福翁自伝 / 暗殺の心配・箱根の心配・中村栗園先生の門を素通り
ソレから船は大阪に着て上陸、東海道をして箱根に掛り、峠の宿の破不屋と云う宿屋に泊ると、奥の座敷に戸田何某と云う人が江戸の方から来て先きに泊て居る。この人は当時、山陵奉行とか云う京都の御用を勤めて居て、供の者も大勢附て居る様子、問わずと知れた攘夷の一類と推察して気味が悪い、終夜ろくに寝もせず、夜の明ける前に早々宿屋を駈出してコソ/\逃げたことがある。 その時の道中であったか、江州水口、中村栗園先生の門前を素通りしましたが、是れは甚だ気に済まぬ。栗園の事は前にも申す通り私の家と浅からぬ縁のある人で、前年、私が始めて江戸に出るとき水口を通行して其処へ尋ねた所が、先生は非常に喜んで、過ぎし昔の事共を私に話して聞かせ、「お前の御親父の大阪で御不幸の時は、私は直ぐ大阪に行て、ソレからお前達が船に乗て中津に帰るその時には、私がお前を抱いて安治川口の船まで行て別れた。そのときお前は年弱の三つで、何も知らなかろうなどゝ云う話で、私も実にほんとうの親に逢たような心持がして、今晩は是非泊れと云て、中村の家に一泊しました。斯くまでの間柄であるから、今度も是非とも訪問しなければならぬ。所がその前に人の噂を聞けば、水口の中村先生は近来専ら孫子の講釈をして、玄関には具足などが飾てあると云う、問うに及ばず立派な攘夷家である、人情としては是非とも立寄て訪問せねばならぬが、ドウも寄ることが出来ぬ。栗園先生は頼んでも私を害する人ではないが、血気の門弟子が沢山居るから、立寄れば迚も助からぬと思て、不本意ながらその門前を素通りしました。その後先生には面会の機会がなくて、遂に故人になられました。今日に至るまでも甚だ心残りで不愉快に思います、
書き下し
ソレから船は大阪に着て上陸、東海道をして箱根に掛り、峠の宿の破不屋と云う宿屋に泊ると、奥の座敷に戸田何某と云う人が江戸の方から来て先きに泊て居る。この人は当時、山陵奉行とか云う京都の御用を勤めて居て、供の者も大勢附て居る様子、問わずと知れた攘夷の一類と推察して気味が悪い、終夜ろくに寝もせず、夜の明ける前に早々宿屋を駈出してコソ/\逃げたことがある。 その時の道中であったか、江州水口、中村栗園先生の門前を素通りしましたが、是れは甚だ気に済まぬ。栗園の事は前にも申す通り私の家と浅からぬ縁のある人で、前年、私が始めて江戸に出るとき水口を通行して其処へ尋ねた所が、先生は非常に喜んで、過ぎし昔の事共を私に話して聞かせ、「お前の御親父の大阪で御不幸の時は、私は直ぐ大阪に行て、ソレからお前達が船に乗て中津に帰るその時には、私がお前を抱いて安治川口の船まで行て別れた。そのときお前は年弱の三つで、何も知らなかろうなどゝ云う話で、私も実にほんとうの親に逢たような心持がして、今晩は是非泊れと云て、中村の家に一泊しました。斯くまでの間柄であるから、今度も是非とも訪問しなければならぬ。所がその前に人の噂を聞けば、水口の中村先生は近来専ら孫子の講釈をして、玄関には具足などが飾てあると云う、問うに及ばず立派な攘夷家である、人情としては是非とも立寄て訪問せねばならぬが、ドウも寄ることが出来ぬ。栗園先生は頼んでも私を害する人ではないが、血気の門弟子が沢山居るから、立寄れば迚も助からぬと思て、不本意ながらその門前を素通りしました。その後先生には面会の機会がなくて、遂に故人になられました。今日に至るまでも甚だ心残りで不愉快に思います、
現代語訳
それから船は大阪に着いて上陸し、東海道を通って箱根にかかり、峠の宿の破不屋という宿屋に泊まると、奥の座敷に戸田何某という人が江戸の方から来て先に泊まっています。この人は当時、山陵奉行とか何とかいう京都の御用を勤めていて、お供の者も大勢ついている様子で、聞かなくても攘夷の一類と推察できて気味が悪く、一晩中ろくに寝もせず、夜の明ける前に早々宿屋を駆け出して、こそこそと逃げたことがあります。 その時の道中だったか、近江の水口で中村栗園先生の門前を素通りしましたが、これは甚だ気が済みません。栗園のことは前にも申した通り、私の家とは浅くない縁のある人で、前の年、私が初めて江戸に出るとき水口を通って、そこを訪ねたところ、先生は非常に喜んで、過ぎた昔のことなどを私に話して聞かせ、「お前の御父上が大阪で亡くなられたとき、私はすぐに大阪に行って、それからお前たちが船に乗って中津に帰るとき、私がお前を抱いて安治川口の船まで行って別れた。そのときお前は年弱の三つで、何も知らなかろう」などという話で、私も実に本当の親に会ったような心持ちがして、今晩はぜひ泊まれと言われて、中村の家に一泊しました。これほどまでの間柄ですから、今度もぜひとも訪問しなければなりません。ところがその前に人の噂を聞けば、水口の中村先生は近ごろもっぱら孫子の講釈をして、玄関には具足などが飾ってあると言います。聞くまでもなく立派な攘夷家です。人情としてはぜひとも立ち寄って訪問しなければならないが、どうも寄ることができません。栗園先生は頼んでも私を害する人ではないが、血気盛んな門弟が沢山いるので、立ち寄ればとても助からないと思って、不本意ながらその門前を素通りしました。その後、先生には会う機会がなく、ついに故人になられました。今日に至るまでも、まことに心残りで、不愉快に思います。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・王政維新・父母の遺伝是れは私独りの発明でない、私の父母共に爾う云う風があったと推察が出来ます。前にも云た通り、私の父は勿論漢学者で、身分は私と同じ事であるから、定めて上流士族から蔑視されて居たでしょう。所が私の父は決して他人を軽蔑しない。例えば江州水口の碩学中村栗園は父の実弟のように親しくして居ましたが、元来栗園の身分は豊前中津の染物屋の息子で、所謂素町人の子だから、藩中士族は誰も相手になるものがない、けれども私の父はその人物を愛して、身分の相違を問わず大層丁寧に取扱うて、大阪の倉屋敷の家に寄寓させて尚お種々に周旋して、とう/\水口の儒者になるように取持ち、その間柄と云うものは真に骨肉の兄弟にも劣らず、父の死後私の代になって、栗園先生は福澤の家を第二の実家のような塩梅にして、死ぬまで交際して居ました。シテ見ると是れは決して私の発明でない、父母から譲られた性質であると思う。ソレで私は中津に居て上流士族から蔑視されて居ながら、私の身分以下の藩士は勿論、町人百姓に向ても、仮初にも横風に構えてその人々を目下に見下して、威張るなどゝ云うことは一寸ともしたことがない。勿論上の者に向て威張りたくも威張ることが出来ない、出来ないから唯モウ触らぬように相手にならぬようと、独り自から安心決定して居る。
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福翁自伝・暗殺の心配・長州室津の心配是れも私が姓名を隠して豊前中津から江戸に帰て来た時の事です。元治元年、私が中津に行て、小幡篤次郎兄弟を始め同藩子弟七、八名に洋学修業を勧めて共に出府するときに、中津から先ず船に乗て出帆すると、二、三日天気が悪くて、風次第で何処の港に入るか知れない、スルと南無三宝、攘夷最中の長州室津と云う港に船が着た。そのとき私は同行少年の名を借りて三輪光五郎(今日は府下目黒のビール会社に居る)と名乗て居たが、一寸上陸して髪結床に行た所が、床の親仁が喋々述べて居る、「幕府を打潰す――毛唐人を追巻くると云い、女子供の唄の文句は忘れたが、「やがて長門は江戸になるとか何とか云うことを面白そうに唄うて居る、そのあたりを見れば兵隊が色々な服装をして鉄砲を担いで威張て居るから、若しも福澤と云う正体が現われては、たった一発と、安い気はしないが、爰が大事と思い態と平気な顔をして、唯順風を祈て船の出られるのを待て居るその間の怖さと云うものは、何の事はない、躄者が病犬に囲まれたようなものでした。
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福翁自伝・暗殺の心配・一夜の危険(1)ソレから家の始末も大抵出来て、いよ/\中津の廻米船に乗て神戸まで行き、神戸から東京までの間は外国の郵船に乗る積りで、サア乗船と云う所が、中津の海は浅くて都合が悪い。中津の西一里ばかりの処に鵜ノ島と云う港があって、其処に船が掛って居ると云うから、私はそのとき大病後ではあるし、老人、子供の連れであるから、前日から鵜ノ島に行て一泊して翌朝ゆるりと乗船する趣向にして、その晩鵜ノ島の船宿のような家に泊りましたが、知らぬが仏とは申しながら、後に聞けばこの夜が私の万死一生、恐ろしい時であったと云うは、その船宿の若い主人が例の有志者の仲間であるとは恐ろしい、私の一行は老母と姪とその外に近親今泉の後室と小児(小児は秀太郎六歳)役に立ちそうな男は私一人、是れも病後のヒョロ/\と云うその人数を留めて置いて、宿の奴が中津の同志者に使を走らして、「今夜は上都合云々と内通したから堪らない。ソコデ以て中津の有志者即ち暗殺者は、金谷と云う処に集会を催して、今夜いよ/\鵜ノ島に押掛けて福澤を殺すことに議決した、その理由は、福澤が近来奥平の若殿様を誘引して亜米利加に遣ろうなんと云う大反れた計画をして居るのは怪しからぬ、不臣な奴だと云う罪状であるから、満座同音、国賊の誅罰に異論はない。
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福翁自伝・長崎遊学・贋手紙を作るその間の道中と云うものは随分困りました。一人旅、殊に何処の者とも知れぬ貧乏そうな若侍、若し行倒になるか暴れでもすれば宿屋が迷惑するから容易に泊めない。もう宿の善悪は択ぶに暇なく、只泊めて呉れさえすれば宜しいと云うので無暗に歩行いて、何か斯か二晩泊って三日目に小倉に着きました。その道中で私は手紙を書いて即ち鉄屋惣兵衛の贋手紙を拵えて、「この御方は中津の御家中、中村何様の若旦那で、自分は始終そのお屋敷に出入して決して間違なき御方だから厚く頼むと鹿爪らしき手紙の文句で、下ノ関船場屋寿久右衛門へ宛て鉄屋惣兵衛の名前を書いてちゃんと封をして、明日下ノ関に渡てこの手紙を用に立てんと思い、小倉までたどり付て泊った時はおかしかった。彼方此方マゴマゴして、小倉中、宿を捜したが、何処でも泊めない。ヤット一軒泊めて呉れた所が薄汚ない宿屋で、相宿の同間に人が寝て居る。スルト夜半に枕辺で小便する音がする。何だと思うと中風病の老爺が、しびんに遣てる。実は客ではない、その家の病人でしょう。その病人と並べて寝かされたので、汚くて堪らなかったのは能く覚えて居ます。 それから下ノ関の渡場を渡て、船場屋を捜し出して、兼て用意の贋手紙を持て行た所が、成程鉄屋とは懇意な家と見える、手紙を一見して早速泊めて呉れて、万事能く世話をして呉れて、大阪まで船賃が一分二朱、賄の代は一日若干、ソコデ船賃を払うた外に二百文か三百文しか残らぬ。併し大阪に行けば中津の倉屋敷で賄の代を払う事にして、是れも船宿で心能く承知して呉れる。悪い事だが全く贋手紙の功徳でしょう。
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福翁自伝・暗殺の心配・廻国巡礼を羨む又真実怖い事もある。凡そ維新前、文久二、三年から維新後、明治六、七年の頃まで、十二、三年の間が最も物騒な世の中で、この間私は東京に居て夜分は決して外出せず、余儀なく旅行するときは姓名を偽り、荷物にも福澤と記さず、コソ/\して往来するその有様は、欠落者が人目を忍び、泥坊が逃げて廻わるような風で、誠に面白くない。そのとき途中で廻国巡礼に出逢い、その笠を見れば何の国何都何村の何某と明白に書てある。「扨々羨ましい事だ、乃公もアヽ云う身分になって見たいと、自分の身を思い又世の有様を考えて、妙な心持になって、ソレからその巡礼に銭など与えて、貴様達は夫婦か、故郷に子はないか、親はあるか、など色々話し、問答して別れたことは今に覚えて居ます。
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福翁自伝・大阪を去て江戸に行く・三人同行大阪から江戸に来るに就ては、何は扨置き中津に帰て一度母に逢うて別を告げて来ましょうと云うので、中津に帰たその時は虎列拉の真盛りで、私の家の近処まで病人だらけ、バタ/″\死にました。その流行病最中、船に乗て大阪に着て暫時逗留、ソレカラ江戸に向て出立と云うことにした所が、凡そ藩の公用で勤番するに、私などの身分なれば道中並に在勤中家来を一人呉れるのが定例で、今度も私の江戸勤番に付て家来一人振の金を渡して呉れた。けれども家来なんぞと云うことは思いも寄らぬ事で何も要らぬ。けれども茲に旅費がある。待て/\、塾中に誰か江戸に行きたいと云う者はないか、江戸に行きたければ連れて行くが如何だ、実は斯う云う訳けで金はあるぞと云うと、即席にどうぞ連れて行て呉れと云たが岡本周吉、即ち古川節蔵である(広島の人)。よし連れて行て遣ろう。連れて行くが、君は飯を炊かなければならぬが宜しいか。江戸へ行けば米もあれば長屋もある。鍋釜も貸して呉れるが、本当の家来を止めにすれば飯炊がない。その代に連れて行くのだが如何だ。「飯を炊く位の事は何でもない、飯を炊こう。「それじゃ一緒に来いと云て、夫れから私の荷物は同藩の人に頼んで、道連は私と岡本、もう一人備中の者で原田磊蔵と云う矢張り緒方の塾生、都合三人の道中で、勿論歩く。その時は丁度十月下旬で少々寒かったが小春の時節、一日も川止など云う災難に遇わず滞おりなく江戸に着て、先ず木挽町汐留の奥平屋敷に行た所が、鉄砲洲に中屋敷がある、其処の長屋を貸すと云うので、早速岡本と私とその長屋に住込で、両人自炊の世帯持になった、夫れから同行の原田は下谷練塀小路の大医大槻俊斎先生の処へ入込だ。江戸へ参れば知己朋友は幾人も居て、段々面白くなって来た。
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