福翁自伝 / 攘夷論・脇屋卯三郎の切腹(1)
焼て仕舞たと云うことに就て話がある。その時に何とも云われぬ恐ろしい事が起た、と云うのは神奈川奉行組頭、今で云えば次官と云うような役で、脇屋卯三郎と云う人があった。その人は次官であるから随分身分のある人で、その人の親類が長州に在て、之に手紙を遣た所が、その手紙を不意と探偵に取られた。その手紙は普通の親類に遣る手紙であるから何でもない事で、その文句の中に、誠に穏かならぬ御時節柄で心配の事だ、どうか明君賢相が出て来て何とか始末をしなければならぬ云々と書てあった。ソコで幕府の役人がこの手紙を見て、何々、天下が騒々敷い、ドウカ明君が出て始末を付けて貰うようにしたいと云えば、是れは公方様を蔑ろにしたものだ、即ち公方様を無きものにして明君を欲すると云う所謂謀反人だと云う説になって、直ぐに脇屋を幕府の城中で捕縛して仕舞た。丁度私が城中の外務省に出て居た日で、大変だ、今脇屋が捕縛されたと云う中に、縛られては居ないが同心を見たような者が付て脇屋が廊下を通て行た。何れも皆驚いて、神奈川の組頭が捕まえられたと云うは何事だと云て、その翌日になって聞た所が、今の手紙の一件で斯う/\云う嫌疑だそうだと云う。夫れから脇屋を捕まえると同時に家捜しをして、そうしてその儘当人は伝馬町に入牢を申付けられ、何かタワイもない吟味の末、牢中で切腹を申付られた。その時に検視に行た高松彦三郎と云う人は御小人目付で私の知人だ。伝馬町へ検視には行たが誠に気の毒であったと、後で彦三郎が私に話しました。
書き下し
焼て仕舞たと云うことに就て話がある。その時に何とも云われぬ恐ろしい事が起た、と云うのは神奈川奉行組頭、今で云えば次官と云うような役で、脇屋卯三郎と云う人があった。その人は次官であるから随分身分のある人で、その人の親類が長州に在て、之に手紙を遣た所が、その手紙を不意と探偵に取られた。その手紙は普通の親類に遣る手紙であるから何でもない事で、その文句の中に、誠に穏かならぬ御時節柄で心配の事だ、どうか明君賢相が出て来て何とか始末をしなければならぬ云々と書てあった。ソコで幕府の役人がこの手紙を見て、何々、天下が騒々敷い、ドウカ明君が出て始末を付けて貰うようにしたいと云えば、是れは公方様を蔑ろにしたものだ、即ち公方様を無きものにして明君を欲すると云う所謂謀反人だと云う説になって、直ぐに脇屋を幕府の城中で捕縛して仕舞た。丁度私が城中の外務省に出て居た日で、大変だ、今脇屋が捕縛されたと云う中に、縛られては居ないが同心を見たような者が付て脇屋が廊下を通て行た。何れも皆驚いて、神奈川の組頭が捕まえられたと云うは何事だと云て、その翌日になって聞た所が、今の手紙の一件で斯う/\云う嫌疑だそうだと云う。夫れから脇屋を捕まえると同時に家捜しをして、そうしてその儘当人は伝馬町に入牢を申付けられ、何かタワイもない吟味の末、牢中で切腹を申付られた。その時に検視に行た高松彦三郎と云う人は御小人目付で私の知人だ。伝馬町へ検視には行たが誠に気の毒であったと、後で彦三郎が私に話しました。
現代語訳
焼いてしまったということについて話があります。そのとき何ともいえない恐ろしいことが起こりました。それは神奈川奉行組頭、今でいえば次官のような役で、脇屋卯三郎という人がありました。その人は次官であるからずいぶん身分のある人で、その人の親類が長州にいて、これに手紙をやったところ、その手紙を不意に探偵に取られました。その手紙は普通の親類にやる手紙なので何でもないことで、その文句の中に、まことに穏やかでない時節柄で心配なことだ、どうか明君賢相が出てきて何とか始末をつけなければならない云々と書いてありました。そこで幕府の役人がこの手紙を見て、何々、天下が騒がしい、どうか明君が出て始末をつけてもらいたいというのは、これは将軍様をないがしろにしたものだ、つまり将軍様をなきものにして明君を欲するという、いわゆる謀反人だという説になって、ただちに脇屋を幕府の城中で捕縛してしまいました。ちょうど私が城中の外務省に出ていた日で、大変だ、今脇屋が捕縛されたというなかに、縛られてはいないが同心のような者が付いて脇屋が廊下を通っていきました。誰もが皆驚いて、神奈川の組頭が捕まえられたというのは何事だと言って、その翌日になって聞いたところが、さきの手紙の一件でこれこれの嫌疑だということでした。それから脇屋を捕まえると同時に家捜しをして、そのまま本人は伝馬町に入牢を申し付けられ、いい加減な取り調べのすえ、牢の中で切腹を申し付けられました。そのとき検視に行った高松彦三郎という人は御小人目付で私の知人です。伝馬町へ検視には行ったが、まことに気の毒であったと、あとで彦三郎が私に話しました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』昭公元年 言を以て物を知る三月、甲辰、盟ふ。楚の公子圍服を設け衛を離ぬ。叔孫穆子曰く、「楚の公子美なり、君なるかな」と。鄭の子皮曰く、「二執戈の者前めり」と。蔡の子家曰く、「蒲宮に前有り、亦た可ならずや」と。楚の伯州犁曰く、「此の行や、辭して之を寡君に假れり」と。鄭の行人揮曰く、「假りて反さざらん」と。伯州犁曰く、「子姑く子皙の背誕せんと欲するを憂へよ」と。子羽曰く、「當璧猶ほ在り。假りて反さずとも、子其れ憂ひ無からんや」と。齊の國子曰く、「吾二子に代りて愍ふ」と。陳の公子招曰く、「憂へずんば何ぞ成らん。二子樂しめり」と。衛の齊子曰く、「苟くも或いは之を知らば、憂ふと雖も何ぞ害あらん」と。宋の合左師曰く、「大國令し、小國共す。吾共するを知るのみ」と。晉の樂王鮒曰く、「小旻の卒章善し。吾之に從はん」と。會より退く。子羽子皮に謂ひて曰く、「叔孫は絞にして婉、宋の左師は簡にして禮、樂王鮒は字しみて敬す。子と子家とは之を持す。皆保世の主なり。齊・衛・陳の大夫は、其れ免れざらんか。國子は人に代りて憂ひ、子招は憂ひを樂しみ、齊子は憂ふと雖も害せずとす。夫れ及ばずして憂ふると、憂ふべくして樂しむと、憂へて害せずとするとは、皆憂ひを取るの道なり。憂ひ必ず之に及ばん。大誓に曰く、『民の欲する所は、天必ず之に從ふ』と。三大夫憂ひを兆す、能く至ること無からんや。言以て物を知るとは、其れ是の謂なり」と。
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言志四録・言志晩録 第二百六十六条 老人は尤も言を慎むべし老人の話は多く信を取る。尤も宜しく言を慎むべし。
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『慎思録』巻之四言は心の声なり。外に発して聞くべし。心は身の主なり。中に在りて見るべからず。故に人に接する時、人は唯だ吾が言を聞きて、吾が心を見ず。然らば則ち外に発する者は、只だ言のみ。言豈に慎まざるべけんや。
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