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福翁自伝 / 攘夷論・外交機密を写取る

文久三年癸亥の歳は一番喧しい歳で、日本では攘夷をすると云い、又英の軍艦は生麦一件に就て大造な償金を申出して幕府に迫ると云う、外交の難局と云うたらば、恐ろしい怖い事であった。その時に私は幕府の外務省の飜訳局に居たから、その外国との往復書翰は皆見て悉く知て居る。即ち英仏その他の国々から斯う云う書翰が来た、ソレに対して幕府から斯う返辞を遣た。又此方から斯う云う事を諸外国の公使に掛合付けると、彼方から斯う返答して来たと云う次第、即ち外交秘密が明に分て居なければならぬ筈。勿論その外交秘密の書翰を宅に持て帰ることは出来ない、けれども役所に出て飜訳するか或は又外国奉行の宅に行て飜訳するときに、私はちゃんとソレを諳記して置て、宅に帰てからその大意を書て置く。例えば生麦の一件に就て英の公使から来たその書翰の大意は斯様々々、ソレに向て此方から斯う返辞を遣わしたと云うその大意、一切外交上往復した書翰の大意を、宅に帰ては薄葉の罫紙に書記して置た。ソレは勿論ザラに人に見せられるものでない。唯親友間の話の種にする位の事にして置たが、随分面白いものである。所が私はその書付を一日不意と焼て仕舞た。

新字:文久三年癸亥の歳は一番喧しい歳で、日本では攘夷をすると云い、又英の軍艦は生麦一件に就て大造な償金を申出して幕府に迫ると云う、外交の難局と云うたらば、恐ろしい怖い事であった。その時に私は幕府の外務省の翻訳局に居たから、その外国との往復書翰は皆見て悉く知て居る。即ち英仏その他の国々から斯う云う書翰が来た、ソレに対して幕府から斯う返辞を遣た。又此方から斯う云う事を諸外国の公使に掛合付けると、彼方から斯う返答して来たと云う次第、即ち外交秘密が明に分て居なければならぬ筈。勿論その外交秘密の書翰を宅に持て帰ることは出来ない、けれども役所に出て翻訳するか或は又外国奉行の宅に行て翻訳するときに、私はちゃんとソレを諳記して置て、宅に帰てからその大意を書て置く。例えば生麦の一件に就て英の公使から来たその書翰の大意は斯様々々、ソレに向て此方から斯う返辞を遣わしたと云うその大意、一切外交上往復した書翰の大意を、宅に帰ては薄葉の罫紙に書記して置た。ソレは勿論ザラに人に見せられるものでない。唯親友間の話の種にする位の事にして置たが、随分面白いものである。所が私はその書付を一日不意と焼て仕舞た。

書き下し

文久三年癸亥の歳は一番喧しい歳で、日本では攘夷をすると云い、又英の軍艦は生麦一件に就て大造な償金を申出して幕府に迫ると云う、外交の難局と云うたらば、恐ろしい怖い事であった。その時に私は幕府の外務省の飜訳局に居たから、その外国との往復書翰は皆見て悉く知て居る。即ち英仏その他の国々から斯う云う書翰が来た、ソレに対して幕府から斯う返辞を遣た。又此方から斯う云う事を諸外国の公使に掛合付けると、彼方から斯う返答して来たと云う次第、即ち外交秘密が明に分て居なければならぬ筈。勿論その外交秘密の書翰を宅に持て帰ることは出来ない、けれども役所に出て飜訳するか或は又外国奉行の宅に行て飜訳するときに、私はちゃんとソレを諳記して置て、宅に帰てからその大意を書て置く。例えば生麦の一件に就て英の公使から来たその書翰の大意は斯様々々、ソレに向て此方から斯う返辞を遣わしたと云うその大意、一切外交上往復した書翰の大意を、宅に帰ては薄葉の罫紙に書記して置た。ソレは勿論ザラに人に見せられるものでない。唯親友間の話の種にする位の事にして置たが、随分面白いものである。所が私はその書付を一日不意と焼て仕舞た。

現代語訳

文久三年癸亥の年は一番やかましい年で、日本では攘夷をするといい、またイギリスの軍艦は生麦の一件について大層な償金を申し出て幕府に迫るという、外交の難局といったら、恐ろしい怖いことでした。そのとき私は幕府の外務省の翻訳局にいたので、その外国との往復書簡はみな見てすべて知っています。つまり、英仏その他の国々からこういう書簡が来た、それに対して幕府からこう返事をやった、またこちらからこういうことを諸外国の公使に掛け合うと、向こうからこう返答してきたというわけで、つまり外交の秘密がはっきりわかっていなければならないはずです。もちろんその外交秘密の書簡を家に持って帰ることはできません。けれども役所に出て翻訳するか、あるいはまた外国奉行の家に行って翻訳するときに、私はちゃんとそれを暗記しておいて、家に帰ってからその大意を書いておきます。たとえば生麦の件についてイギリスの公使から来たその書簡の大意はこれこれ、それに対してこちらからこう返事をやったというその大意、一切外交上往復した書簡の大意を、家に帰っては薄葉の罫紙に書き記しておきました。それはもちろんむやみに人に見せられるものではありません。ただ親友の間の話の種にするくらいにしておきましたが、ずいぶん面白いものです。ところが私は、その書付を、ある日不意に焼いてしまいました。

解説

翻訳官として外交文書を読み、その大意を暗記して自宅で書き留めていた福沢の記録習慣の話です。文書を持ち出さず、頭に入れて書き写すという方法は、機密保持と記録の両立を図った工夫でもあり、同時に危うい行為でもありました。記録を残す価値と、漏れたときのリスクは常に天秤にかかります。現代でも、機密情報を扱う職種では、個人メモが情報漏洩につながる可能性があります。最後の一文は次の段の伏線で、書付を焼いた理由が気になる構成です。

この章句が説くこと

外交機密翻訳局暗記記録書付文久三年

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