的を誤っていたというべきである。わが義塾の命脈を絶つものというべきである。あの印鑑のようなものは、速やかに火に投じてよいと言って、その語気は凛々として、決するところがあるようでした。聞く者は恐れ入って、再び一言も発しませんでした。これより社中の気風はますます固く結ばれて、少しも変わることがなく、その後、王政維新の太平に遭い、また無数の事変を目撃したけれども、報国致死は我が社中の精神であり、今日私が専ら国権の議論を主唱するのも、その由来は一朝一夕のものではありません。社中全体の気風とはいえ、仁三郎君の一言もまた重いというべきです。往事を回顧すれば十五年、社中が君を失ってからさらに十年、今の学友の中には、これを知らない者もあるでしょう。記して君の言行の一端を知らせ、あわせて天下の国権論者への警めに供します。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・故社員の一言今尚精神・第2段斯る世上の有様なれば、在江戸の人にして苟も横浜在留の西洋人に知る者あれば、西洋人も亦私に之を保護せんとするの情を抱き、或は仮に某国の籍に入れと云う者あり、或はその印鑑を与えて万一危急のときはこの印鑑を官軍に示して一時を免かれよと云う者あり。何れも皆深切の情に出ることにして、敢て奸策とは云うべからず。我義塾の如きも固より外人に知る者多ければその顧る所と為りて、或る日某氏より態と印鑑を贈り来りしは、全くその友情に出たるものより外ならざるなり。
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福翁自伝・王政維新・日本国中唯慶應義塾のみ此方がこの通りに落付払て居れば、世の中は広いもので又妙なもので、兵馬騒乱の中にも西洋の事を知りたいと云う気風は何処かに流行して、上野の騒動が済むと奥州の戦争と為り、その最中にも生徒は続々入学して来て、塾はます/\盛になりました。顧みて世間を見れば、徳川の学校は勿論潰れて仕舞い、その教師さえも行衛が分らぬ位、況して維新政府は学校どころの場合でない、日本国中苟も書を読で居る処は唯慶應義塾ばかりと云う有様で、その時に私が塾の者に語たことがある。昔し/\拿破翁の乱に和蘭国の運命は断絶して、本国は申すに及ばず印度地方まで悉く取られて仕舞て、国旗を挙げる場所がなくなった。所が、世界中纔に一箇処を遺した。ソレは即ち日本長崎の出島である。出島は年来和蘭人の居留地で、欧洲兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に百尺竿頭に飜々して和蘭王国は曾て滅亡したることなしと、今でも和蘭人が誇て居る。シテ見るとこの慶應義塾は日本の洋学の為めには和蘭の出島と同様、世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だ曾て洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、慶應義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着するなと申して、大勢の少年を励ましたことがあります。
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