福翁自伝 / 欧羅巴各国に行く・生麦の報道到来して使節苦しむ
夫れから露西亜を去て仏蘭西に帰り、いよ/\出発と云うその時は生麦の大騒動、即ち生麦で英人のリチヤードソンと云うものを薩摩の侍が斬たと云うことが丁度彼方に報告になった時で、サア仏蘭西のナポレオン政府が吾々日本人に対して気不味くなって来た。人民はどうか知らないが政府の待遇の冷淡不愛相になった事は甚だしい。主人の方でその通りだから、客たる吾々日本人のキマリの悪いこと如何にも云い様がない。日本の使節が港から船に乗ろうと云うその道は十町余りもあったかと思う、道の両側に兵隊をずっと并べて見送らした。是れは敬礼を尽すのではなくして日本人を威かしたに違いない。兵士を幾ら并べたって鉄砲を撃つ訳けでないから、怖くも何ともありはしないけれども、その苦々しい有様と云うものは実に堪らない訳けであった。私の西航記中の一節に、 閏八月十三日(文久二年)朝八時ロシフ※ルトに着。ロシフ※ルトは巴里より仏里にて九十里の処にある仏蘭西の海軍港なり。蒸気車より下り船に乗るまでの路十余町、この間盛に護衛の兵卒千余人を列せり。敬礼を表するに似て或は威を示すなり。日本人は昨夜蒸気車に乗り車中安眠するを得ず大に疲れたるに、此処に着して暫時も休息せしめず車より下りて直に又船に乗らしむ。且つ船に乗るまで十余町の道、日本の一行には馬車を与えず徒歩にて船まで云々。 ソレカラ仏蘭西を出発して葡萄牙のリスボンに寄港し、使節の公用を済して又船に乗り、地中海に入り、印度洋に出て、海上無事、日本に帰て見れば攘夷論の真盛りだ。
書き下し
夫れから露西亜を去て仏蘭西に帰り、いよ/\出発と云うその時は生麦の大騒動、即ち生麦で英人のリチヤードソンと云うものを薩摩の侍が斬たと云うことが丁度彼方に報告になった時で、サア仏蘭西のナポレオン政府が吾々日本人に対して気不味くなって来た。人民はどうか知らないが政府の待遇の冷淡不愛相になった事は甚だしい。主人の方でその通りだから、客たる吾々日本人のキマリの悪いこと如何にも云い様がない。日本の使節が港から船に乗ろうと云うその道は十町余りもあったかと思う、道の両側に兵隊をずっと并べて見送らした。是れは敬礼を尽すのではなくして日本人を威かしたに違いない。兵士を幾ら并べたって鉄砲を撃つ訳けでないから、怖くも何ともありはしないけれども、その苦々しい有様と云うものは実に堪らない訳けであった。私の西航記中の一節に、 閏八月十三日(文久二年)朝八時ロシフ※ルトに着。ロシフ※ルトは巴里より仏里にて九十里の処にある仏蘭西の海軍港なり。蒸気車より下り船に乗るまでの路十余町、この間盛に護衛の兵卒千余人を列せり。敬礼を表するに似て或は威を示すなり。日本人は昨夜蒸気車に乗り車中安眠するを得ず大に疲れたるに、此処に着して暫時も休息せしめず車より下りて直に又船に乗らしむ。且つ船に乗るまで十余町の道、日本の一行には馬車を与えず徒歩にて船まで云々。 ソレカラ仏蘭西を出発して葡萄牙のリスボンに寄港し、使節の公用を済して又船に乗り、地中海に入り、印度洋に出て、海上無事、日本に帰て見れば攘夷論の真盛りだ。
現代語訳
それからロシアを去ってフランスに帰り、いよいよ出発というその時は、生麦の大騒動、つまり生麦でイギリス人のリチャードソンを薩摩の侍が斬ったということが、ちょうど向こうに報告になった時で、さあフランスのナポレオン政府が私たち日本人に対して気まずくなってきました。国民はどうか知りませんが、政府の待遇が冷淡でそっけなくなったことは甚だしい。主人の側がそうなのですから、客である私たち日本人のきまりの悪いことは、まったく言いようがありません。日本の使節が港から船に乗ろうというその道は、十町余りもあったかと思いますが、道の両側に兵隊をずっと並べて見送らせました。これは敬礼を尽くしたのではなく、日本人を威嚇したに違いありません。兵士をいくら並べても鉄砲を撃つわけではないので、怖くも何ともありませんが、その苦々しいありさまは実にたまらないものでした。私の『西航記』の中の一節に、 閏八月十三日(文久二年)朝八時ロシフォールに着く。ロシフォールはパリから仏里で九十里の所にあるフランスの海軍港である。汽車を降りて船に乗るまでの道は十余町、この間、盛んに護衛の兵卒千余人を並べていた。敬礼を表すようであるが、あるいは威を示すものである。日本人は昨夜汽車に乗り、車中で安眠できず大いに疲れていたのに、ここに着いて暫時も休息させず、汽車から降りてすぐまた船に乗らせた。しかも船に乗るまでの十余町の道、日本の一行には馬車を与えず、徒歩で船までなど。 それからフランスを出発してポルトガルのリスボンに寄港し、使節の公用を済ませてまた船に乗り、地中海に入り、インド洋に出て、海上は無事で、日本に帰ってみれば攘夷論の真っ盛りです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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福翁自伝・攘夷論・英艦来る夫れから攘夷論と云うものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂公の上洛となり、続いて御親発として長州征伐に出掛けると云うような事になって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、英吉利の軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の侍が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人は只懇親を以て交ろうと思うて是れまでも有らん限り柔かな手段ばかりを執て居た、然るに日本の国民が乱暴をして剰え人を殺した、如何にしてもその責は日本政府に在て免るべからざる罪であるから、この後二十日を期して決答せよと云う次第は、政府から十万磅の償金を取り、尚お二万五千磅は薩摩の大名から取り、その上罪人を召捕て眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文が来た。その時に私共が飜訳する役目に当て居るので、夜中に呼びに来て、赤坂に住で居る外国奉行松平石見守の宅に行たのが、私と杉田玄端、高畑五郎、その三人で出掛けて行て、夜の明けるまで飜訳したが、是れはマアどうなる事だろうか、大変な事だと窃に心配した所が、その翌々二十一日には将軍が危急存亡の大事を眼前に見ながら其れを棄てゝ置て上洛して仕舞うた。爾うするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、所がもう二十日待て呉れろ、ソレは待つの待たないのと捫着の末、どうやら斯うやら待て貰うことになった。所でいよ/\償金を払うか払わないかと云う幕府の評議がなか/\決しない。その時の騒動と云うものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争がある抔と云う評判、その二十日の期間も既に過去て、又十日と云うことになって、始終十日と二十日の期限を以て次第々々に返辞を延して行く。私はその時に新銭座に住で居たから、迚もこりゃ戦争になりそうだ、なればどうも逃げるより外に仕様がないと、ソロ/\迯仕度をすると云うような事で、ソコで愈よ期日も差迫て、今度はもう掛値なし、一日も負からないと云う日になった、と云うのを私は政府の飜訳局に居て詳に知て居るから尚お堪らない。
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福翁自伝・欧羅巴各国に行く・欧羅巴各国に行く(2)それから欧羅巴に行くと云うことになって、船の出発したのは文久元年十二月の事であった。この度の船は日本の使節が行くと云う為めに、英吉利から迎船のようにして来たオーヂンと云う軍艦で、その軍艦に乗て香港、新嘉堡と云うような印度洋の港々に立寄り、紅海に這入て、蘇士から上陸して蒸気車に乗て、埃及のカイロ府に着て二晩ばかり泊り、それから地中海に出て、其処から又船に乗て仏蘭西の馬塞耳、ソコデ蒸汽車に乗て里昂に一泊、巴里に着て滞在凡そ二十日、使節の事を終り、巴里を去て英吉利に渡り、英吉利から和蘭、和蘭から普魯西の都の伯林に行き、伯林から露西亜のペートルスボルグ、夫れから再び巴里に帰て来て、仏蘭西から船に乗て、葡萄牙に行き、ソレカラ地中海に這入て、元の通りの順路を経て帰て来たその間の年月は凡そ一箇年、即ち文久二年一杯、推詰てから日本に帰て来ました。 扨今度の旅行に就て申せば、私もこの時にはモウ英書を読み英語を語ると云うことが徐々出来て、夫れから前に申す通りに金も聊か持て居るその金は何も遣い所はないから、只日本を出る時に尋常一様の旅装をした丈けで、その当時は物価の安い時だから何もそんなに金の要る訳けがない、その余た金は皆携えて行て竜動に逗留中、外に買物もない、唯英書ばかりを買て来た。是れが抑も日本へ輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったと云うのも是れからの事である。 夫れから彼の国の巡回中色々観察見聞したことも多いが、是れは後の話にして、先ず使節一行の有様を申さんに、その人員は、 竹内下野守(正使)松平石見守(副使)京極能登守(御目付)柴田貞太郎(組頭)日高圭三郎(御勘定)福田作太郎(御徒士目付)水品楽太郎(調役)岡綺藤左衛門(同)高嶋祐啓(御医師但し漢方医なり)川崎道民(雇医)益頭駿次郎(御普請役)上田友助(定役元締)森鉢太郎(定役)福地源一郎(通弁)立広作(同)太田源三郎(同)斎藤大之進(同心)高松彦三郎(御小人目付)山田八郎(同)松木弘安(反訳方)箕作秋坪(同)福澤諭吉(同) 右の外に三使節の家来両三人ずつと、賄小使六、七人、この小使の中には内証で諸藩から頼んで乗込んだ立派な士人もある。松木、箕作、福澤等は先ず役人のような者ではあるが、大名の家来、所謂陪臣の身分であるから、一行中の一番下席で惣人数凡そ四十人足らず、孰れも日本服に大小を横えて巴里、竜動を闊歩したも可笑しい。
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福翁自伝・攘夷論・外交機密を写取る文久三年癸亥の歳は一番喧しい歳で、日本では攘夷をすると云い、又英の軍艦は生麦一件に就て大造な償金を申出して幕府に迫ると云う、外交の難局と云うたらば、恐ろしい怖い事であった。その時に私は幕府の外務省の飜訳局に居たから、その外国との往復書翰は皆見て悉く知て居る。即ち英仏その他の国々から斯う云う書翰が来た、ソレに対して幕府から斯う返辞を遣た。又此方から斯う云う事を諸外国の公使に掛合付けると、彼方から斯う返答して来たと云う次第、即ち外交秘密が明に分て居なければならぬ筈。勿論その外交秘密の書翰を宅に持て帰ることは出来ない、けれども役所に出て飜訳するか或は又外国奉行の宅に行て飜訳するときに、私はちゃんとソレを諳記して置て、宅に帰てからその大意を書て置く。例えば生麦の一件に就て英の公使から来たその書翰の大意は斯様々々、ソレに向て此方から斯う返辞を遣わしたと云うその大意、一切外交上往復した書翰の大意を、宅に帰ては薄葉の罫紙に書記して置た。ソレは勿論ザラに人に見せられるものでない。唯親友間の話の種にする位の事にして置たが、随分面白いものである。所が私はその書付を一日不意と焼て仕舞た。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・不在中桜田の事変(1)帰る時は南の方を通たと思う。行くときとは違て至極海上は穏かで、何でもその歳には閏があって、閏を罩めて五月五日の午前に浦賀に着した。浦賀には是非錨を卸すと云うのがお極りで、浦賀に着するや否や、船中数十日のその間は勿論湯に這入ると云うことの出来る訳けもない、口嗽をする水がヤット出来ると云う位な事で、身体は汚れて居るし、髪はクシャ/\になって居る、何は扨置き一番先に月代をして夫れから風呂に這入ろうと思うて、小舟に乗て陸に着くと、木村のお迎が数十日前から浦賀に詰掛けて居て、木村の家来に島安太郎と云う用人がある、ソレが海岸まで迎いに来て、私が一番先に陸に上てその島に遇うた。正月の初に亜米利加に出帆して浦賀に着くまでと云うものは風の便りもない、郵便もなければ船の交通と云うものもない。その間は僅に六箇月の間であるが、故郷の様子は何も聞かないから、殆んど六ヶ年も遇わぬような心地。ヒョイと浦賀の海岸で島に遇て、イヤ誠にお久振り、時に何か日本に変た事はないかと尋ねた所が、島安太郎が顔色を変えて、イヤあったとも/\大変な事が日本にあったと云うその時、私が、一寸と島さん待て呉れ、云うて呉れるな、私が中てゝ見せよう、大変と云えば何でも是れは水戸の浪人が掃部様の邸に暴込んだと云うような事ではないかと云うと、島は更らに驚き、どうしてお前さんはそんな事を知て居る、何処で誰れに聞た、聞たって聞ないたって分るじゃないか、私はマア雲気を考えて見るに、そんな事ではないかと思う、イヤ是れはどうも驚いた、邸に暴込んだ所ではない、斯う/\云う訳けだと云て、桜田騒動の話をした。その歳の三月三日に桜田に大騒動のあった時であるから、その事を話したので、天下の治安と云うものは大凡そ分るもので、私が出立する前から世の中の様子を考えて見るとゞうせ騒動がありそうな事だと思て居たから、偶然にも中たので誠に面白かった。
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福翁自伝・攘夷論・仏国公使無法に威張るその飜訳をする間に、時の仏蘭西のミニストル・ベレクルと云う者が、どう云う気前だか知らないが大層な手紙を政府に出して、今度の事に就て仏蘭西は全く英吉利と同説だ、愈よ戦端を開く時には英国と共々に軍艦を以て品川沖を暴れ廻ると、乱暴な事を云うて来た。誠に謂れのない話で、丸でその趣は今の西洋諸国の政府が支那人を威すと同じ事で、政府は唯英仏人の剣幕を見て心配する計り。私には能くその事情が分る、分れば分るほど気味が悪い。
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福翁自伝・欧羅巴各国に行く・見物自由の中又不自由夫れは扨居き、私がこの前亜米利加に行たときには、カリフ※ルニヤ地方にマダ鉄道がなかったから、勿論鉄道を見たことがない、けれども今度は蘇士に上て始めて鉄道に乗り、ソレカラ欧羅巴各国を彼方此方と行くにも皆鉄道ばかり、到る処に歓迎せられて、海陸軍の場所を始めとして、官私の諸工場、銀行会社、寺院、学校、倶楽部等は勿論、病院に行けば解剖も見せる、外科手術も見せる、或は名ある人の家に晩餐の饗応、舞踏の見物など、誠に親切に案内せられて、却て招待の多いのに草臥れると云う程の次第であったが、唯こゝに一つ可笑しいと云うのは、日本はその時丸で鎖国の世の中で、外国に居ながら兎角外国人に遇うことを止めようとするのが可笑しい。使節は竹内、松平、京極の三使節、その中の京極は御目附と云う役目で、ソレには又相応の属官が幾人も附て居る。ソレが一切の同行人を目ッ張子で見て居るので、なか/\外国人に遇うことが六かしい。同行者は何れも幕府の役人連で、その中に先ず同志同感、互に目的を共にすると云うのは箕作秋坪と松木弘安と私と、この三人は年来の学友で互に往来して居たので、彼方に居てもこの三人だけは自然別なものにならぬ。何でも有らん限りの物を見ようと計りして居る、ソレが役人連の目に面白くないと見え、殊に三人とも陪臣で、然かも洋書を読むと云うから中々油断をしない。何か見物に出掛けようとすると、必ず御目附方の下役が附いて行かなければならぬと云う御定まりで始終附て廻る。此方は固より密売しようではなし、国の秘密を洩らす気遣いもないが、妙な役人が附て来れば只蒼蠅い。蒼蠅いのはマダ宜いが、その下役が何か外に差支があると、私共も出ることが出来ない。ソレは甚だ不自由でした。私はその時に==是れはマア何の事はない、日本の鎖国をそのまゝ担いで来て、欧羅巴各国を巡回するようなものだと云て、三人で笑たことがあります。
人生を、一行の式にしてみた。
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