福翁自伝 / 攘夷論・下ノ関の攘夷
夫れから世の中はもう引続いて攘夷論ばかり、長州の下ノ関では只和蘭船を撃つばかりでなく、その後亜米利加の軍艦にも発砲すれば、英吉利の軍艦にも発砲すると云うような訳けで、到頭その尻と云うものは英仏蘭米四ヶ国から幕府に捩込んで、三百万円の償金を出せと云うことになって、捫着の末、遂にその償金を払うことになった。けれども国内の攘夷論はなか/\収まりが付かないで、到頭仕舞には鎖国攘夷と云うことを云わずに新に鎖港と云う名を案じ出して、ソレで幕府から態々池田播磨守と云う外国奉行を使節として仏蘭西まで鎖港の談判に遣わすと云うような騒ぎで、一切滅茶苦茶、暗殺は殆んど毎日の如く、実に恐ろしい世の中になって仕舞た。爾う云う時勢であるから、私は唯一身を慎んでドウでもして災をれさえすれば宜いと云うことに心掛けて居ました。
書き下し
夫れから世の中はもう引続いて攘夷論ばかり、長州の下ノ関では只和蘭船を撃つばかりでなく、その後亜米利加の軍艦にも発砲すれば、英吉利の軍艦にも発砲すると云うような訳けで、到頭その尻と云うものは英仏蘭米四ヶ国から幕府に捩込んで、三百万円の償金を出せと云うことになって、捫着の末、遂にその償金を払うことになった。けれども国内の攘夷論はなか/\収まりが付かないで、到頭仕舞には鎖国攘夷と云うことを云わずに新に鎖港と云う名を案じ出して、ソレで幕府から態々池田播磨守と云う外国奉行を使節として仏蘭西まで鎖港の談判に遣わすと云うような騒ぎで、一切滅茶苦茶、暗殺は殆んど毎日の如く、実に恐ろしい世の中になって仕舞た。爾う云う時勢であるから、私は唯一身を慎んでドウでもして災をれさえすれば宜いと云うことに心掛けて居ました。
現代語訳
それから世の中はもう引き続いて攘夷論ばかり。長州の下関ではただオランダ船を撃つばかりでなく、その後アメリカの軍艦にも発砲し、イギリスの軍艦にも発砲するというありさまで、とうとうその尻拭いとして、英仏蘭米の四か国から幕府に迫って、三百万円の償金を出せということになり、もめたすえ、ついにその償金を払うことになりました。けれども国内の攘夷論はなかなか収まりがつかず、とうとうしまいには、鎖国攘夷ということを言わず、新たに鎖港という名を考え出して、それで幕府からわざわざ池田播磨守という外国奉行を使節としてフランスまで鎖港の談判に派遣するという騒ぎで、一切めちゃくちゃ、暗殺はほとんど毎日のようで、実に恐ろしい世の中になってしまいました。そういう時勢であるから、私はただ一身を慎んで、どうにかして災いを避けさえすればよいということに心がけていました。
解説
この章句が説くこと
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