福翁自伝 / 幼少の時
福澤諭吉の父は豊前中津奥平藩の士族福澤百助、母は同藩士族、橋本浜右衛門の長女、名を於順と申し、父の身分はヤット藩主に定式の謁見が出来ると云うのですから足軽よりは数等宜しいけれども士族中の下級、今日で云えば先ず判任官の家でしょう。藩で云う元締役を勤めて大阪にある中津藩の倉屋敷に長く勤番して居ました。夫れゆえ家内残らず大阪に引越して居て、私共は皆大阪で生れたのです。兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三人、私は末子。私の生れたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡に遺るは母一人に子供五人、兄は十一歳、私は数え年で三つ。斯くなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。
新字:福沢諭吉の父は豊前中津奥平藩の士族福沢百助、母は同藩士族、橋本浜右衛門の長女、名を於順と申し、父の身分はヤット藩主に定式の謁見が出来ると云うのですから足軽よりは数等宜しいけれども士族中の下級、今日で云えば先ず判任官の家でしょう。藩で云う元締役を勤めて大阪にある中津藩の倉屋敷に長く勤番して居ました。夫れゆえ家内残らず大阪に引越して居て、私共は皆大阪で生れたのです。兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三人、私は末子。私の生れたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡に遺るは母一人に子供五人、兄は十一歳、私は数え年で三つ。斯くなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。
書き下し
福澤諭吉の父は豊前中津奥平藩の士族福澤百助、母は同藩士族、橋本浜右衛門の長女、名を於順と申し、父の身分はヤット藩主に定式の謁見が出来ると云うのですから足軽よりは数等宜しいけれども士族中の下級、今日で云えば先ず判任官の家でしょう。藩で云う元締役を勤めて大阪にある中津藩の倉屋敷に長く勤番して居ました。夫れゆえ家内残らず大阪に引越して居て、私共は皆大阪で生れたのです。兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三人、私は末子。私の生れたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡に遺るは母一人に子供五人、兄は十一歳、私は数え年で三つ。斯くなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。
現代語訳
福澤諭吉の父は豊前中津の奥平藩の士族で福澤百助、母は同じ藩士の橋本浜右衛門の長女で、名を於順といいます。父の身分は、やっと藩主に定式の謁見ができるというのですから、足軽よりは数段よいけれども士族の中では下級、今日でいえばまず判任官の家でしょう。藩でいう元締役を務め、大阪にある中津藩の倉屋敷に長く勤番していました。それゆえ家族は残らず大阪に引っ越しており、私たちはみな大阪で生まれたのです。兄弟は五人、総領の兄の次に女の子が三人、私は末っ子。私が生まれたのは天保五年十二月十二日、父は四十三歳、母は三十一歳のときの誕生です。それから天保七年六月、父が不幸にも病死しました。あとに残るのは母ひとりに子供五人、兄は十一歳、私は数え年で三つ。こうなっては大阪にもいられず、兄弟残らず母に連れられて、藩の本拠地の中津に帰りました。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・幼少の時・成長の上、坊主にする前申す通り、亡父は俗吏を勤めるのが不本意であったに違いない。左れば中津を蹴飛して外に出れば宜い。所が決してソンナ気はなかった様子だ。如何なる事にも不平を呑んで、チャント小禄に安んじて居たのは、時勢の為めに進退不自由なりし故でしょう。私は今でも独り気の毒で残念に思います。例えば父の生前に斯う云う事がある。今から推察すれば父の胸算に、福澤の家は総領に相続させる積りで宜しい、所が子供の五人目に私が生れた、その生れた時は大きな療せた骨太な子で、産婆の申すに、この子は乳さえ沢山呑ませれば必ず見事に育つと云うのを聞て、父が大層喜んで、是れは好い子だ、この子が段々成長して十か十一になれば寺に遣て坊主にすると、毎度母に語ったそうです。その事を母が又私に話して、アノ時阿父さんは何故坊主にすると仰っしゃったか合点が行かぬが、今御存命なればお前は寺の坊様になってる筈じゃと、何かの話の端には母が爾う申して居ましたが、私が成年の後その父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立て居て、何百年経ても一寸とも動かぬと云う有様、家老の家に生れた者は家老になり、足軽の家に生れた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まって居る者も同様、何年経ても一寸とも変化と云うものがない。ソコデ私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲に坊主と云うものが一つある、何でもない魚屋の息子が大僧正になったと云うような者が幾人もある話、それゆえに父が私を坊主にすると云たのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。
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福翁自伝・幼少の時・兄弟五人中津の風に合わず扨中津に帰てから私の覚えて居ることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一所に混和することが出来ない、その出来ないと云うのは深い由縁も何もないが、従兄弟が沢山ある、父方の従兄弟もあれば母方の従兄弟もある。マア何十人と云う従兄弟がある。又近所の小供も幾許もある、あるけれどもその者等とゴチャクチャになることは出来ぬ。第一言葉が可笑しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と云う所を、私共は「そうでおます」なんと云うような訳けで、お互に可笑しいから先ず話が少ない。夫れから又母は素と中津生れであるが、長く大阪に居たから大阪の風に慣れて、小供の髪の塩梅式、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外にない。有合の着物を着せるから自然中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うと云う外には何も原因はないが、子供の事だから何だか人中に出るのを気恥かしいように思て、自然、内に引込んで兄弟同士遊んで居ると云うような風でした。
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福翁自伝・幼少の時・儒教主義の教育夫れから最う一つ之に加えると、私の父は学者であった。普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛もなく算盤を執て金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯う云うことがある。私は勿論幼少だから手習どころの話でないが、最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷の中に手習の師匠があって、其家には町家の小供も来る。其処でイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、その事を父が聞て、怪しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯う云う処に小供は遣て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました。何でも大変喧ましい人物であったことは推察が出来る。その書遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心、屋漏に愧じずということ許り心掛たものと思われるから、その遺風は自から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合は少く、明ても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思て、骨肉の従兄弟に対してさえ、心の中には何となく之を目下に見下して居て、夫等の者のすることは一切咎もせぬ、多勢に無勢、咎立をしようと云ても及ぶ話でないと諦らめて居ながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、云わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛び廻わり刎ね廻わりして、至極活溌にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬと云うのも、兎角同藩中の子弟と打解けて遊ぶことが出来ずに孤立した所為でしょう。
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福翁自伝・大阪修業・四十両の借金家財を売る出るには金の始末をしなければならぬ。その金の始末と云うのは、兄の病気や勤番中の其れ是れの入費、凡そ四十両借金がある。この四十両と云うものは、その時代に私などの家に取ては途方心ない大借。これをこの儘にして置ては迚も始末が付かぬから、何でも片付けなければならぬ。如何しよう。外に仕方がない。何でも売るのだ。一切万物売るより外なしと考えて、聊か頼みがあると云うのは、私の父は学者であったから、藩中では中々蔵書を持て居る。凡そ冊数にして千五百冊ばかりもあって、中には随分世間に類の少ない本もある。例えば私の名を諭吉と云うその諭の字は天保五年十二月十二日の夜、私が誕生したその日に、父が多年所望して居た明律の上諭条例と云う全部六、七十冊ばかりの唐本を買取て、大造喜んで居る処に、その夜男子が出生して重ね/″\の喜びと云う所から、その上諭の諭の字を取て私の名にしたと母から聞いた事がある位で、随分珍らしい漢書があったけれども、母と相談の上、蔵書を始め一切の物を売却しようと云うことになって、先ず手近な物から売れるだけ売ろうと云うので、軸物のような物から売り始めて、目ぼしい物を申せば頼山陽の半切の掛物を金二分に売り、大雅堂の柳下人物の掛物を二両二分、徂徠の書、東涯の書もあったが、誠に値がない、見るに足らぬ。その他はごた/\した雑物ばかり。覚えて居るのは大雅堂と山陽。刀は天正祐定二尺五寸拵付、能く出来たもので四両。ソレカラ蔵書だ。中津の人で買う者はありはせぬ。如何したって何十両と云う金を出す藩士はありはせぬ。所で私の先生、白石と云う漢学の先生が、藩で何か議論をして中津を追出されて豊後の臼杵藩の儒者になって居たから、この先生に便って行けば売れるだろうと思て、臼杵まで態々出掛けて行て、先生に話をした処が、先生の世話で残らずの蔵書を代金十五両で臼杵藩に買て貰い、先ず一口に大金十五両が手に入り、その他有らん限り皿も茶碗も丼も猪口も一切売て、漸く四十両の金が揃い、その金で借金は奇麗に済だが、その蔵書中に易経集註十三冊に伊藤東涯先生が自筆で細々と書入をした見事なものがある。是れは亡父が存命中大阪で買取て殊の外珍重したものと見え、蔵書目録に父の筆を以て、この東涯先生書入の易経十三冊は天下稀有の書なり、子孫謹で福澤の家に蔵むべしと、恰も遺言のようなことが害いてある。私も之を見ては何としても売ることが出来ません。是れ丈けはと思うて残して置たその十三冊は今でも私の家にあります。夫れと今に残って居るのは唐焼の丼が二つある。是れは例の雑物売払のとき道具屋が直を付けて丼二つ三分と云うその三分とは中津の藩札で銭にすれば十八文のことだ。余り馬鹿々々しい、十八文ばかり有ても無くても同じことだと思うて売らなかったのが、その後四十何年無事で、今は筆洗になって居るのも可笑しい。
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福翁自伝・大阪修業・母と直談ソコデ私は独り考えた。「是れは迚も仕様がない。唯頼む所は母一人だ。母さえ承知して呉れば誰が何と云うても怖い者はないと。ソレカラ私は母にとっくり話した。「おッ母さん。今私が修業して居るのは斯う云う有様、斯う云う塩梅で、長崎から大阪に行て修業して居ります。自分で考えるには、如何しても修業は出来て何か物になるだろうと思う。この藩に居た所が何としても頭の上る気遣はない。真に朽果つると云うものだ。どんな事があっても私は中津で朽果てようとは思いません。アナタはお淋しいだろうけれども、何卒私を手放して下さらぬか。私の産れたときにお父ッさんは坊主にすると仰しゃったそうですから、私は今から寺の小僧になったと諦めて下さい」。その時私が出れば、母と死んだ兄の娘、産れて三つになる女の子と五十有余の老母と唯の二人で、淋しい心細いに違いないけれども、とっくり話して、「どうぞ二人で留主をして下さい、私は大阪に行くから」と云たら、母も中々思切りの宜い性質で、「ウム宜しい。「アナタさえ左様云て下されば、誰が何と云ても怖いことはない。「オーそうとも。兄が死んだけれども、死んだものは仕方がない。お前も亦余所に出て死ぬかも知れぬが、死生の事は一切言うことなし。何処へでも出て行きなさい」。ソコデ母子の間と云うものはちゃんと魂胆が出来て仕舞て、ソレカラ愈よ出ようと云うことになる。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・頼母子の金弐朱を返す是れから私が一身一家の経済の事を陳べましょう。凡そ世の中に何が怖いと云ても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。他人に対して金銭の不義理は相済まぬ事と決定すれば、借金はます/\怖くなります。私共の兄弟姉妹は幼少の時から貧乏の味を嘗め尽して、母の苦労した様子を見ても生涯忘れられません。貧小士族の衣食住その艱難の中に、母の精神を以て自から私共を感化した事の数々あるその一例を申せば、私が十三、四歳のとき母に云付けられて金子返済の使をしたことがあります。その次第柄は斯う云うことです。天保七年、大阪に於て私共が亡父の不幸で母に従て故郷の中津に帰りましたとき、家の普請をするとか何とか云うに、勝手向は勿論不如意ですから、人の世話で頼母子講を拵えて一口金二朱ずつで何両とやら纏まった金が出来て一時の用を弁じて、その後、毎年幾度か講中が二朱ずつの金を持寄り、鬮引にて満座に至りて皆済になる仕組であるが、大家の人は二朱計りの金の為めに何年もこんな事に関係して居るのは面倒だと云う所から、一時二朱の掛金を出したまゝに手を引く者がある。之を掛棄と云います。その実は講主が人に金を唯貰うような事なれども、一般の風俗で左まで世間に怪しむ者もない。所が福澤の頼母子に大阪屋五郎兵衛と云う廻船屋が一口二朱を掛棄にしたそうです。勿論私の三、四歳頃か幼少の時の事で何も知りませんでしたが、十三、四歳のとき或日母が私に申すに、「お前は何も知らぬ事だが、十年前に斯う/\云う事があって大阪屋が掛棄にして、福澤の家は大阪屋に金二朱を貰うたようなものだ。誠に気に済まぬ。武家が町人から金を恵まれて夫れを唯貰うて黙て居ることは出来ません。疾うから返したい/\と思ては居たがドウも爾う行かずに、ヤッと今年は少し融通が付いたから、この二朱のお金を大阪屋に持て行て厚う礼を述べて返して来いと申して、その金を紙に包んで私に渡しました。ソレから私は大阪屋に参て金の包みを出すと、先方では意外に思うたか、「御返済など却て痛入ります。最早や古い事です。決してそんな御心配には及びませんと云て頻りに辞退すれども、私は母の云うことを聞て居るから、是非渡さねばならぬと、互に押し返して口喧嘩のように争うて、金を置て帰たことがあります。今はハヤ五十二、三年も過ぎてむかし/\の事であるが、そのとき母に云付けられた口上も、先方の大阪屋の事も、チャンと記憶に存して忘れません。年月日は覚えないが何でも朝のことゝ思う、豊前中津下小路の西南の角屋敷、大阪屋五郎兵衛の家に行て主人五郎兵衛は留守で、弟の源七に金を渡したと云うことまで覚えて居ます。こんなことが少年の時から私の脳中に遺て居るから、金銭の事に就ては何としても大胆な横着な挙動は出来られません。
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