福翁自伝 / 王政維新・父母の遺伝
是れは私独りの発明でない、私の父母共に爾う云う風があったと推察が出来ます。前にも云た通り、私の父は勿論漢学者で、身分は私と同じ事であるから、定めて上流士族から蔑視されて居たでしょう。所が私の父は決して他人を軽蔑しない。例えば江州水口の碩学中村栗園は父の実弟のように親しくして居ましたが、元来栗園の身分は豊前中津の染物屋の息子で、所謂素町人の子だから、藩中士族は誰も相手になるものがない、けれども私の父はその人物を愛して、身分の相違を問わず大層丁寧に取扱うて、大阪の倉屋敷の家に寄寓させて尚お種々に周旋して、とう/\水口の儒者になるように取持ち、その間柄と云うものは真に骨肉の兄弟にも劣らず、父の死後私の代になって、栗園先生は福澤の家を第二の実家のような塩梅にして、死ぬまで交際して居ました。シテ見ると是れは決して私の発明でない、父母から譲られた性質であると思う。ソレで私は中津に居て上流士族から蔑視されて居ながら、私の身分以下の藩士は勿論、町人百姓に向ても、仮初にも横風に構えてその人々を目下に見下して、威張るなどゝ云うことは一寸ともしたことがない。勿論上の者に向て威張りたくも威張ることが出来ない、出来ないから唯モウ触らぬように相手にならぬようと、独り自から安心決定して居る。
新字:是れは私独りの発明でない、私の父母共に爾う云う風があったと推察が出来ます。前にも云た通り、私の父は勿論漢学者で、身分は私と同じ事であるから、定めて上流士族から蔑視されて居たでしょう。所が私の父は決して他人を軽蔑しない。例えば江州水口の碩学中村栗園は父の実弟のように親しくして居ましたが、元来栗園の身分は豊前中津の染物屋の息子で、所謂素町人の子だから、藩中士族は誰も相手になるものがない、けれども私の父はその人物を愛して、身分の相違を問わず大層丁寧に取扱うて、大阪の倉屋敷の家に寄寓させて尚お種々に周旋して、とう/\水口の儒者になるように取持ち、その間柄と云うものは真に骨肉の兄弟にも劣らず、父の死後私の代になって、栗園先生は福沢の家を第二の実家のような塩梅にして、死ぬまで交際して居ました。シテ見ると是れは決して私の発明でない、父母から譲られた性質であると思う。ソレで私は中津に居て上流士族から蔑視されて居ながら、私の身分以下の藩士は勿論、町人百姓に向ても、仮初にも横風に構えてその人々を目下に見下して、威張るなどゝ云うことは一寸ともしたことがない。勿論上の者に向て威張りたくも威張ることが出来ない、出来ないから唯モウ触らぬように相手にならぬようと、独り自から安心決定して居る。
書き下し
是れは私独りの発明でない、私の父母共に爾う云う風があったと推察が出来ます。前にも云た通り、私の父は勿論漢学者で、身分は私と同じ事であるから、定めて上流士族から蔑視されて居たでしょう。所が私の父は決して他人を軽蔑しない。例えば江州水口の碩学中村栗園は父の実弟のように親しくして居ましたが、元来栗園の身分は豊前中津の染物屋の息子で、所謂素町人の子だから、藩中士族は誰も相手になるものがない、けれども私の父はその人物を愛して、身分の相違を問わず大層丁寧に取扱うて、大阪の倉屋敷の家に寄寓させて尚お種々に周旋して、とう/\水口の儒者になるように取持ち、その間柄と云うものは真に骨肉の兄弟にも劣らず、父の死後私の代になって、栗園先生は福澤の家を第二の実家のような塩梅にして、死ぬまで交際して居ました。シテ見ると是れは決して私の発明でない、父母から譲られた性質であると思う。ソレで私は中津に居て上流士族から蔑視されて居ながら、私の身分以下の藩士は勿論、町人百姓に向ても、仮初にも横風に構えてその人々を目下に見下して、威張るなどゝ云うことは一寸ともしたことがない。勿論上の者に向て威張りたくも威張ることが出来ない、出来ないから唯モウ触らぬように相手にならぬようと、独り自から安心決定して居る。
現代語訳
これは私一人の発明ではありません。私の父母ともにそういう風があったと推察ができます。前にも言ったとおり、私の父はもちろん漢学者で、身分は私と同じですから、きっと上流士族から蔑視されていたでしょう。ところが私の父は決して他人を軽蔑しませんでした。たとえば近江国水口の碩学、中村栗園は父の実の弟のように親しくしていましたが、もともと栗園の身分は豊前中津の染物屋の息子で、いわゆる素町人の子ですから、藩中の士族は誰も相手にしません。けれども私の父はその人物を愛して、身分の違いを問わず大層丁寧に扱い、大阪の蔵屋敷の家に居候させ、さらにいろいろと世話をして、とうとう水口の儒者になるよう取り持ちました。その間柄は、まことに骨肉の兄弟にも劣らず、父の死後、私の代になっても、栗園先生は福沢の家を第二の実家のようにして、死ぬまで付き合っていました。してみれば、これは決して私の発明ではなく、父母から譲られた性質であると思います。それで私は中津にいて、上流士族から蔑視されながら、私の身分以下の藩士はもちろん、町人百姓に向かっても、かりそめにも横柄に構えて、その人々を見下して威張るなどということは、少しもしたことがありません。もちろん、上の者に向かって威張りたくても威張ることができない。できないから、ただもう触らぬように、相手にならぬようにと、独りで安心立命しているのです。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・幼少の時・儒教主義の教育夫れから最う一つ之に加えると、私の父は学者であった。普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛もなく算盤を執て金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯う云うことがある。私は勿論幼少だから手習どころの話でないが、最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷の中に手習の師匠があって、其家には町家の小供も来る。其処でイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、その事を父が聞て、怪しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯う云う処に小供は遣て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました。何でも大変喧ましい人物であったことは推察が出来る。その書遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心、屋漏に愧じずということ許り心掛たものと思われるから、その遺風は自から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合は少く、明ても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思て、骨肉の従兄弟に対してさえ、心の中には何となく之を目下に見下して居て、夫等の者のすることは一切咎もせぬ、多勢に無勢、咎立をしようと云ても及ぶ話でないと諦らめて居ながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、云わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛び廻わり刎ね廻わりして、至極活溌にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬと云うのも、兎角同藩中の子弟と打解けて遊ぶことが出来ずに孤立した所為でしょう。
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福翁自伝・幼少の時・成長の上、坊主にする前申す通り、亡父は俗吏を勤めるのが不本意であったに違いない。左れば中津を蹴飛して外に出れば宜い。所が決してソンナ気はなかった様子だ。如何なる事にも不平を呑んで、チャント小禄に安んじて居たのは、時勢の為めに進退不自由なりし故でしょう。私は今でも独り気の毒で残念に思います。例えば父の生前に斯う云う事がある。今から推察すれば父の胸算に、福澤の家は総領に相続させる積りで宜しい、所が子供の五人目に私が生れた、その生れた時は大きな療せた骨太な子で、産婆の申すに、この子は乳さえ沢山呑ませれば必ず見事に育つと云うのを聞て、父が大層喜んで、是れは好い子だ、この子が段々成長して十か十一になれば寺に遣て坊主にすると、毎度母に語ったそうです。その事を母が又私に話して、アノ時阿父さんは何故坊主にすると仰っしゃったか合点が行かぬが、今御存命なればお前は寺の坊様になってる筈じゃと、何かの話の端には母が爾う申して居ましたが、私が成年の後その父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立て居て、何百年経ても一寸とも動かぬと云う有様、家老の家に生れた者は家老になり、足軽の家に生れた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まって居る者も同様、何年経ても一寸とも変化と云うものがない。ソコデ私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲に坊主と云うものが一つある、何でもない魚屋の息子が大僧正になったと云うような者が幾人もある話、それゆえに父が私を坊主にすると云たのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。
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福翁自伝・暗殺の心配・箱根の心配・中村栗園先生の門を素通りソレから船は大阪に着て上陸、東海道をして箱根に掛り、峠の宿の破不屋と云う宿屋に泊ると、奥の座敷に戸田何某と云う人が江戸の方から来て先きに泊て居る。この人は当時、山陵奉行とか云う京都の御用を勤めて居て、供の者も大勢附て居る様子、問わずと知れた攘夷の一類と推察して気味が悪い、終夜ろくに寝もせず、夜の明ける前に早々宿屋を駈出してコソ/\逃げたことがある。 その時の道中であったか、江州水口、中村栗園先生の門前を素通りしましたが、是れは甚だ気に済まぬ。栗園の事は前にも申す通り私の家と浅からぬ縁のある人で、前年、私が始めて江戸に出るとき水口を通行して其処へ尋ねた所が、先生は非常に喜んで、過ぎし昔の事共を私に話して聞かせ、「お前の御親父の大阪で御不幸の時は、私は直ぐ大阪に行て、ソレからお前達が船に乗て中津に帰るその時には、私がお前を抱いて安治川口の船まで行て別れた。そのときお前は年弱の三つで、何も知らなかろうなどゝ云う話で、私も実にほんとうの親に逢たような心持がして、今晩は是非泊れと云て、中村の家に一泊しました。斯くまでの間柄であるから、今度も是非とも訪問しなければならぬ。所がその前に人の噂を聞けば、水口の中村先生は近来専ら孫子の講釈をして、玄関には具足などが飾てあると云う、問うに及ばず立派な攘夷家である、人情としては是非とも立寄て訪問せねばならぬが、ドウも寄ることが出来ぬ。栗園先生は頼んでも私を害する人ではないが、血気の門弟子が沢山居るから、立寄れば迚も助からぬと思て、不本意ながらその門前を素通りしました。その後先生には面会の機会がなくて、遂に故人になられました。今日に至るまでも甚だ心残りで不愉快に思います、
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