福翁自伝 / 攘夷論・英艦来る
夫れから攘夷論と云うものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂公の上洛となり、続いて御親発として長州征伐に出掛けると云うような事になって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、英吉利の軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の侍が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人は只懇親を以て交ろうと思うて是れまでも有らん限り柔かな手段ばかりを執て居た、然るに日本の国民が乱暴をして剰え人を殺した、如何にしてもその責は日本政府に在て免るべからざる罪であるから、この後二十日を期して決答せよと云う次第は、政府から十万磅の償金を取り、尚お二万五千磅は薩摩の大名から取り、その上罪人を召捕て眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文が来た。その時に私共が飜訳する役目に当て居るので、夜中に呼びに来て、赤坂に住で居る外国奉行松平石見守の宅に行たのが、私と杉田玄端、高畑五郎、その三人で出掛けて行て、夜の明けるまで飜訳したが、是れはマアどうなる事だろうか、大変な事だと窃に心配した所が、その翌々二十一日には将軍が危急存亡の大事を眼前に見ながら其れを棄てゝ置て上洛して仕舞うた。爾うするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、所がもう二十日待て呉れろ、ソレは待つの待たないのと捫着の末、どうやら斯うやら待て貰うことになった。所でいよ/\償金を払うか払わないかと云う幕府の評議がなか/\決しない。その時の騒動と云うものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争がある抔と云う評判、その二十日の期間も既に過去て、又十日と云うことになって、始終十日と二十日の期限を以て次第々々に返辞を延して行く。私はその時に新銭座に住で居たから、迚もこりゃ戦争になりそうだ、なればどうも逃げるより外に仕様がないと、ソロ/\迯仕度をすると云うような事で、ソコで愈よ期日も差迫て、今度はもう掛値なし、一日も負からないと云う日になった、と云うのを私は政府の飜訳局に居て詳に知て居るから尚お堪らない。
新字:夫れから攘夷論と云うものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂公の上洛となり、続いて御親発として長州征伐に出掛けると云うような事になって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、英吉利の軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の侍が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人は只懇親を以て交ろうと思うて是れまでも有らん限り柔かな手段ばかりを執て居た、然るに日本の国民が乱暴をして剰え人を殺した、如何にしてもその責は日本政府に在て免るべからざる罪であるから、この後二十日を期して決答せよと云う次第は、政府から十万磅の償金を取り、尚お二万五千磅は薩摩の大名から取り、その上罪人を召捕て眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文が来た。その時に私共が翻訳する役目に当て居るので、夜中に呼びに来て、赤坂に住で居る外国奉行松平石見守の宅に行たのが、私と杉田玄端、高畑五郎、その三人で出掛けて行て、夜の明けるまで翻訳したが、是れはマアどうなる事だろうか、大変な事だと窃に心配した所が、その翌々二十一日には将軍が危急存亡の大事を眼前に見ながら其れを棄てゝ置て上洛して仕舞うた。爾うするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、所がもう二十日待て呉れろ、ソレは待つの待たないのと捫着の末、どうやら斯うやら待て貰うことになった。所でいよ/\償金を払うか払わないかと云う幕府の評議がなか/\決しない。その時の騒動と云うものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争がある抔と云う評判、その二十日の期間も既に過去て、又十日と云うことになって、始終十日と二十日の期限を以て次第々々に返辞を延して行く。私はその時に新銭座に住で居たから、迚もこりゃ戦争になりそうだ、なればどうも逃げるより外に仕様がないと、ソロ/\迯仕度をすると云うような事で、ソコで愈よ期日も差迫て、今度はもう掛値なし、一日も負からないと云う日になった、と云うのを私は政府の翻訳局に居て詳に知て居るから尚お堪らない。
書き下し
夫れから攘夷論と云うものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂公の上洛となり、続いて御親発として長州征伐に出掛けると云うような事になって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、英吉利の軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の侍が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人は只懇親を以て交ろうと思うて是れまでも有らん限り柔かな手段ばかりを執て居た、然るに日本の国民が乱暴をして剰え人を殺した、如何にしてもその責は日本政府に在て免るべからざる罪であるから、この後二十日を期して決答せよと云う次第は、政府から十万磅の償金を取り、尚お二万五千磅は薩摩の大名から取り、その上罪人を召捕て眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文が来た。その時に私共が飜訳する役目に当て居るので、夜中に呼びに来て、赤坂に住で居る外国奉行松平石見守の宅に行たのが、私と杉田玄端、高畑五郎、その三人で出掛けて行て、夜の明けるまで飜訳したが、是れはマアどうなる事だろうか、大変な事だと窃に心配した所が、その翌々二十一日には将軍が危急存亡の大事を眼前に見ながら其れを棄てゝ置て上洛して仕舞うた。爾うするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、所がもう二十日待て呉れろ、ソレは待つの待たないのと捫着の末、どうやら斯うやら待て貰うことになった。所でいよ/\償金を払うか払わないかと云う幕府の評議がなか/\決しない。その時の騒動と云うものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争がある抔と云う評判、その二十日の期間も既に過去て、又十日と云うことになって、始終十日と二十日の期限を以て次第々々に返辞を延して行く。私はその時に新銭座に住で居たから、迚もこりゃ戦争になりそうだ、なればどうも逃げるより外に仕様がないと、ソロ/\迯仕度をすると云うような事で、ソコで愈よ期日も差迫て、今度はもう掛値なし、一日も負からないと云う日になった、と云うのを私は政府の飜訳局に居て詳に知て居るから尚お堪らない。
現代語訳
それから攘夷論というものはだんだん増長して、将軍徳川家茂公の上洛となり、続いて自ら出陣して長州征伐に出掛けるといったことになり、まったく攘夷一辺倒の世の中になりました。そこで文久三年の春、イギリスの軍艦が来て、去年生麦で日本の薩摩の侍がイギリス人を殺したその罪は、全く日本政府にある。イギリス人はただ友好をもって交わろうと思い、これまでもできる限り穏やかな手段ばかりをとってきた。ところが日本の国民が乱暴をして、あまつさえ人を殺した。いかにしてもその責任は日本政府にあって免れることのできない罪であるから、今後二十日を期限として回答せよという。その内容は、政府から十万ポンドの償金を取り、さらに二万五千ポンドは薩摩の大名から取り、そのうえ罪人を召し捕らえて目の前で刑に処せよという要求でした。その手紙が来たのはその年の二月十九日、長々とした公使の公文が来ました。そのとき私たちは翻訳をする役目に当たっていたので、夜中に呼びに来て、赤坂に住んでいる外国奉行松平石見守の宅に行ったのが、私と杉田玄端、高畑五郎、その三人で、出かけていって夜が明けるまで翻訳しましたが、これはいったいどうなることだろうか、大変なことだとひそかに心配しました。すると、その翌々日の二十一日には、将軍が危急存亡の大事を目の前に見ながら、それを放っておいて上洛してしまいました。そうなるとさあ、二十日の期限がちゃんと来ます。十九日に手紙が来たのだから、ちょうど翌月十日。ところがもう二十日待ってくれ、待つの待たないのともめた末、どうにかこうにか待ってもらうことになりました。ところが、いよいよ償金を払うか払わないかという幕府の評議がなかなか決まりません。そのときの騒動といえば、江戸市中はもう、今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争があるなどという評判で、その二十日の期間もすでに過ぎ、またあと十日ということになり、いつも十日と二十日の期限で次第に返事を延ばしていく。私はそのとき新銭座に住んでいたので、とてもこれは戦争になりそうだ、なれば逃げるより仕方がないと、そろそろ逃げ支度をするというありさまで、そしていよいよ期日が差し迫り、今度はもう掛け値なし、一日もまけないという日になりました。というのを私は政府の翻訳局にいて詳しく知っているので、なおたまりません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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福翁自伝・攘夷論・外交機密を写取る文久三年癸亥の歳は一番喧しい歳で、日本では攘夷をすると云い、又英の軍艦は生麦一件に就て大造な償金を申出して幕府に迫ると云う、外交の難局と云うたらば、恐ろしい怖い事であった。その時に私は幕府の外務省の飜訳局に居たから、その外国との往復書翰は皆見て悉く知て居る。即ち英仏その他の国々から斯う云う書翰が来た、ソレに対して幕府から斯う返辞を遣た。又此方から斯う云う事を諸外国の公使に掛合付けると、彼方から斯う返答して来たと云う次第、即ち外交秘密が明に分て居なければならぬ筈。勿論その外交秘密の書翰を宅に持て帰ることは出来ない、けれども役所に出て飜訳するか或は又外国奉行の宅に行て飜訳するときに、私はちゃんとソレを諳記して置て、宅に帰てからその大意を書て置く。例えば生麦の一件に就て英の公使から来たその書翰の大意は斯様々々、ソレに向て此方から斯う返辞を遣わしたと云うその大意、一切外交上往復した書翰の大意を、宅に帰ては薄葉の罫紙に書記して置た。ソレは勿論ザラに人に見せられるものでない。唯親友間の話の種にする位の事にして置たが、随分面白いものである。所が私はその書付を一日不意と焼て仕舞た。
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福翁自伝・攘夷論・夢中で錨を還すその錨を切たと云うことは清水卯三郎が船に乗て見て居たばかりで薩摩の人は多分知らない。ソレカラ清水が薩摩の人に遇て、那の時に英艦の方では錨を切たのだから拾い挙げて置たら宜かろうと云た所が、薩摩でも余り気に留めなかったと見えて、その錨は何でも漁夫が挙げたと云う話だ。ソレで錨は薩摩の手に這入たが、二万五千磅の金を渡して和睦をしたその時に、英人が手軽に錨を還して貰いたいと云うと、易い事だと云て何とも思わずに古鉄でも渡す積りで返して仕舞た様子だが、前にも云う通り戦争の負勝は分らなかったのでしょう、何方が勝たでもない、錨を切て将官が二人死んで水兵は上陸も出来ずに帰たと云えばマア負師、夫れから又薩摩の方も陸を荒されて居ながら帰て行く船を追蒐けて行くこともせず打遣って置たのみならず、戦争の翌朝英艦から陸に向て発砲しても陸から応砲もせぬと云えばこりゃ薩摩の負師のように当る、勝たと云えば何方も勝た、負けたと云えば何方も負けた、詰り勝負なしとした所で、何でも錨と云うものは大事な物である、ソレを浮か/\と還して仕舞たと云うのは誠に馬鹿げた話だけれども、当時の日本人が国際法と云うことを知らないのはマアこの位なもので、加之ならず本来今度の生麦事件で英国が一私人殺害の為めに大層な事を日本政府に云掛けて、到頭十二万五千磅取たと云うのは理か非か、甚だ疑わしい。三十余年前の時節柄とは云え、吾々日本人は今日に至るまでも不平である。夫れから薩摩から戦の日延べを云出したその時に、英公使の云振りが威嚇したにも威嚇さぬにもマア大変な剣幕で、悪く云えば日本人はその威嚇を喰たようなもので、必竟何も知らずに夢中でこの事が終て仕舞た。今ならばこんな馬鹿げた事は勿論なかろうが、既にその時にも亜米利加人などは日本政府で払わなければ宜いがと云て居たことがある。英公使は威嚇し抜て、その上に仏蘭西のミニストルなどが横合から出て威張るなんと云うのは、丸で狂気の沙汰で訳けが分らない。ソレで事が済んだのは今更ら何とも評論のしようがない。
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福翁自伝・攘夷論・薩人、英人と談判松木の話は次にして置て、横浜に英吉利の軍艦が帰て来た跡で、薩摩から談判の為めに江戸に人が出て来た。その江戸に人の出て来たと云うのは、岩下佐治右衛門、重野孝之丞(後に安繹)、その外に黒幕見たような役目を帯びて来たのが大久保市蔵(後に利通)、その三人が出て来た処で、第一番に薩摩の望む所は兎にも角にもこの戦争を暫く延引して貰いたいと云う注文なれども、その周旋を誰に頼むと云う手掛りもなく当惑の折柄、こゝに一人の人があるその一人と云うのは清水卯三郎(瑞穂屋卯三郎)と云う人で、この人は商人ではあるけれども英書も少し読み西洋の事に付ては至極熱心、先ず当時に於てはその身分に不似合な有志者である。初め英艦が薩摩に行こうと云うときに、若し薩摩の方から日本文の書翰を出されたときには之を読むに困る。通弁にはアレキサンドル・シーボルトがあるから差支ないけれども、日本文の書翰を颯々と読む人がない、と云うので英人から同行を頼まれた。清水は平生勇気もあり随分そんな事の好きな人で、夫れは面白い行て見ようと容易承諾し、横浜税関の免状を申受けて旗艦に乗込み、先方に着して親しく戦争をも見物したその縁があるので、今度薩州の人が江戸に来て英人との談判に付き、黒幕の大久保市蔵は取敢えず清本卯三郎を頼み、兎に角にこの戦争を暫く延引して貰いたいと云う事を、在横浜の英公使ジョン・ニールに掛合うことにした。ソコで清水は大久保の依託を受けて横浜の英公使館に出掛けてその話を申込んだ所が、取次の者の言うに、斯る重大事件を談ずるに商人などでは不都合なり、モット大きな人が来たら宜かろうと云うから、清水は之を押し返し、人に大小軽重はない、談判の委任を受けて居れば沢山だ、夫れでも拙者と話は出来ないかと少しく理屈を云た所が、そう云う訳けなら直ぐに遇うと云うので、夫れから公使に面会して戦争中止の事を話掛けると、なか/\聞きそうにも為ない。イヤもう既に印度洋から軍艦を増発して何千の兵士は唯今支度最中、然るにこの戦争の時期を延して待つなどゝは謂れのない話だ云々と、思うさま威嚇して聞きそうな顔色がない。ソコで清水はその挨拶を承って薩人に報告すると、重野が、迚もこりゃ六かしそうだ、兎に角に自分達が自から談判して見ようと云て、遂に薩英談判会を開き、種々様々問答の末、とう/\要求通りの償金を払う事になり、高は二万五千磅、時の相場にして凡そ七万両ぐらいに当り、その七万両の金は内実幕府から借用して、そうして島津薩摩守の名義では払われないと云うので、分家の島津淡路守の名を以て金を渡すことにして、且つ又リチャルドソンを殺した罪人は何分にも何処にか逃げて分らないから、若し分たらば死刑と云うことで以て事が収まった。その談判の席には大久保市蔵は出ない。岩下と重野の両人、それから幕府の外国方から鵜飼弥市、監察方から斎藤金吾と云う人が立会い、いよ/\書面を取換して事のすっかり収まったのが、文久三年の十一月の朔日か二日頃であった。
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福翁自伝・攘夷論・下ノ関の攘夷夫れから世の中はもう引続いて攘夷論ばかり、長州の下ノ関では只和蘭船を撃つばかりでなく、その後亜米利加の軍艦にも発砲すれば、英吉利の軍艦にも発砲すると云うような訳けで、到頭その尻と云うものは英仏蘭米四ヶ国から幕府に捩込んで、三百万円の償金を出せと云うことになって、捫着の末、遂にその償金を払うことになった。けれども国内の攘夷論はなか/\収まりが付かないで、到頭仕舞には鎖国攘夷と云うことを云わずに新に鎖港と云う名を案じ出して、ソレで幕府から態々池田播磨守と云う外国奉行を使節として仏蘭西まで鎖港の談判に遣わすと云うような騒ぎで、一切滅茶苦茶、暗殺は殆んど毎日の如く、実に恐ろしい世の中になって仕舞た。爾う云う時勢であるから、私は唯一身を慎んでドウでもして災をれさえすれば宜いと云うことに心掛けて居ました。
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福翁自伝・欧羅巴各国に行く・生麦の報道到来して使節苦しむ夫れから露西亜を去て仏蘭西に帰り、いよ/\出発と云うその時は生麦の大騒動、即ち生麦で英人のリチヤードソンと云うものを薩摩の侍が斬たと云うことが丁度彼方に報告になった時で、サア仏蘭西のナポレオン政府が吾々日本人に対して気不味くなって来た。人民はどうか知らないが政府の待遇の冷淡不愛相になった事は甚だしい。主人の方でその通りだから、客たる吾々日本人のキマリの悪いこと如何にも云い様がない。日本の使節が港から船に乗ろうと云うその道は十町余りもあったかと思う、道の両側に兵隊をずっと并べて見送らした。是れは敬礼を尽すのではなくして日本人を威かしたに違いない。兵士を幾ら并べたって鉄砲を撃つ訳けでないから、怖くも何ともありはしないけれども、その苦々しい有様と云うものは実に堪らない訳けであった。私の西航記中の一節に、 閏八月十三日(文久二年)朝八時ロシフ※ルトに着。ロシフ※ルトは巴里より仏里にて九十里の処にある仏蘭西の海軍港なり。蒸気車より下り船に乗るまでの路十余町、この間盛に護衛の兵卒千余人を列せり。敬礼を表するに似て或は威を示すなり。日本人は昨夜蒸気車に乗り車中安眠するを得ず大に疲れたるに、此処に着して暫時も休息せしめず車より下りて直に又船に乗らしむ。且つ船に乗るまで十余町の道、日本の一行には馬車を与えず徒歩にて船まで云々。 ソレカラ仏蘭西を出発して葡萄牙のリスボンに寄港し、使節の公用を済して又船に乗り、地中海に入り、印度洋に出て、海上無事、日本に帰て見れば攘夷論の真盛りだ。
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福翁自伝・攘夷論・鹿児島湾の戦争幕府に要求した十万磅の償金は五月十日に片付て、夫れから今度はその英軍艦が鹿児島に行て、被害者遺族の手当として二万五千磅を要求し、且つその罪人を英国人の見て居る所で死刑に処せよと云う掛合の為めに、六艘の軍艦は鹿児島湾に廻て錨を卸した。スルト薩摩藩から直ちに来意訪問の使者が来る。英の旗艦の水師提督はクーパー、司令長官はウ※ルモット、船長はジヨスリングと云う人で、書翰を薩摩の役人に渡し、応否の返答如何と待て居る。所がなか/\容易な事に返辞が出来ない。ソレコレする中に薩摩に西洋形の船、即ち西洋から薩摩藩に買取た船が二艘あるその二艘の船を談判の抵当に取ると云う趣意で、桜島の側に碇泊してあった二艘の船を英の軍艦が引張て来ると云う手詰の場合になった。スルト陸の方からこの様子を見ていよ/\発砲し始めて、陸から発砲すれば海からも発砲して、ドン/″\大合戦になった、と云うのが丁度文久三年五月下旬、何でも二十八、九日頃である。その時に英の旗艦はマダ陸からは発砲しないことゝ思て錨を挙げずに居た所が、俄に陸の方で撃始めたものだから、サア錨を上げようとすると生憎その時は大変な暴風、加うるに海が最も深いからドウも錨を上げる遑がないと云うので、錨の鎖を切て夫れから運動するようになった。是れが例の英吉利の軍艦の錨が薩摩の手に入た由来である。ソコで陸から打つ鉄砲もなか/\エライ、専ら旗艦を狙うて命中するものも多いその中に、大きな丸い破裂弾が旨く発して怪我人が出来た中に、司令長官と甲比丹と二人の将官が即死して船中の騒動、又船から陸に向ての砲撃もなか/\劇しく、海岸の建物は大抵焼払うて是れも容易ならぬ損害であったが、詰る所、勝負なしの戦争と云うのは、薩摩の方は英吉利の軍艦を撃て二人の将官まで殺したけれどもその船を如何することも出来ない、又軍艦の方でも陸を焼払うて随分荒したことは荒したけれども上陸することは出来ない、双方共に勝ちも負けもせずに、英の軍艦が横浜に帰たのは六月十日前の頃であったが、その時に面白い話がある。戦争の済んだ後で彼の旗艦に命中した破裂弾の砕片を見て、船中の英人等が頻りに語り合うに、「こんな弾丸が日本で出来る訳はない。イヤ能く見れば露西亜製のものじゃ。露西亜から日本に送ったのであろうなどゝ評議区々なりしと云う。当時クリミヤ戦争の当分ではあるし、元来英吉利と露西亜との間柄は犬と猿のようで、相互に色々な猜疑心がある。今日に至るまでも仲は好くないように見える。
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