福翁自伝 / 攘夷論・松木、五代、英艦に投ず
それは扨置き茲に薩摩の船を二艘此方に引張て来ると云う時に、その船長の松木弘安(後に寺嶋陶蔵又後に宗則)、五代才助(後に五代友厚)の両人が、船奉行と云う名義で云わば船長である。ソコで英の軍艦が二艘の船を引張て来ようと云うその時に、乗込の水夫などは其処から上陸させたが、船長二人だけは英艦の方に投じた。投じたけれども自分の船から出るときに、実は松木と五代と申し談じて窃にその船の火薬車に導火を点けて置たから、間もなく船は二艘とも焼けて仕舞た。夫れは夫れとして、扨松木に五代と云うものは捕虜でもなければ御客でもない、何しろ英の軍艦に乗込んで横浜に来たに違はない。その事は横浜の新聞紙にも出て居たのであるが、ソレ切り少しも消息が分らない。私はその前年松木と欧羅巴に一緒に行たのみならず、以前から私と箕作と松木と云うものは甚だ親しい朋友の間柄で、ソコで松木が英船に乗たと云うが如何したろうかと只その噂をするばかりで尋ねる所もない。英人が若しこの両人を薩摩の方へ還せば、ソリャもう若武者共が直ぐに殺すに極て居る。然ればと云て之を幕府の方に渡せば、殺さぬまでもマア嫌疑の筋があるとか取調べる廉があるとか云て取敢えず牢には入れるだろう。所が今日まで薩摩に還したと云う沙汰もなければ、幕府に引渡したと云う様子もない。如何したろうか、如何にも不審な事じゃと唯箕作と私と始終その話をして居た。所が凡そこの事が済んで一年ばかり経てから、不意とその松木を見付け出したこそ不思議の因縁である。
書き下し
それは扨置き茲に薩摩の船を二艘此方に引張て来ると云う時に、その船長の松木弘安(後に寺嶋陶蔵又後に宗則)、五代才助(後に五代友厚)の両人が、船奉行と云う名義で云わば船長である。ソコで英の軍艦が二艘の船を引張て来ようと云うその時に、乗込の水夫などは其処から上陸させたが、船長二人だけは英艦の方に投じた。投じたけれども自分の船から出るときに、実は松木と五代と申し談じて窃にその船の火薬車に導火を点けて置たから、間もなく船は二艘とも焼けて仕舞た。夫れは夫れとして、扨松木に五代と云うものは捕虜でもなければ御客でもない、何しろ英の軍艦に乗込んで横浜に来たに違はない。その事は横浜の新聞紙にも出て居たのであるが、ソレ切り少しも消息が分らない。私はその前年松木と欧羅巴に一緒に行たのみならず、以前から私と箕作と松木と云うものは甚だ親しい朋友の間柄で、ソコで松木が英船に乗たと云うが如何したろうかと只その噂をするばかりで尋ねる所もない。英人が若しこの両人を薩摩の方へ還せば、ソリャもう若武者共が直ぐに殺すに極て居る。然ればと云て之を幕府の方に渡せば、殺さぬまでもマア嫌疑の筋があるとか取調べる廉があるとか云て取敢えず牢には入れるだろう。所が今日まで薩摩に還したと云う沙汰もなければ、幕府に引渡したと云う様子もない。如何したろうか、如何にも不審な事じゃと唯箕作と私と始終その話をして居た。所が凡そこの事が済んで一年ばかり経てから、不意とその松木を見付け出したこそ不思議の因縁である。
現代語訳
それはさておき、ここで薩摩の船を二艘こちらに引っ張ってくるという時に、その船の船長の松木弘安(後に寺島陶蔵、また後に宗則)と五代才助(後に五代友厚)の二人が、船奉行という名義で、いわば船長です。そこでイギリスの軍艦が二艘の船を引っ張ってこようというその時に、乗り組みの水夫などはそこから上陸させましたが、船長二人だけはイギリス艦の方に身を投じました。投じたけれども、自分の船から出るときに、実は松木と五代が申し合わせて、ひそかにその船の火薬庫に導火線をつけておいたので、間もなく船は二艘とも焼けてしまいました。それはそれとして、さて松木と五代という者は、捕虜でもなければ客でもなく、とにかくイギリスの軍艦に乗り込んで横浜に来たに違いありません。そのことは横浜の新聞にも出ていたのですが、それきり少しも消息がわかりません。私は前年に松木とヨーロッパに一緒に行ったばかりでなく、以前から私と箕作と松木とは非常に親しい朋友の間柄で、そこで松木がイギリスの船に乗ったというが、どうしたろうかと、ただその噂をするばかりで、尋ねる所もありません。イギリス人がもしこの二人を薩摩の方へ返せば、それはもう若武者どもがすぐに殺すに決まっています。かといってこれを幕府の方に渡せば、殺さないまでも、まあ嫌疑の筋があるとか、取り調べることがあるとか言って、とりあえず牢には入れるでしょう。ところが今日まで薩摩に返したという話もなく、幕府に引き渡したという様子もありません。どうしたろうか、いかにも不審なことだ、とただ箕作と私とが始終その話をしていました。ところがおよそこの事が済んでから一年ばかり経って、不意にその松木を見つけ出したことこそ、不思議な因縁です。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・攘夷論・松木、五代、埼玉郡に潜む(1)扨夫れから私の気になる松木、即ち寺島の話は斯う云う次第である。松木、五代が薩摩の船から英の軍艦に乗移た所が、清水が居たので松木も驚いた。清水と云う男は以前江戸にて英書の不審を松木に聞て居たこともある至極懇意な間柄で、その清水が英の軍艦に居るから松木の驚くも無理はない。「イヤ如何して此処に居るか。「お前さんは如何して又此処に来たと云うような訳けで、大変好都合であった。ソコで横浜に来たけれども、この儘に何時迄もこの船の中に居られるものでない。マア如何かして上陸したい、と云うその事に付ては清水卯三郎が一切引受ける。それは松木と五代は極々日蔭者で、青天白日の身と云うのは清水一人、そこで清水が先ず横浜に上て、夫れから亜米利加人のヴエンリートと云う人にその話をした所が、如何でも周旋しよう、兎に角に艀船に乗て神奈川の方に上る趣向に為よう、その船も何も世話をして遣ろうと云うことになった。所でアドミラルが如何云うかソレに聞て見なければならぬので、アドミラルにその事を話すと至極寛大で、上陸差支なしと云うので、ソレカラ一切万事、清水とヴエンリートと諜し合せて、落人両人の者は夜分窃にその艀船に乗り移り、神奈川以東の海岸から上る積りに用意した所が、その時には横浜から江戸に来る街道一町か二町目毎に今の巡査交番所見たようなものがずっと建て居て、一人でも径しいものは通行を咎めると云うことになって居るから、なか/\大小などを挟して行かれるものでない。ソコで大小も陣笠も一切の物はヴエンリートの家に預けて、丸で船頭か百姓のような風をして、小舟に乗込み、舟は段々東に下てとう/\羽根田の浜から上陸して、ソレカラ道中は忍び忍んで江戸に這入るとした所で、マダ幕府の探偵が甚だ恐ろしい。只の宿屋には泊られないから、江戸に這入たらば堀留の鈴木と云う船宿に清水が先へ行て待て居るから其処へ来いと云う約束がしてある。ソコで両人は夜中勝手も知れぬ海浜に上陸して、探り/″\に江戸の方に向て足を進める中に夜が明けて仕舞い、コリャ大変と夫れから駕籠に乗て面を隠して堀留の船宿に来たのがその翌日の昼であった。
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福翁自伝・攘夷論・始めて松木に逢うその時は既に文久四年となり、四年の何月かドウモ覚えない、寒い時ではなかった、夏か秋だと思いますが、或日肥後七左衛門が不意と私方に来て、松木が居るが、お前の処に来ても差支はないかと云う。私は実に驚いた。去年からモウ気になって居て、箕作と遇いさえすればその噂をして居たが、生きて居たか。「確かに生きて居る。「何処に居るか。「江戸に居る、兎に角に此処に来て宜いか。「宜いとも、大宜しだ。何も憚ることはない、少しも構わない、直ぐに逢いたいと云うと、その翌日松木が出て来た。誠に冥土の人に遭たような気がして、ソレカラいろ/\な話を聞て、清水と一緒になったと云うことも分れば何も箇も分て仕舞た。その時、私は新銭座に居ましたが、マア久振りで飲食を共にして、何処に居るかと聞けば、白銀台町に曹某と云う医者がある、その家は寺島の内君の里なので、その縁で曹の家に潜んで居ると云う。その日は先ずその儘分れて、夫れから私は直ぐに箕作の処に事の次第を云て遣て、箕作も直ぐその翌日出て来て両人同道して白銀の曹の家に行き、三友団座昼から晩までいろ/\な事を話すその中に、例の麑島戦争の話などもあって、その戦争の事に就てはマダ/″\いろ/\面白い事があるけれども、長くなるから此処で之を略し、扨寺島の身の上は如何だと云うに、薩摩の方は大抵是れで宜しいがマダ幕府の意向が分らない、けれども是れとても別段に幕府の罪人でもないから爾う恐れる事もない訳け。ソコで寺島は何をして喰て居るかと聞けば、今は本藩の飜訳などして居ると云う。それこれの話の中に寺島が云うには、モウ/\鉄砲は嫌だ/\、今でも乃公は鉄砲の音がドーンと鳴ると頭の中がズーンとして来る、モウ嫌だぜ/\、乃公は思い出しても身がブル/\ッとする、夫れから又その船の火薬庫に導火を点けるときは随分気味の悪い話だった、だが命拾いをしたその時、懐中に金が二十五両あったからその金を持て上陸したと云う。いろ/\の話の中に英人が薩摩湾に碇泊中菓物が欲しいと云うと、薩摩人が之を進上する風をしてその機に乗じて斬込もうとして出来なかったと云うような種々様々な話がありますが、それはマア止めにして錨の話。
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福翁自伝・攘夷論・松木、五代、埼玉郡に潜む(2)清水は昨夜から待て居るので万事の都合宜く、その船宿に二晩窃に泊て、夫れから清水の故郷武州埼玉郡羽生村まで二人を連れて来て、其処も何だか気味が悪いと云うので、又その清水の親類で奈良村に吉田一右衛門と云う人がある、その別荘に移して、此処は極淋しい処で見付かるような気遣いはないと安心して二人とも収め込んで仕舞い、五代はその後五、六ヶ月して窃に長崎の方に行き、松木は凡そ一年ばかりも其処に居る中に、本藩の方でも松木の事を心頭に掛けてその所在を探索し、大久保、岩下、重野を始めとして、江戸の薩州屋敷には肥後七左衛門、南部弥八など云う人が様々周旋の末、これは清水卯三郎が知て居はしないかと思い付て、清水の処に尋ねに来た。所が清水はドウも怖くて云われない、不意と捕まえられて首を斬られるのではなかろうかと思て真実が吐かれない。一応は唯知らぬと答えたれども、薩摩の方では中々疑て居る様子。爾うかと思うと時としては幕府の方からも清水の家に尋ねに来る。ソコで清水も当惑して、如何しようとも考えが付かない。殺さないなら早く出して遣りたいが、殺すような事なら今まで助けて置たものだから出したくないと、自分の思案に余て、夫れから江戸の洋学の大家川本幸民先生は松木の恩師であるから、この大先生の意見に任せようと思て相談に行た所が、先生の説に、「ソリャ出すが宜かろう、薩藩人が爾う云うなら有のまゝに明して渡して遣るが宜かろう、マサカ殺しもしなかろうと云うので、ソコで始めて決断して清水の方から薩人に通知して、実は初めから何も斯も自分が世話をした事で一切知て居る、早速御引渡し申すが、只約束は決して本人を殺さぬようにと念を押して、ソコデ松木が始めて薩人に面会して、この時から松木弘安を改めて寺島陶蔵と化けたのです。右の一条は薩州の方でも甚だ秘密にして、事実を知て居る者は藩中に唯七人しかないと清水が聞たそうだが、その七人とは多分大久保、岩下なぞでしょう。
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福翁自伝・攘夷論・鹿児島湾の戦争幕府に要求した十万磅の償金は五月十日に片付て、夫れから今度はその英軍艦が鹿児島に行て、被害者遺族の手当として二万五千磅を要求し、且つその罪人を英国人の見て居る所で死刑に処せよと云う掛合の為めに、六艘の軍艦は鹿児島湾に廻て錨を卸した。スルト薩摩藩から直ちに来意訪問の使者が来る。英の旗艦の水師提督はクーパー、司令長官はウ※ルモット、船長はジヨスリングと云う人で、書翰を薩摩の役人に渡し、応否の返答如何と待て居る。所がなか/\容易な事に返辞が出来ない。ソレコレする中に薩摩に西洋形の船、即ち西洋から薩摩藩に買取た船が二艘あるその二艘の船を談判の抵当に取ると云う趣意で、桜島の側に碇泊してあった二艘の船を英の軍艦が引張て来ると云う手詰の場合になった。スルト陸の方からこの様子を見ていよ/\発砲し始めて、陸から発砲すれば海からも発砲して、ドン/″\大合戦になった、と云うのが丁度文久三年五月下旬、何でも二十八、九日頃である。その時に英の旗艦はマダ陸からは発砲しないことゝ思て錨を挙げずに居た所が、俄に陸の方で撃始めたものだから、サア錨を上げようとすると生憎その時は大変な暴風、加うるに海が最も深いからドウも錨を上げる遑がないと云うので、錨の鎖を切て夫れから運動するようになった。是れが例の英吉利の軍艦の錨が薩摩の手に入た由来である。ソコで陸から打つ鉄砲もなか/\エライ、専ら旗艦を狙うて命中するものも多いその中に、大きな丸い破裂弾が旨く発して怪我人が出来た中に、司令長官と甲比丹と二人の将官が即死して船中の騒動、又船から陸に向ての砲撃もなか/\劇しく、海岸の建物は大抵焼払うて是れも容易ならぬ損害であったが、詰る所、勝負なしの戦争と云うのは、薩摩の方は英吉利の軍艦を撃て二人の将官まで殺したけれどもその船を如何することも出来ない、又軍艦の方でも陸を焼払うて随分荒したことは荒したけれども上陸することは出来ない、双方共に勝ちも負けもせずに、英の軍艦が横浜に帰たのは六月十日前の頃であったが、その時に面白い話がある。戦争の済んだ後で彼の旗艦に命中した破裂弾の砕片を見て、船中の英人等が頻りに語り合うに、「こんな弾丸が日本で出来る訳はない。イヤ能く見れば露西亜製のものじゃ。露西亜から日本に送ったのであろうなどゝ評議区々なりしと云う。当時クリミヤ戦争の当分ではあるし、元来英吉利と露西亜との間柄は犬と猿のようで、相互に色々な猜疑心がある。今日に至るまでも仲は好くないように見える。
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福翁自伝・攘夷論・薩人、英人と談判松木の話は次にして置て、横浜に英吉利の軍艦が帰て来た跡で、薩摩から談判の為めに江戸に人が出て来た。その江戸に人の出て来たと云うのは、岩下佐治右衛門、重野孝之丞(後に安繹)、その外に黒幕見たような役目を帯びて来たのが大久保市蔵(後に利通)、その三人が出て来た処で、第一番に薩摩の望む所は兎にも角にもこの戦争を暫く延引して貰いたいと云う注文なれども、その周旋を誰に頼むと云う手掛りもなく当惑の折柄、こゝに一人の人があるその一人と云うのは清水卯三郎(瑞穂屋卯三郎)と云う人で、この人は商人ではあるけれども英書も少し読み西洋の事に付ては至極熱心、先ず当時に於てはその身分に不似合な有志者である。初め英艦が薩摩に行こうと云うときに、若し薩摩の方から日本文の書翰を出されたときには之を読むに困る。通弁にはアレキサンドル・シーボルトがあるから差支ないけれども、日本文の書翰を颯々と読む人がない、と云うので英人から同行を頼まれた。清水は平生勇気もあり随分そんな事の好きな人で、夫れは面白い行て見ようと容易承諾し、横浜税関の免状を申受けて旗艦に乗込み、先方に着して親しく戦争をも見物したその縁があるので、今度薩州の人が江戸に来て英人との談判に付き、黒幕の大久保市蔵は取敢えず清本卯三郎を頼み、兎に角にこの戦争を暫く延引して貰いたいと云う事を、在横浜の英公使ジョン・ニールに掛合うことにした。ソコで清水は大久保の依託を受けて横浜の英公使館に出掛けてその話を申込んだ所が、取次の者の言うに、斯る重大事件を談ずるに商人などでは不都合なり、モット大きな人が来たら宜かろうと云うから、清水は之を押し返し、人に大小軽重はない、談判の委任を受けて居れば沢山だ、夫れでも拙者と話は出来ないかと少しく理屈を云た所が、そう云う訳けなら直ぐに遇うと云うので、夫れから公使に面会して戦争中止の事を話掛けると、なか/\聞きそうにも為ない。イヤもう既に印度洋から軍艦を増発して何千の兵士は唯今支度最中、然るにこの戦争の時期を延して待つなどゝは謂れのない話だ云々と、思うさま威嚇して聞きそうな顔色がない。ソコで清水はその挨拶を承って薩人に報告すると、重野が、迚もこりゃ六かしそうだ、兎に角に自分達が自から談判して見ようと云て、遂に薩英談判会を開き、種々様々問答の末、とう/\要求通りの償金を払う事になり、高は二万五千磅、時の相場にして凡そ七万両ぐらいに当り、その七万両の金は内実幕府から借用して、そうして島津薩摩守の名義では払われないと云うので、分家の島津淡路守の名を以て金を渡すことにして、且つ又リチャルドソンを殺した罪人は何分にも何処にか逃げて分らないから、若し分たらば死刑と云うことで以て事が収まった。その談判の席には大久保市蔵は出ない。岩下と重野の両人、それから幕府の外国方から鵜飼弥市、監察方から斎藤金吾と云う人が立会い、いよ/\書面を取換して事のすっかり収まったのが、文久三年の十一月の朔日か二日頃であった。
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福翁自伝・攘夷論・英艦来る夫れから攘夷論と云うものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂公の上洛となり、続いて御親発として長州征伐に出掛けると云うような事になって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、英吉利の軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の侍が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人は只懇親を以て交ろうと思うて是れまでも有らん限り柔かな手段ばかりを執て居た、然るに日本の国民が乱暴をして剰え人を殺した、如何にしてもその責は日本政府に在て免るべからざる罪であるから、この後二十日を期して決答せよと云う次第は、政府から十万磅の償金を取り、尚お二万五千磅は薩摩の大名から取り、その上罪人を召捕て眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文が来た。その時に私共が飜訳する役目に当て居るので、夜中に呼びに来て、赤坂に住で居る外国奉行松平石見守の宅に行たのが、私と杉田玄端、高畑五郎、その三人で出掛けて行て、夜の明けるまで飜訳したが、是れはマアどうなる事だろうか、大変な事だと窃に心配した所が、その翌々二十一日には将軍が危急存亡の大事を眼前に見ながら其れを棄てゝ置て上洛して仕舞うた。爾うするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、所がもう二十日待て呉れろ、ソレは待つの待たないのと捫着の末、どうやら斯うやら待て貰うことになった。所でいよ/\償金を払うか払わないかと云う幕府の評議がなか/\決しない。その時の騒動と云うものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争がある抔と云う評判、その二十日の期間も既に過去て、又十日と云うことになって、始終十日と二十日の期限を以て次第々々に返辞を延して行く。私はその時に新銭座に住で居たから、迚もこりゃ戦争になりそうだ、なればどうも逃げるより外に仕様がないと、ソロ/\迯仕度をすると云うような事で、ソコで愈よ期日も差迫て、今度はもう掛値なし、一日も負からないと云う日になった、と云うのを私は政府の飜訳局に居て詳に知て居るから尚お堪らない。
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