福翁自伝 / 攘夷論・薩人、英人と談判
松木の話は次にして置て、横浜に英吉利の軍艦が帰て来た跡で、薩摩から談判の為めに江戸に人が出て来た。その江戸に人の出て来たと云うのは、岩下佐治右衛門、重野孝之丞(後に安繹)、その外に黒幕見たような役目を帯びて来たのが大久保市蔵(後に利通)、その三人が出て来た処で、第一番に薩摩の望む所は兎にも角にもこの戦争を暫く延引して貰いたいと云う注文なれども、その周旋を誰に頼むと云う手掛りもなく当惑の折柄、こゝに一人の人があるその一人と云うのは清水卯三郎(瑞穂屋卯三郎)と云う人で、この人は商人ではあるけれども英書も少し読み西洋の事に付ては至極熱心、先ず当時に於てはその身分に不似合な有志者である。初め英艦が薩摩に行こうと云うときに、若し薩摩の方から日本文の書翰を出されたときには之を読むに困る。通弁にはアレキサンドル・シーボルトがあるから差支ないけれども、日本文の書翰を颯々と読む人がない、と云うので英人から同行を頼まれた。清水は平生勇気もあり随分そんな事の好きな人で、夫れは面白い行て見ようと容易承諾し、横浜税関の免状を申受けて旗艦に乗込み、先方に着して親しく戦争をも見物したその縁があるので、今度薩州の人が江戸に来て英人との談判に付き、黒幕の大久保市蔵は取敢えず清本卯三郎を頼み、兎に角にこの戦争を暫く延引して貰いたいと云う事を、在横浜の英公使ジョン・ニールに掛合うことにした。ソコで清水は大久保の依託を受けて横浜の英公使館に出掛けてその話を申込んだ所が、取次の者の言うに、斯る重大事件を談ずるに商人などでは不都合なり、モット大きな人が来たら宜かろうと云うから、清水は之を押し返し、人に大小軽重はない、談判の委任を受けて居れば沢山だ、夫れでも拙者と話は出来ないかと少しく理屈を云た所が、そう云う訳けなら直ぐに遇うと云うので、夫れから公使に面会して戦争中止の事を話掛けると、なか/\聞きそうにも為ない。イヤもう既に印度洋から軍艦を増発して何千の兵士は唯今支度最中、然るにこの戦争の時期を延して待つなどゝは謂れのない話だ云々と、思うさま威嚇して聞きそうな顔色がない。ソコで清水はその挨拶を承って薩人に報告すると、重野が、迚もこりゃ六かしそうだ、兎に角に自分達が自から談判して見ようと云て、遂に薩英談判会を開き、種々様々問答の末、とう/\要求通りの償金を払う事になり、高は二万五千磅、時の相場にして凡そ七万両ぐらいに当り、その七万両の金は内実幕府から借用して、そうして島津薩摩守の名義では払われないと云うので、分家の島津淡路守の名を以て金を渡すことにして、且つ又リチャルドソンを殺した罪人は何分にも何処にか逃げて分らないから、若し分たらば死刑と云うことで以て事が収まった。その談判の席には大久保市蔵は出ない。岩下と重野の両人、それから幕府の外国方から鵜飼弥市、監察方から斎藤金吾と云う人が立会い、いよ/\書面を取換して事のすっかり収まったのが、文久三年の十一月の朔日か二日頃であった。
書き下し
松木の話は次にして置て、横浜に英吉利の軍艦が帰て来た跡で、薩摩から談判の為めに江戸に人が出て来た。その江戸に人の出て来たと云うのは、岩下佐治右衛門、重野孝之丞(後に安繹)、その外に黒幕見たような役目を帯びて来たのが大久保市蔵(後に利通)、その三人が出て来た処で、第一番に薩摩の望む所は兎にも角にもこの戦争を暫く延引して貰いたいと云う注文なれども、その周旋を誰に頼むと云う手掛りもなく当惑の折柄、こゝに一人の人があるその一人と云うのは清水卯三郎(瑞穂屋卯三郎)と云う人で、この人は商人ではあるけれども英書も少し読み西洋の事に付ては至極熱心、先ず当時に於てはその身分に不似合な有志者である。初め英艦が薩摩に行こうと云うときに、若し薩摩の方から日本文の書翰を出されたときには之を読むに困る。通弁にはアレキサンドル・シーボルトがあるから差支ないけれども、日本文の書翰を颯々と読む人がない、と云うので英人から同行を頼まれた。清水は平生勇気もあり随分そんな事の好きな人で、夫れは面白い行て見ようと容易承諾し、横浜税関の免状を申受けて旗艦に乗込み、先方に着して親しく戦争をも見物したその縁があるので、今度薩州の人が江戸に来て英人との談判に付き、黒幕の大久保市蔵は取敢えず清本卯三郎を頼み、兎に角にこの戦争を暫く延引して貰いたいと云う事を、在横浜の英公使ジョン・ニールに掛合うことにした。ソコで清水は大久保の依託を受けて横浜の英公使館に出掛けてその話を申込んだ所が、取次の者の言うに、斯る重大事件を談ずるに商人などでは不都合なり、モット大きな人が来たら宜かろうと云うから、清水は之を押し返し、人に大小軽重はない、談判の委任を受けて居れば沢山だ、夫れでも拙者と話は出来ないかと少しく理屈を云た所が、そう云う訳けなら直ぐに遇うと云うので、夫れから公使に面会して戦争中止の事を話掛けると、なか/\聞きそうにも為ない。イヤもう既に印度洋から軍艦を増発して何千の兵士は唯今支度最中、然るにこの戦争の時期を延して待つなどゝは謂れのない話だ云々と、思うさま威嚇して聞きそうな顔色がない。ソコで清水はその挨拶を承って薩人に報告すると、重野が、迚もこりゃ六かしそうだ、兎に角に自分達が自から談判して見ようと云て、遂に薩英談判会を開き、種々様々問答の末、とう/\要求通りの償金を払う事になり、高は二万五千磅、時の相場にして凡そ七万両ぐらいに当り、その七万両の金は内実幕府から借用して、そうして島津薩摩守の名義では払われないと云うので、分家の島津淡路守の名を以て金を渡すことにして、且つ又リチャルドソンを殺した罪人は何分にも何処にか逃げて分らないから、若し分たらば死刑と云うことで以て事が収まった。その談判の席には大久保市蔵は出ない。岩下と重野の両人、それから幕府の外国方から鵜飼弥市、監察方から斎藤金吾と云う人が立会い、いよ/\書面を取換して事のすっかり収まったのが、文久三年の十一月の朔日か二日頃であった。
現代語訳
松木の話は次にして、横浜にイギリスの軍艦が帰ってきたあと、薩摩から談判のために江戸に人が出てきました。その江戸に人が出てきたというのは、岩下佐治右衛門、重野孝之丞(後に安繹)、そのほか黒幕のような役目を帯びて来たのが大久保市蔵(後に利通)、その三人が出てきて、第一に薩摩の望むところは、ともかくこの戦争をしばらく延ばしてもらいたいという注文ですが、その周旋を誰に頼むという手掛かりもなく困っていたところ、ここに一人の人がいます。その一人というのは清水卯三郎(瑞穂屋卯三郎)という人で、この人は商人ではあるけれども、英書も少し読み、西洋のことについては大変熱心で、当時においてはその身分に似合わない志のある人です。初め、イギリス艦が薩摩に行こうというとき、もし薩摩の方から日本文の書簡を出されたときには、これを読むのに困る。通訳にはアレキサンドル・シーボルトがいるので差し支えないが、日本文の書簡をさっさと読む人がない、というので、イギリス人から同行を頼まれました。清水は平生から勇気もあり、そんなことの好きな人で、それは面白い、行ってみようと容易に承諾し、横浜税関の免状を申し受けて旗艦に乗り込み、先方に着いて自ら戦争をも見物した縁があるので、今度薩摩の人が江戸に来てイギリス人との談判について、黒幕の大久保市蔵はとりあえず清水卯三郎を頼み、ともかくこの戦争をしばらく延ばしてもらいたいということを、横浜にいるイギリス公使ジョン・ニールに掛け合うことにしました。そこで清水は大久保の依頼を受けて、横浜のイギリス公使館に出かけてその話を申し込んだところ、取次の者の言うには、こんな重大事件を話すのに商人などでは都合が悪い、もっと大きな人が来たらよかろうというので、清水はこれを押し返し、人に大小軽重はない、談判の委任を受けていれば十分だ、それでも私と話はできないかと少し理屈を言ったところ、そういうわけならすぐに会うというので、それから公使に面会して戦争中止のことを話しかけると、なかなか聞きそうにもしない。いや、もうすでにインド洋から軍艦を増発して何千の兵士はただ今支度の最中、それなのにこの戦争の時期を延ばして待つなどとはいわれのない話だなどと、思うさま威嚇して、聞きそうな顔色がありません。そこで清水はその返事を承って薩摩の人に報告すると、重野が、とてもこれは難しそうだ、とにかく自分たちが自ら談判してみようと言って、ついに薩英談判会を開き、さまざまな問答のすえ、とうとう要求どおりの償金を払うことになり、額は二万五千ポンド、当時の相場でおよそ七万両ぐらいに当たり、その七万両の金は実は幕府から借用して、島津薩摩守の名義では払えないというので、分家の島津淡路守の名で金を渡すことにして、かつまたリチャードソンを殺した罪人はどうしてもどこかに逃げてわからないから、もしわかったら死刑ということで事が収まりました。その談判の席には大久保市蔵は出ません。岩下と重野の両人、それから幕府の外国方から鵜飼弥市、監察方から斎藤金吾という人が立ち会い、いよいよ書面を取り交わして事がすっかり収まったのが、文久三年の十一月の朔日か二日ごろでした。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・攘夷論・鹿児島湾の戦争幕府に要求した十万磅の償金は五月十日に片付て、夫れから今度はその英軍艦が鹿児島に行て、被害者遺族の手当として二万五千磅を要求し、且つその罪人を英国人の見て居る所で死刑に処せよと云う掛合の為めに、六艘の軍艦は鹿児島湾に廻て錨を卸した。スルト薩摩藩から直ちに来意訪問の使者が来る。英の旗艦の水師提督はクーパー、司令長官はウ※ルモット、船長はジヨスリングと云う人で、書翰を薩摩の役人に渡し、応否の返答如何と待て居る。所がなか/\容易な事に返辞が出来ない。ソレコレする中に薩摩に西洋形の船、即ち西洋から薩摩藩に買取た船が二艘あるその二艘の船を談判の抵当に取ると云う趣意で、桜島の側に碇泊してあった二艘の船を英の軍艦が引張て来ると云う手詰の場合になった。スルト陸の方からこの様子を見ていよ/\発砲し始めて、陸から発砲すれば海からも発砲して、ドン/″\大合戦になった、と云うのが丁度文久三年五月下旬、何でも二十八、九日頃である。その時に英の旗艦はマダ陸からは発砲しないことゝ思て錨を挙げずに居た所が、俄に陸の方で撃始めたものだから、サア錨を上げようとすると生憎その時は大変な暴風、加うるに海が最も深いからドウも錨を上げる遑がないと云うので、錨の鎖を切て夫れから運動するようになった。是れが例の英吉利の軍艦の錨が薩摩の手に入た由来である。ソコで陸から打つ鉄砲もなか/\エライ、専ら旗艦を狙うて命中するものも多いその中に、大きな丸い破裂弾が旨く発して怪我人が出来た中に、司令長官と甲比丹と二人の将官が即死して船中の騒動、又船から陸に向ての砲撃もなか/\劇しく、海岸の建物は大抵焼払うて是れも容易ならぬ損害であったが、詰る所、勝負なしの戦争と云うのは、薩摩の方は英吉利の軍艦を撃て二人の将官まで殺したけれどもその船を如何することも出来ない、又軍艦の方でも陸を焼払うて随分荒したことは荒したけれども上陸することは出来ない、双方共に勝ちも負けもせずに、英の軍艦が横浜に帰たのは六月十日前の頃であったが、その時に面白い話がある。戦争の済んだ後で彼の旗艦に命中した破裂弾の砕片を見て、船中の英人等が頻りに語り合うに、「こんな弾丸が日本で出来る訳はない。イヤ能く見れば露西亜製のものじゃ。露西亜から日本に送ったのであろうなどゝ評議区々なりしと云う。当時クリミヤ戦争の当分ではあるし、元来英吉利と露西亜との間柄は犬と猿のようで、相互に色々な猜疑心がある。今日に至るまでも仲は好くないように見える。
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福翁自伝・攘夷論・英艦来る夫れから攘夷論と云うものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂公の上洛となり、続いて御親発として長州征伐に出掛けると云うような事になって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、英吉利の軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の侍が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人は只懇親を以て交ろうと思うて是れまでも有らん限り柔かな手段ばかりを執て居た、然るに日本の国民が乱暴をして剰え人を殺した、如何にしてもその責は日本政府に在て免るべからざる罪であるから、この後二十日を期して決答せよと云う次第は、政府から十万磅の償金を取り、尚お二万五千磅は薩摩の大名から取り、その上罪人を召捕て眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文が来た。その時に私共が飜訳する役目に当て居るので、夜中に呼びに来て、赤坂に住で居る外国奉行松平石見守の宅に行たのが、私と杉田玄端、高畑五郎、その三人で出掛けて行て、夜の明けるまで飜訳したが、是れはマアどうなる事だろうか、大変な事だと窃に心配した所が、その翌々二十一日には将軍が危急存亡の大事を眼前に見ながら其れを棄てゝ置て上洛して仕舞うた。爾うするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、所がもう二十日待て呉れろ、ソレは待つの待たないのと捫着の末、どうやら斯うやら待て貰うことになった。所でいよ/\償金を払うか払わないかと云う幕府の評議がなか/\決しない。その時の騒動と云うものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争がある抔と云う評判、その二十日の期間も既に過去て、又十日と云うことになって、始終十日と二十日の期限を以て次第々々に返辞を延して行く。私はその時に新銭座に住で居たから、迚もこりゃ戦争になりそうだ、なればどうも逃げるより外に仕様がないと、ソロ/\迯仕度をすると云うような事で、ソコで愈よ期日も差迫て、今度はもう掛値なし、一日も負からないと云う日になった、と云うのを私は政府の飜訳局に居て詳に知て居るから尚お堪らない。
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福翁自伝・攘夷論・夢中で錨を還すその錨を切たと云うことは清水卯三郎が船に乗て見て居たばかりで薩摩の人は多分知らない。ソレカラ清水が薩摩の人に遇て、那の時に英艦の方では錨を切たのだから拾い挙げて置たら宜かろうと云た所が、薩摩でも余り気に留めなかったと見えて、その錨は何でも漁夫が挙げたと云う話だ。ソレで錨は薩摩の手に這入たが、二万五千磅の金を渡して和睦をしたその時に、英人が手軽に錨を還して貰いたいと云うと、易い事だと云て何とも思わずに古鉄でも渡す積りで返して仕舞た様子だが、前にも云う通り戦争の負勝は分らなかったのでしょう、何方が勝たでもない、錨を切て将官が二人死んで水兵は上陸も出来ずに帰たと云えばマア負師、夫れから又薩摩の方も陸を荒されて居ながら帰て行く船を追蒐けて行くこともせず打遣って置たのみならず、戦争の翌朝英艦から陸に向て発砲しても陸から応砲もせぬと云えばこりゃ薩摩の負師のように当る、勝たと云えば何方も勝た、負けたと云えば何方も負けた、詰り勝負なしとした所で、何でも錨と云うものは大事な物である、ソレを浮か/\と還して仕舞たと云うのは誠に馬鹿げた話だけれども、当時の日本人が国際法と云うことを知らないのはマアこの位なもので、加之ならず本来今度の生麦事件で英国が一私人殺害の為めに大層な事を日本政府に云掛けて、到頭十二万五千磅取たと云うのは理か非か、甚だ疑わしい。三十余年前の時節柄とは云え、吾々日本人は今日に至るまでも不平である。夫れから薩摩から戦の日延べを云出したその時に、英公使の云振りが威嚇したにも威嚇さぬにもマア大変な剣幕で、悪く云えば日本人はその威嚇を喰たようなもので、必竟何も知らずに夢中でこの事が終て仕舞た。今ならばこんな馬鹿げた事は勿論なかろうが、既にその時にも亜米利加人などは日本政府で払わなければ宜いがと云て居たことがある。英公使は威嚇し抜て、その上に仏蘭西のミニストルなどが横合から出て威張るなんと云うのは、丸で狂気の沙汰で訳けが分らない。ソレで事が済んだのは今更ら何とも評論のしようがない。
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福翁自伝・攘夷論・小笠原壱岐守ソレ等の人が極秘密に云合せた事と見えて、五月の初旬、十日前後と思いますが、愈よ今日と云う日に、前日まで大病だと云て寝て居た小笠原壹岐守がヒョイとその朝起きて、日本の軍艦に乗て品川沖を出て行く。スルト英吉利の砲艦が壹岐守の船の尻に尾いて走ると云うのは、壹岐守は上方に行くと云て品川湾を出発したから、若し本当にその方針を取て本牧の鼻を廻れば英人は後から砲撃する筈であったと云う。所が壹岐守は本牧を廻らずに横浜の方へ這入て、自分の独断で即刻に償金を払うて仕舞た。十万磅を時の相場にすればメキシコ弗で四十万になるその正銀を、英公使セント・ジョン・ニールに渡して先ず一段落を終りました。
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福翁自伝・攘夷論・始めて松木に逢うその時は既に文久四年となり、四年の何月かドウモ覚えない、寒い時ではなかった、夏か秋だと思いますが、或日肥後七左衛門が不意と私方に来て、松木が居るが、お前の処に来ても差支はないかと云う。私は実に驚いた。去年からモウ気になって居て、箕作と遇いさえすればその噂をして居たが、生きて居たか。「確かに生きて居る。「何処に居るか。「江戸に居る、兎に角に此処に来て宜いか。「宜いとも、大宜しだ。何も憚ることはない、少しも構わない、直ぐに逢いたいと云うと、その翌日松木が出て来た。誠に冥土の人に遭たような気がして、ソレカラいろ/\な話を聞て、清水と一緒になったと云うことも分れば何も箇も分て仕舞た。その時、私は新銭座に居ましたが、マア久振りで飲食を共にして、何処に居るかと聞けば、白銀台町に曹某と云う医者がある、その家は寺島の内君の里なので、その縁で曹の家に潜んで居ると云う。その日は先ずその儘分れて、夫れから私は直ぐに箕作の処に事の次第を云て遣て、箕作も直ぐその翌日出て来て両人同道して白銀の曹の家に行き、三友団座昼から晩までいろ/\な事を話すその中に、例の麑島戦争の話などもあって、その戦争の事に就てはマダ/″\いろ/\面白い事があるけれども、長くなるから此処で之を略し、扨寺島の身の上は如何だと云うに、薩摩の方は大抵是れで宜しいがマダ幕府の意向が分らない、けれども是れとても別段に幕府の罪人でもないから爾う恐れる事もない訳け。ソコで寺島は何をして喰て居るかと聞けば、今は本藩の飜訳などして居ると云う。それこれの話の中に寺島が云うには、モウ/\鉄砲は嫌だ/\、今でも乃公は鉄砲の音がドーンと鳴ると頭の中がズーンとして来る、モウ嫌だぜ/\、乃公は思い出しても身がブル/\ッとする、夫れから又その船の火薬庫に導火を点けるときは随分気味の悪い話だった、だが命拾いをしたその時、懐中に金が二十五両あったからその金を持て上陸したと云う。いろ/\の話の中に英人が薩摩湾に碇泊中菓物が欲しいと云うと、薩摩人が之を進上する風をしてその機に乗じて斬込もうとして出来なかったと云うような種々様々な話がありますが、それはマア止めにして錨の話。
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福翁自伝・攘夷論・松木、五代、埼玉郡に潜む(2)清水は昨夜から待て居るので万事の都合宜く、その船宿に二晩窃に泊て、夫れから清水の故郷武州埼玉郡羽生村まで二人を連れて来て、其処も何だか気味が悪いと云うので、又その清水の親類で奈良村に吉田一右衛門と云う人がある、その別荘に移して、此処は極淋しい処で見付かるような気遣いはないと安心して二人とも収め込んで仕舞い、五代はその後五、六ヶ月して窃に長崎の方に行き、松木は凡そ一年ばかりも其処に居る中に、本藩の方でも松木の事を心頭に掛けてその所在を探索し、大久保、岩下、重野を始めとして、江戸の薩州屋敷には肥後七左衛門、南部弥八など云う人が様々周旋の末、これは清水卯三郎が知て居はしないかと思い付て、清水の処に尋ねに来た。所が清水はドウも怖くて云われない、不意と捕まえられて首を斬られるのではなかろうかと思て真実が吐かれない。一応は唯知らぬと答えたれども、薩摩の方では中々疑て居る様子。爾うかと思うと時としては幕府の方からも清水の家に尋ねに来る。ソコで清水も当惑して、如何しようとも考えが付かない。殺さないなら早く出して遣りたいが、殺すような事なら今まで助けて置たものだから出したくないと、自分の思案に余て、夫れから江戸の洋学の大家川本幸民先生は松木の恩師であるから、この大先生の意見に任せようと思て相談に行た所が、先生の説に、「ソリャ出すが宜かろう、薩藩人が爾う云うなら有のまゝに明して渡して遣るが宜かろう、マサカ殺しもしなかろうと云うので、ソコで始めて決断して清水の方から薩人に通知して、実は初めから何も斯も自分が世話をした事で一切知て居る、早速御引渡し申すが、只約束は決して本人を殺さぬようにと念を押して、ソコデ松木が始めて薩人に面会して、この時から松木弘安を改めて寺島陶蔵と化けたのです。右の一条は薩州の方でも甚だ秘密にして、事実を知て居る者は藩中に唯七人しかないと清水が聞たそうだが、その七人とは多分大久保、岩下なぞでしょう。
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