福翁自伝 / 幼少の時・成長の上、坊主にする
前申す通り、亡父は俗吏を勤めるのが不本意であったに違いない。左れば中津を蹴飛して外に出れば宜い。所が決してソンナ気はなかった様子だ。如何なる事にも不平を呑んで、チャント小禄に安んじて居たのは、時勢の為めに進退不自由なりし故でしょう。私は今でも独り気の毒で残念に思います。例えば父の生前に斯う云う事がある。今から推察すれば父の胸算に、福澤の家は総領に相続させる積りで宜しい、所が子供の五人目に私が生れた、その生れた時は大きな療せた骨太な子で、産婆の申すに、この子は乳さえ沢山呑ませれば必ず見事に育つと云うのを聞て、父が大層喜んで、是れは好い子だ、この子が段々成長して十か十一になれば寺に遣て坊主にすると、毎度母に語ったそうです。その事を母が又私に話して、アノ時阿父さんは何故坊主にすると仰っしゃったか合点が行かぬが、今御存命なればお前は寺の坊様になってる筈じゃと、何かの話の端には母が爾う申して居ましたが、私が成年の後その父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立て居て、何百年経ても一寸とも動かぬと云う有様、家老の家に生れた者は家老になり、足軽の家に生れた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まって居る者も同様、何年経ても一寸とも変化と云うものがない。ソコデ私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲に坊主と云うものが一つある、何でもない魚屋の息子が大僧正になったと云うような者が幾人もある話、それゆえに父が私を坊主にすると云たのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。
新字:前申す通り、亡父は俗吏を勤めるのが不本意であったに違いない。左れば中津を蹴飛して外に出れば宜い。所が決してソンナ気はなかった様子だ。如何なる事にも不平を呑んで、チャント小禄に安んじて居たのは、時勢の為めに進退不自由なりし故でしょう。私は今でも独り気の毒で残念に思います。例えば父の生前に斯う云う事がある。今から推察すれば父の胸算に、福沢の家は総領に相続させる積りで宜しい、所が子供の五人目に私が生れた、その生れた時は大きな療せた骨太な子で、産婆の申すに、この子は乳さえ沢山呑ませれば必ず見事に育つと云うのを聞て、父が大層喜んで、是れは好い子だ、この子が段々成長して十か十一になれば寺に遣て坊主にすると、毎度母に語ったそうです。その事を母が又私に話して、アノ時阿父さんは何故坊主にすると仰っしゃったか合点が行かぬが、今御存命なればお前は寺の坊様になってる筈じゃと、何かの話の端には母が爾う申して居ましたが、私が成年の後その父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立て居て、何百年経ても一寸とも動かぬと云う有様、家老の家に生れた者は家老になり、足軽の家に生れた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まって居る者も同様、何年経ても一寸とも変化と云うものがない。ソコデ私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲に坊主と云うものが一つある、何でもない魚屋の息子が大僧正になったと云うような者が幾人もある話、それゆえに父が私を坊主にすると云たのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。
書き下し
前申す通り、亡父は俗吏を勤めるのが不本意であったに違いない。左れば中津を蹴飛して外に出れば宜い。所が決してソンナ気はなかった様子だ。如何なる事にも不平を呑んで、チャント小禄に安んじて居たのは、時勢の為めに進退不自由なりし故でしょう。私は今でも独り気の毒で残念に思います。例えば父の生前に斯う云う事がある。今から推察すれば父の胸算に、福澤の家は総領に相続させる積りで宜しい、所が子供の五人目に私が生れた、その生れた時は大きな療せた骨太な子で、産婆の申すに、この子は乳さえ沢山呑ませれば必ず見事に育つと云うのを聞て、父が大層喜んで、是れは好い子だ、この子が段々成長して十か十一になれば寺に遣て坊主にすると、毎度母に語ったそうです。その事を母が又私に話して、アノ時阿父さんは何故坊主にすると仰っしゃったか合点が行かぬが、今御存命なればお前は寺の坊様になってる筈じゃと、何かの話の端には母が爾う申して居ましたが、私が成年の後その父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立て居て、何百年経ても一寸とも動かぬと云う有様、家老の家に生れた者は家老になり、足軽の家に生れた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まって居る者も同様、何年経ても一寸とも変化と云うものがない。ソコデ私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲に坊主と云うものが一つある、何でもない魚屋の息子が大僧正になったと云うような者が幾人もある話、それゆえに父が私を坊主にすると云たのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。
現代語訳
前に申したとおり、亡くなった父は俗吏を務めるのが不本意であったに違いありません。それなら中津を蹴飛ばして外に出ればよいのですが、ところが決してそんな気はなかった様子です。どんなことにも不満をのみ込んで、きちんと小禄に安んじていたのは、時勢のために進退が自由にならなかったからでしょう。私は今でもひとり気の毒に思い、残念に思います。たとえば父の生前にこういうことがありました。今から推察すれば、父の胸算用では、福澤の家は総領に相続させるつもりでよい。ところが子供の五人目に私が生まれた。その生まれたときは大きな痩せた骨太の子で、産婆が申すには、この子は乳さえたくさん飲ませれば必ず見事に育つというのを聞いて、父がたいへん喜んで、これはよい子だ、この子がだんだん成長して十か十一になれば寺にやって坊主にすると、たびたび母に語ったそうです。そのことを母がまた私に話して、あのとき、お父さんはなぜ坊主にするとおっしゃったのか合点がいかないが、今ご存命ならお前は寺の坊様になっているはずだと、何かの話のついでには母がそう申しておりました。私が成人してからその父の言葉を推察すると、中津は封建制度で、ちゃんと物を箱の中に詰めたように秩序が立っていて、何百年たってもちっとも動かないという有様です。家老の家に生まれた者は家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まっている者も同様で、何年たってもちっとも変化というものがない。そこで私の父の身になって考えてみれば、到底どんなことをしたって名を成すことはできない。世間を見れば、ここに坊主というものが一つある。何でもない魚屋の息子が大僧正になったというような者が幾人もいる話で、それゆえ父が私を坊主にするといったのは、その意味であろうと推察したのは、間違いなかろうと思います。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・幼少の時福澤諭吉の父は豊前中津奥平藩の士族福澤百助、母は同藩士族、橋本浜右衛門の長女、名を於順と申し、父の身分はヤット藩主に定式の謁見が出来ると云うのですから足軽よりは数等宜しいけれども士族中の下級、今日で云えば先ず判任官の家でしょう。藩で云う元締役を勤めて大阪にある中津藩の倉屋敷に長く勤番して居ました。夫れゆえ家内残らず大阪に引越して居て、私共は皆大阪で生れたのです。兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三人、私は末子。私の生れたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡に遺るは母一人に子供五人、兄は十一歳、私は数え年で三つ。斯くなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。
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福翁自伝・幼少の時・門閥制度は親の敵・年十四、五歳にして始めて読書に志す如斯なことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児の行末を謀り、之を坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私の為めに門閥制度は親の敵で御座る。 私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。所が誰も世話の為人がない。私の兄だからと云て兄弟の長少僅か十一しか違わぬので、その間は皆女の子、母も亦たった一人で、下女下男を置くと云うことの出来る家ではなし、母が一人で飯を焚いたりお菜を拵えたりして五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じ掛もない。云わばヤリ放しである。藩の風で幼少の時から論語を続むとか大学を読む位の事は遣らぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。殊に誰だって本を読むことの好な子供はない。私一人本が嫌いと云うこともなかろう、天下の小供みな嫌いだろう。私は甚だ嫌いであったから休でばかり居て何もしない。手習もしなければ本も読まない。根っから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、近処に知て居る者は皆な本を読で居るのに、自分独り読まぬと云うのは外聞が悪いとか恥かしいとか思たのでしょう。夫れから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行始めました。どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。外の者は詩経を読むの書経を読むのと云うのに、私は孟子の素読をすると云う次第である。所が茲に奇な事は、その塾で蒙求とか孟子とか論語とかの会読講義をすると云うことになると、私は天禀、少し文才があったのか知らん、能く其の意味を解して、朝の素読に教えて呉れた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読む許りでその意味は受取の悪い書生だから、之を相手に会読の勝敗なら訳けはない。
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福翁自伝・大阪修業・母と直談ソコデ私は独り考えた。「是れは迚も仕様がない。唯頼む所は母一人だ。母さえ承知して呉れば誰が何と云うても怖い者はないと。ソレカラ私は母にとっくり話した。「おッ母さん。今私が修業して居るのは斯う云う有様、斯う云う塩梅で、長崎から大阪に行て修業して居ります。自分で考えるには、如何しても修業は出来て何か物になるだろうと思う。この藩に居た所が何としても頭の上る気遣はない。真に朽果つると云うものだ。どんな事があっても私は中津で朽果てようとは思いません。アナタはお淋しいだろうけれども、何卒私を手放して下さらぬか。私の産れたときにお父ッさんは坊主にすると仰しゃったそうですから、私は今から寺の小僧になったと諦めて下さい」。その時私が出れば、母と死んだ兄の娘、産れて三つになる女の子と五十有余の老母と唯の二人で、淋しい心細いに違いないけれども、とっくり話して、「どうぞ二人で留主をして下さい、私は大阪に行くから」と云たら、母も中々思切りの宜い性質で、「ウム宜しい。「アナタさえ左様云て下されば、誰が何と云ても怖いことはない。「オーそうとも。兄が死んだけれども、死んだものは仕方がない。お前も亦余所に出て死ぬかも知れぬが、死生の事は一切言うことなし。何処へでも出て行きなさい」。ソコデ母子の間と云うものはちゃんと魂胆が出来て仕舞て、ソレカラ愈よ出ようと云うことになる。
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福翁自伝・王政維新・父母の遺伝是れは私独りの発明でない、私の父母共に爾う云う風があったと推察が出来ます。前にも云た通り、私の父は勿論漢学者で、身分は私と同じ事であるから、定めて上流士族から蔑視されて居たでしょう。所が私の父は決して他人を軽蔑しない。例えば江州水口の碩学中村栗園は父の実弟のように親しくして居ましたが、元来栗園の身分は豊前中津の染物屋の息子で、所謂素町人の子だから、藩中士族は誰も相手になるものがない、けれども私の父はその人物を愛して、身分の相違を問わず大層丁寧に取扱うて、大阪の倉屋敷の家に寄寓させて尚お種々に周旋して、とう/\水口の儒者になるように取持ち、その間柄と云うものは真に骨肉の兄弟にも劣らず、父の死後私の代になって、栗園先生は福澤の家を第二の実家のような塩梅にして、死ぬまで交際して居ました。シテ見ると是れは決して私の発明でない、父母から譲られた性質であると思う。ソレで私は中津に居て上流士族から蔑視されて居ながら、私の身分以下の藩士は勿論、町人百姓に向ても、仮初にも横風に構えてその人々を目下に見下して、威張るなどゝ云うことは一寸ともしたことがない。勿論上の者に向て威張りたくも威張ることが出来ない、出来ないから唯モウ触らぬように相手にならぬようと、独り自から安心決定して居る。
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福翁自伝・王政維新・維新の際に一身の進退素と私は小士族の家に生れ、その頃は封建時代の事で日本国中何れも同様、藩の制度は守旧一偏の有様で、藩士銘々の分限がチャント定まって、上士は上士、下士は下士と、箱に入れたようにして、その間に少しも融通があられない。ソコで上士族の家に生れた物は親も上士族であれば子も上士族、百年経てもその分限は変らない。従て小士族の家に生れた者は、自から上流士族の者から常に軽蔑を受ける。人々の智愚賢不肖に拘わらず、上士は下士を目下に見下すと云う風が専ら行われて、私は少年の時からソレに就て如何にも不平で堪らない。
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福翁自伝・幼少の時・儒教主義の教育夫れから最う一つ之に加えると、私の父は学者であった。普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛もなく算盤を執て金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯う云うことがある。私は勿論幼少だから手習どころの話でないが、最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷の中に手習の師匠があって、其家には町家の小供も来る。其処でイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、その事を父が聞て、怪しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯う云う処に小供は遣て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました。何でも大変喧ましい人物であったことは推察が出来る。その書遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心、屋漏に愧じずということ許り心掛たものと思われるから、その遺風は自から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合は少く、明ても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思て、骨肉の従兄弟に対してさえ、心の中には何となく之を目下に見下して居て、夫等の者のすることは一切咎もせぬ、多勢に無勢、咎立をしようと云ても及ぶ話でないと諦らめて居ながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、云わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛び廻わり刎ね廻わりして、至極活溌にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬと云うのも、兎角同藩中の子弟と打解けて遊ぶことが出来ずに孤立した所為でしょう。
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