福翁自伝 / 攘夷論・脇屋卯三郎の切腹(2)
ソコで私も脇屋卯三郎がいよ/\殺されたと云うことを聞て酷く恐れた、その恐れたと云うのは外ではない、明君云々と云た丈けの話で彼が伝馬町の牢に入れられて殺されて仕舞た、爾うすると私の書記して置たものは外交の機密に係る恐ろしいものである、若しこれが分りでもすれば直ぐに牢に打込まれて首を斬られて仕舞うに違いないと斯う思たから、その時は私は鉄砲洲に居たが、早々その書付を焼て仕舞たけれども、何分気になって堪らぬと云うのは、私がその書付の写しか何かを親類の者に遣たことがある、夫れから又肥後の細川藩の人にソレを貸したことがある、貸したその時にアレを写しはしなかったろうかと如何も気になって堪らない、と云て今頃からソレを荒立てゝ聞きに遣れば又その手紙が邪魔になる、既に原本は焼て仕舞たがその写しなどが出て呉れなければ宜いが、出て来られた日には大変な事になると思て誠に気懸りであった。所が幸に何事もなく王政維新になったので、大きに安堵して、今では颯々とそんな事を人に話したりこの通りに速記することも出来るようになったけれども、幕府の末年には決して爾うでない、自分から作た災で、文久三年亥歳から明治元年まで五、六年の間と云うものは、時の政府に対して恰も首の負債を背負ながら、他人に言われず家内にも語らず、自分で自分の身を窘めて居たのは随分悪い心持でした。脇屋の罪に較べて五十歩百歩でない、外交機密を漏した奴の方が余程の重罪なるに、その罪の重い方は旨く免かれて、何でもない親類に文通した者は首を取られたこそ気の毒ではないか、無惨ではないか。人間の幸不幸は何処に在るか分らない、所謂因縁でしょう。この一事でも王政維新は私の身の為めに難有い。夫れは扨置き、今日でも彼の書たものを見れば、文久三年の事情はよく分て、外交歴史の材料にもなり、頗る面白いものであるが、何分にも首には易えられず焼て仕舞たが、若しも今の世の中に誰か持て居る人があるなら見たいものと思います。
書き下し
ソコで私も脇屋卯三郎がいよ/\殺されたと云うことを聞て酷く恐れた、その恐れたと云うのは外ではない、明君云々と云た丈けの話で彼が伝馬町の牢に入れられて殺されて仕舞た、爾うすると私の書記して置たものは外交の機密に係る恐ろしいものである、若しこれが分りでもすれば直ぐに牢に打込まれて首を斬られて仕舞うに違いないと斯う思たから、その時は私は鉄砲洲に居たが、早々その書付を焼て仕舞たけれども、何分気になって堪らぬと云うのは、私がその書付の写しか何かを親類の者に遣たことがある、夫れから又肥後の細川藩の人にソレを貸したことがある、貸したその時にアレを写しはしなかったろうかと如何も気になって堪らない、と云て今頃からソレを荒立てゝ聞きに遣れば又その手紙が邪魔になる、既に原本は焼て仕舞たがその写しなどが出て呉れなければ宜いが、出て来られた日には大変な事になると思て誠に気懸りであった。所が幸に何事もなく王政維新になったので、大きに安堵して、今では颯々とそんな事を人に話したりこの通りに速記することも出来るようになったけれども、幕府の末年には決して爾うでない、自分から作た災で、文久三年亥歳から明治元年まで五、六年の間と云うものは、時の政府に対して恰も首の負債を背負ながら、他人に言われず家内にも語らず、自分で自分の身を窘めて居たのは随分悪い心持でした。脇屋の罪に較べて五十歩百歩でない、外交機密を漏した奴の方が余程の重罪なるに、その罪の重い方は旨く免かれて、何でもない親類に文通した者は首を取られたこそ気の毒ではないか、無惨ではないか。人間の幸不幸は何処に在るか分らない、所謂因縁でしょう。この一事でも王政維新は私の身の為めに難有い。夫れは扨置き、今日でも彼の書たものを見れば、文久三年の事情はよく分て、外交歴史の材料にもなり、頗る面白いものであるが、何分にも首には易えられず焼て仕舞たが、若しも今の世の中に誰か持て居る人があるなら見たいものと思います。
現代語訳
そこで私も脇屋卯三郎がいよいよ殺されたということを聞いてひどく恐れました。その恐れたというのは他でもありません。明君云々と言っただけの話で、彼が伝馬町の牢に入れられて殺されてしまった、そうすると私が書き記しておいたものは、外交の機密にかかわる恐ろしいものです。もしこれがわかりでもすれば、すぐに牢に打ち込まれて首を斬られてしまうに違いないと、こう思ったので、そのときは私は鉄砲洲にいましたが、急いでその書付を焼いてしまいました。けれども、どうにも気になってたまらないというのは、私がその書付の写しか何かを親類の者にやったことがあります。それからまた肥後の細川藩の人にそれを貸したことがあります。貸したそのときに、あれを写しはしなかったろうかと、どうにも気になってたまりません。かといって今頃からそれを荒立てて聞きにやれば、またその手紙が邪魔になります。すでに原本は焼いてしまったが、その写しなどが出てこなければよいが、出てこられた日には大変なことになると思って、まことに気がかりでした。ところが幸いに何事もなく王政維新になったので、大いに安堵して、今ではさっさとそんなことを人に話したり、このとおりに速記することもできるようになりましたが、幕府の末年には決してそうではありません。自分から作った災いで、文久三年亥年から明治元年まで五、六年の間というもの、時の政府に対してあたかも首の負債を背負いながら、他人に言われず、家内にも語らず、自分で自分の身を苦しめていたのは、ずいぶん悪い心持ちでした。脇屋の罪に比べて五十歩百歩どころではない、外交機密を漏らした奴のほうがよほどの重罪なのに、その罪の重い方はうまく免れて、何でもない親類に文通した者は首を取られたとは、気の毒ではないか、無惨ではないか。人間の幸不幸はどこにあるかわからない、いわゆる因縁でしょう。この一事でも王政維新は私の身のためにありがたい。それはさておき、今日でもあの書いたものを見れば、文久三年の事情はよくわかり、外交歴史の材料にもなり、すこぶる面白いものですが、何分にも首には替えられず焼いてしまいました。もし今の世の中に誰か持っている人があるなら見たいものと思います。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・攘夷論・脇屋卯三郎の切腹(1)焼て仕舞たと云うことに就て話がある。その時に何とも云われぬ恐ろしい事が起た、と云うのは神奈川奉行組頭、今で云えば次官と云うような役で、脇屋卯三郎と云う人があった。その人は次官であるから随分身分のある人で、その人の親類が長州に在て、之に手紙を遣た所が、その手紙を不意と探偵に取られた。その手紙は普通の親類に遣る手紙であるから何でもない事で、その文句の中に、誠に穏かならぬ御時節柄で心配の事だ、どうか明君賢相が出て来て何とか始末をしなければならぬ云々と書てあった。ソコで幕府の役人がこの手紙を見て、何々、天下が騒々敷い、ドウカ明君が出て始末を付けて貰うようにしたいと云えば、是れは公方様を蔑ろにしたものだ、即ち公方様を無きものにして明君を欲すると云う所謂謀反人だと云う説になって、直ぐに脇屋を幕府の城中で捕縛して仕舞た。丁度私が城中の外務省に出て居た日で、大変だ、今脇屋が捕縛されたと云う中に、縛られては居ないが同心を見たような者が付て脇屋が廊下を通て行た。何れも皆驚いて、神奈川の組頭が捕まえられたと云うは何事だと云て、その翌日になって聞た所が、今の手紙の一件で斯う/\云う嫌疑だそうだと云う。夫れから脇屋を捕まえると同時に家捜しをして、そうしてその儘当人は伝馬町に入牢を申付けられ、何かタワイもない吟味の末、牢中で切腹を申付られた。その時に検視に行た高松彦三郎と云う人は御小人目付で私の知人だ。伝馬町へ検視には行たが誠に気の毒であったと、後で彦三郎が私に話しました。
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福翁自伝・攘夷論・外交機密を写取る文久三年癸亥の歳は一番喧しい歳で、日本では攘夷をすると云い、又英の軍艦は生麦一件に就て大造な償金を申出して幕府に迫ると云う、外交の難局と云うたらば、恐ろしい怖い事であった。その時に私は幕府の外務省の飜訳局に居たから、その外国との往復書翰は皆見て悉く知て居る。即ち英仏その他の国々から斯う云う書翰が来た、ソレに対して幕府から斯う返辞を遣た。又此方から斯う云う事を諸外国の公使に掛合付けると、彼方から斯う返答して来たと云う次第、即ち外交秘密が明に分て居なければならぬ筈。勿論その外交秘密の書翰を宅に持て帰ることは出来ない、けれども役所に出て飜訳するか或は又外国奉行の宅に行て飜訳するときに、私はちゃんとソレを諳記して置て、宅に帰てからその大意を書て置く。例えば生麦の一件に就て英の公使から来たその書翰の大意は斯様々々、ソレに向て此方から斯う返辞を遣わしたと云うその大意、一切外交上往復した書翰の大意を、宅に帰ては薄葉の罫紙に書記して置た。ソレは勿論ザラに人に見せられるものでない。唯親友間の話の種にする位の事にして置たが、随分面白いものである。所が私はその書付を一日不意と焼て仕舞た。
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福翁自伝・雑記・暗殺の患は政治家の方に廻わる凡そ私共の暗殺を恐れたのは、前に申す通り文久二、三年から明治六、七年頃までのことでしたが、世間の風潮は妙なもので、新政府の組織が次第に整頓して、随て執政者の権力も重きを成して、自から威福の行われるようになると同時に、天下の耳目は政府の一方に集り、私の不平も公衆の苦情も何も蚊もその原因を政府の当局者に帰して、之に加うるに羨望嫉妬の念を以てして、今度は政府の役人達が狙われるようになって来て、洋学者の方は大に楽になりました。喰違に岩倉公襲撃の頃からソロ/\始まって、明治十一年、大久保内務卿の暗殺以来、毎度の兇変は皆政治上の意味を含んで居るから、云わば学者の方は御留主になって、政治家の為めには誠に気の毒で万々推察しますが、私共は人に羨まれる事がないから、先ず以て今日は安心と思います。
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福翁自伝・暗殺の心配・床の下から逃げる積り・暗殺の歴史ソレに就ては色々面白い話がある。今この三田の屋敷の門を這入て右の方にある塾の家は、明治初年私の住居で、その普請をするとき、私は大工に命じて家の床を少し高くして、押入の処に揚板を造て置たと云うのは、若し例の奴等に踏込まれた時に、旨く逃げられゝば宜いが、逃げられなければ揚板から床の下に這入て其処から逃出そうと云う私の秘計で、今でも彼処の家は爾うなって居ましょう。 その大工に命ずる時に何故と云うことは云われない、又家内の者にも根ッから面白い話でないから何とも云うことが出来ぬ、詰り私独りの苦労で、実に馬鹿気た事ですが、夫れは差置き、私の見る処で、我開国以来世に行われた暗殺の歴史を申さんに、最初は唯新開国の人民が外国人を嫌うと云うまでの事で、深い意味はない。外国人は穢れた者だ、日本の地には足踏みもさせられぬと云うことが国民全体の気風で、その中に武家は双刀を腰にして気力もあるから、血気の若武者は折々外国人を暗打にしたこともある。併しその若武者も日本人を憎む訳けはないから、私などが仮令い時の洋学書生であっても災に罹る筈はない。大阪修業中は勿論、江戸に来ても当分は誠に安心、何も心配したことはない。例えば開国の初に、横浜で露西亜人の斬られたことなどは、唯その事変に驚くばかりで自分の身には何とも思わざりしに、その後間もなく外人嫌いの精神は俄に進歩して殺人の法が綿密になり、筋道が分り、区域が広くなり、之に加うるに政治上の意味をも調合して、万延元年、井伊大老の事変後は世上何となく殺気を催して、手塚律蔵、東条礼蔵は洋学者なるが故にとて長州人に襲撃せられ、塙二郎は国学者として不臣なりとて何者かに首を斬られ、江戸市中の唐物屋は外国品を売買して国の損害するとて苦しめらるゝと云うような風潮になって来ました。是れが即ち尊王攘夷の始りで、幕府が王室に対する法は多年来何も相替ることはなけれども、京都の御趣意は攘夷一天張りであるのに、然るに幕府の攘夷論は兎角因循姑息に流れて埒が明かぬ、即ち京都の御趣意に背くものである、尊王の大義を弁えぬものである、外国人に媚びるものである、と斯う云えば、その次には洋学者流を売国奴と云うのも無理はない。サア洋学者も怖くなって来た。殊に私などは同僚親友の手塚東条両人まで侵されたと云うのであるから、怖がらずには居られない。
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福翁自伝・暗殺の心配是れまで御話し申した通り、私の言行は有心故造態と敵を求める訳けでは固よりないが、鎖国風の日本に居て一際目立つ様に開国文明論を主張すれば、自然に敵の出来るのも仕方がない。その敵も口で彼是喧しく云うて罵詈する位は何でもないが、唯怖くて堪らぬのは襲撃暗殺の一事です。是れから少しその事を述べましょうが、凡そ世の中に我身に取て好かない、不愉快な、気味の悪い、恐ろしいものは、暗殺が第一番である。この味は狙われた者より外に分るまいと思う。実に何とも口にも言われず筆にも書かれません。是れが病気を煩うとか、痛所があるとか何とか云えば、家内に相談し朋友に謀ると云う様なこともあるが、暗殺ばかりは家内の者へ云えば当人よりは却て家の者が心配しましょう、心配して呉れてソレが何にも役に立たぬ、ダカラ私はそんな事を家内の者に云た事もなければ親友に告げた事もない。固よりこの身に罪はない、仮令い粗われても恥かしい事ではないと云うことは分切て居ても、人に語て無益の事であるから、心配するのは自分一人である。私が暗殺を心配したのは毎度の事で、或は風声鶴唳にも驚きました。丁度今の狂犬を見たようなもので、おとなしい犬でも気味が悪いと云うような訳けで、どうも人を見ると気味がわるい。
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福翁自伝・暗殺の心配・廻国巡礼を羨む又真実怖い事もある。凡そ維新前、文久二、三年から維新後、明治六、七年の頃まで、十二、三年の間が最も物騒な世の中で、この間私は東京に居て夜分は決して外出せず、余儀なく旅行するときは姓名を偽り、荷物にも福澤と記さず、コソ/\して往来するその有様は、欠落者が人目を忍び、泥坊が逃げて廻わるような風で、誠に面白くない。そのとき途中で廻国巡礼に出逢い、その笠を見れば何の国何都何村の何某と明白に書てある。「扨々羨ましい事だ、乃公もアヽ云う身分になって見たいと、自分の身を思い又世の有様を考えて、妙な心持になって、ソレからその巡礼に銭など与えて、貴様達は夫婦か、故郷に子はないか、親はあるか、など色々話し、問答して別れたことは今に覚えて居ます。
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