福翁自伝 / 攘夷論・攘夷論の鋒先洋学者に向う(2)
夫れから同じ長州の藩士で東条礼蔵と云う人も矢張り私と同僚飜訳方で、小石川の素と蜀山人の住居と云う家に住で居た。所がその家に所謂浮浪の徒が暴込んで、東条は裏口から逃出して漸と助ったと云うような訳けで、いよ/\洋学者の身が甚だ危くなって来て油断がならぬ。左ればとて自分の思う所、為す仕事は罷められるものじゃない。夫れから私は構わない、構おうと云た所が構われもせず、罷めようと云た所が罷められる訳けでない、マア/\言語挙動を柔かにして決して人に逆わないように、社会の利害と云うような事は先ず気の知れない人には云わないようにして、慎める丈け自分の身を慎んで、ソレと同時に私は専ら著書飜訳の事を始めた。その著訳の一条に就ては今コヽで別段に云う事はない、私の今年開版した福澤全集の緒言に詳に書てあるから是れは見合せるとして、その著訳事業中、即ち攘夷論全盛の時代に、洋学生徒の数は次第々々に殖えるからその教授法に力を尽し、又家の活計は幕府に雇われて扶持米を貰うてソレで結構暮らせるから、世間の事には頓と頓着せず、怖い半分、面白い半分に歳月を送て居る。或時可笑い事があった。私が新銭座に一寸住居の時(新銭座塾に非ず)、誰方か知らないが御目に掛りたいと云てお侍が参りましたと下女が取次するから、「ドンナ人だと聞くと、「大きな人で、眼が片眼で、長い刀を挟して居ますと云うから、コリャ物騒な奴だ、名は何と云う。「名はお尋ね申したが、お目に掛れば分ると云て被仰しゃいません==どうも気味の悪い奴だと思て、夫れから私は窃と覗いて見ると、何でもない、筑前の医学生で原田水山、緒方の塾に一緒に居た親友だ。思わず罵た。この馬鹿野郎、貴様は何だ、何ぜ名を云て呉れんか、乃公は怖くて堪らなかったと云て、奥に通して色々世間話をして、共々に大笑した事がある。爾う云う世の中で洋学者もつまらぬ事に驚かされて居ました。
新字:夫れから同じ長州の藩士で東条礼蔵と云う人も矢張り私と同僚翻訳方で、小石川の素と蜀山人の住居と云う家に住で居た。所がその家に所謂浮浪の徒が暴込んで、東条は裏口から逃出して漸と助ったと云うような訳けで、いよ/\洋学者の身が甚だ危くなって来て油断がならぬ。左ればとて自分の思う所、為す仕事は罷められるものじゃない。夫れから私は構わない、構おうと云た所が構われもせず、罷めようと云た所が罷められる訳けでない、マア/\言語挙動を柔かにして決して人に逆わないように、社会の利害と云うような事は先ず気の知れない人には云わないようにして、慎める丈け自分の身を慎んで、ソレと同時に私は専ら著書翻訳の事を始めた。その著訳の一条に就ては今コヽで別段に云う事はない、私の今年開版した福沢全集の緒言に詳に書てあるから是れは見合せるとして、その著訳事業中、即ち攘夷論全盛の時代に、洋学生徒の数は次第々々に殖えるからその教授法に力を尽し、又家の活計は幕府に雇われて扶持米を貰うてソレで結構暮らせるから、世間の事には頓と頓着せず、怖い半分、面白い半分に歳月を送て居る。或時可笑い事があった。私が新銭座に一寸住居の時(新銭座塾に非ず)、誰方か知らないが御目に掛りたいと云てお侍が参りましたと下女が取次するから、「ドンナ人だと聞くと、「大きな人で、眼が片眼で、長い刀を挟して居ますと云うから、コリャ物騒な奴だ、名は何と云う。「名はお尋ね申したが、お目に掛れば分ると云て被仰しゃいません==どうも気味の悪い奴だと思て、夫れから私は窃と覗いて見ると、何でもない、筑前の医学生で原田水山、緒方の塾に一緒に居た親友だ。思わず罵た。この馬鹿野郎、貴様は何だ、何ぜ名を云て呉れんか、乃公は怖くて堪らなかったと云て、奥に通して色々世間話をして、共々に大笑した事がある。爾う云う世の中で洋学者もつまらぬ事に驚かされて居ました。
書き下し
夫れから同じ長州の藩士で東条礼蔵と云う人も矢張り私と同僚飜訳方で、小石川の素と蜀山人の住居と云う家に住で居た。所がその家に所謂浮浪の徒が暴込んで、東条は裏口から逃出して漸と助ったと云うような訳けで、いよ/\洋学者の身が甚だ危くなって来て油断がならぬ。左ればとて自分の思う所、為す仕事は罷められるものじゃない。夫れから私は構わない、構おうと云た所が構われもせず、罷めようと云た所が罷められる訳けでない、マア/\言語挙動を柔かにして決して人に逆わないように、社会の利害と云うような事は先ず気の知れない人には云わないようにして、慎める丈け自分の身を慎んで、ソレと同時に私は専ら著書飜訳の事を始めた。その著訳の一条に就ては今コヽで別段に云う事はない、私の今年開版した福澤全集の緒言に詳に書てあるから是れは見合せるとして、その著訳事業中、即ち攘夷論全盛の時代に、洋学生徒の数は次第々々に殖えるからその教授法に力を尽し、又家の活計は幕府に雇われて扶持米を貰うてソレで結構暮らせるから、世間の事には頓と頓着せず、怖い半分、面白い半分に歳月を送て居る。或時可笑い事があった。私が新銭座に一寸住居の時(新銭座塾に非ず)、誰方か知らないが御目に掛りたいと云てお侍が参りましたと下女が取次するから、「ドンナ人だと聞くと、「大きな人で、眼が片眼で、長い刀を挟して居ますと云うから、コリャ物騒な奴だ、名は何と云う。「名はお尋ね申したが、お目に掛れば分ると云て被仰しゃいません==どうも気味の悪い奴だと思て、夫れから私は窃と覗いて見ると、何でもない、筑前の医学生で原田水山、緒方の塾に一緒に居た親友だ。思わず罵た。この馬鹿野郎、貴様は何だ、何ぜ名を云て呉れんか、乃公は怖くて堪らなかったと云て、奥に通して色々世間話をして、共々に大笑した事がある。爾う云う世の中で洋学者もつまらぬ事に驚かされて居ました。
現代語訳
それから同じ長州の藩士で東条礼蔵という人も、やはり私と同僚の翻訳方で、小石川のもと蜀山人の住居という家に住んでいました。ところがその家にいわゆる浮浪の徒が暴れ込み、東条は裏口から逃げ出してようやく助かったというわけで、いよいよ洋学者の身がきわめて危うくなってきて、油断がなりません。だからといって、自分の思うところ、する仕事はやめられるものではありません。それで私は、構わない、構おうといっても構われもせず、やめようといってもやめられるわけでもないから、まあまあ言葉も振る舞いも柔らかにして、決して人に逆らわないようにし、社会の利害といったようなことは気心の知れない人にはまず言わないようにし、慎めるだけ自分の身を慎むと同時に、私はもっぱら著書や翻訳の仕事を始めました。その著訳のことについては、今ここで特に言うことはありません。私が今年出版した『福澤全集』の緒言に詳しく書いてあるので、それは見合わせるとして、その著訳の事業中、つまり攘夷論全盛の時代に、洋学生徒の数はだんだん増えるので、その教授法に力を尽くし、また家の暮らしは幕府に雇われて扶持米をもらい、それで結構暮らせるので、世間のことにはまったく頓着せず、怖さ半分、面白さ半分で年月を送っていました。あるとき可笑しいことがありました。私が新銭座にちょっと住んでいた時(新銭座塾ではありません)、どなたか知りませんが、お目にかかりたいといってお侍が来ましたと下女が取り次ぐので、「どんな人だ」と聞くと、「大きな人で、目が片目で、長い刀を差しています」というので、これは物騒な奴だ、名は何というかと聞くと、「名は尋ねましたが、お目にかかればわかるといって、おっしゃいません」。どうも気味の悪い奴だと思って、私はそっとのぞいて見ると、何でもない、筑前の医学生で原田水山、緒方塾に一緒にいた親友でした。思わず怒鳴りました。この馬鹿野郎、貴様は何だ、どうして名を言ってくれないのか、俺は怖くてたまらなかったと言って、奥に通していろいろ世間話をして、一緒に大笑いしたことがあります。そういう世の中で、洋学者もつまらぬことに驚かされていました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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福翁自伝・攘夷論・攘夷論の鋒先洋学者に向う(1)井伊掃部頭はこの前殺されて、今度は老中の安藤対馬守が浪人に疵を付けられた。その乱暴者の一人が長州の屋敷に駈込んだとか何とか云う話を聞て、私はその時始めて心付いた、成るほど長州藩も矢張り攘夷の仲間に這入て居るのかと斯う思たことがある。兎にも角にも日本国中攘夷の真盛りでどうにも手の着けようがない。所で私の身にして見ると、是れまでは世間に攘夷論があると云う丈けの事で、自分の身に就て危いことは覚えなかった。大阪の塾に居る中に勿論暗殺などゝ云うことのあろう筈はない。又江戸に出て来たからとて怖い敵もなければ何でもないと計り思て居た所が、サア今度欧羅巴から帰て来たその上はなか/\爾うでない。段々喧しくなって、外国貿易をする商人が俄に店を片付けて仕舞うなどゝ云うような事で、浪人と名くる者が盛に出て来て、何処に居て何をして居るのか分らない。丁度今の壮士と云うようなもので、ヒョコ/\妙な処から出て来る。外国の貿易をする商人さえ店を仕舞うと云うのであるから、況して外国の書を読で欧羅巴の制度文物を夫れ是れと論ずるような者は、どうも彼輩は不埒な奴じゃ、畢竟彼奴等は虚言を吐て世の中を瞞着する売国奴だと云うような評判がソロ/\行れて来て、ソレから浪士の鋒先が洋学者の方に向いて来た。是れは誠に恐入た話で、何も私共は罪を犯した覚えはない。是れはマア何処まで小さくなれば免るゝかと云うと、幾ら小さくなっても免れない。到頭仕舞には洋書を読むことを罷めて仕舞うて攘夷論でも唱えたらば、ソレはお詫が済むだろうが、マサカそんな事も出来ない。此方が無頓着に思う事を遣ろうとすれば、浪人共は段々きつくなって来る。既に私共と同様幕府に雇われて居る飜訳方の中に手塚律蔵と云う人があって、その男が長州の屋敷に行て何か外国の話をしたら、屋敷の若者等が斬て仕舞うと云うので、手塚はドン/″\駈出す、若者等は刀を抜て追蒐る、手塚は一生懸命に逃げたけれども逃切れずに、寒い時だが日比谷外の濠の中へ飛込んで漸く助かった事もある。
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福翁自伝・暗殺の心配・床の下から逃げる積り・暗殺の歴史ソレに就ては色々面白い話がある。今この三田の屋敷の門を這入て右の方にある塾の家は、明治初年私の住居で、その普請をするとき、私は大工に命じて家の床を少し高くして、押入の処に揚板を造て置たと云うのは、若し例の奴等に踏込まれた時に、旨く逃げられゝば宜いが、逃げられなければ揚板から床の下に這入て其処から逃出そうと云う私の秘計で、今でも彼処の家は爾うなって居ましょう。 その大工に命ずる時に何故と云うことは云われない、又家内の者にも根ッから面白い話でないから何とも云うことが出来ぬ、詰り私独りの苦労で、実に馬鹿気た事ですが、夫れは差置き、私の見る処で、我開国以来世に行われた暗殺の歴史を申さんに、最初は唯新開国の人民が外国人を嫌うと云うまでの事で、深い意味はない。外国人は穢れた者だ、日本の地には足踏みもさせられぬと云うことが国民全体の気風で、その中に武家は双刀を腰にして気力もあるから、血気の若武者は折々外国人を暗打にしたこともある。併しその若武者も日本人を憎む訳けはないから、私などが仮令い時の洋学書生であっても災に罹る筈はない。大阪修業中は勿論、江戸に来ても当分は誠に安心、何も心配したことはない。例えば開国の初に、横浜で露西亜人の斬られたことなどは、唯その事変に驚くばかりで自分の身には何とも思わざりしに、その後間もなく外人嫌いの精神は俄に進歩して殺人の法が綿密になり、筋道が分り、区域が広くなり、之に加うるに政治上の意味をも調合して、万延元年、井伊大老の事変後は世上何となく殺気を催して、手塚律蔵、東条礼蔵は洋学者なるが故にとて長州人に襲撃せられ、塙二郎は国学者として不臣なりとて何者かに首を斬られ、江戸市中の唐物屋は外国品を売買して国の損害するとて苦しめらるゝと云うような風潮になって来ました。是れが即ち尊王攘夷の始りで、幕府が王室に対する法は多年来何も相替ることはなけれども、京都の御趣意は攘夷一天張りであるのに、然るに幕府の攘夷論は兎角因循姑息に流れて埒が明かぬ、即ち京都の御趣意に背くものである、尊王の大義を弁えぬものである、外国人に媚びるものである、と斯う云えば、その次には洋学者流を売国奴と云うのも無理はない。サア洋学者も怖くなって来た。殊に私などは同僚親友の手塚東条両人まで侵されたと云うのであるから、怖がらずには居られない。
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福翁自伝・雑記・暗殺の患は政治家の方に廻わる凡そ私共の暗殺を恐れたのは、前に申す通り文久二、三年から明治六、七年頃までのことでしたが、世間の風潮は妙なもので、新政府の組織が次第に整頓して、随て執政者の権力も重きを成して、自から威福の行われるようになると同時に、天下の耳目は政府の一方に集り、私の不平も公衆の苦情も何も蚊もその原因を政府の当局者に帰して、之に加うるに羨望嫉妬の念を以てして、今度は政府の役人達が狙われるようになって来て、洋学者の方は大に楽になりました。喰違に岩倉公襲撃の頃からソロ/\始まって、明治十一年、大久保内務卿の暗殺以来、毎度の兇変は皆政治上の意味を含んで居るから、云わば学者の方は御留主になって、政治家の為めには誠に気の毒で万々推察しますが、私共は人に羨まれる事がないから、先ず以て今日は安心と思います。
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福翁自伝・王政維新・著書飜訳一切独立又維新前後は私が著書飜訳を勉めた時代で、その著訳書の由来は福澤全集の緒言に記してあるから之を略しますが、元来私の著訳は真実私一人の発意で、他人の差図も受けねば他人に相談もせず、自分の思う通りに執筆して、時の漢学者は無論、朋友たる洋学者へ草稿を見せたこともなければ、況して序文題字など頼んだこともない。是れも余り殺風景で、実は当時の故老先生とか云う人に序文でも書かせた方が宜かったか知れないが、私は夫れが嫌いだ。ソンな事かた/″\で、私の著訳書は事実の如何に拘わらず古風な人の気に入る筈はない。ソレでもその書が殊更らに大に流行したのは、文明開国の勢に乗じたことでありましょう。
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福翁自伝・攘夷論・刀剣を売払うソコで私は只独りの身を慎むと同時に、是れはドウしたって刀は要らない、馬鹿々々しい、刀は売て仕舞えと決断して、私の処にはそんなに大小などは大層もありはしないが、ソレでも五本や十本はあったと思う、神明前の田中重兵衛と云う刀屋を呼で、悉く売払て仕舞た。けれどもその時分はマダ双刀を挟さなければならぬ時であるから、私の父の挟して居た小刀、即ちを着るとき挟す脇差の鞘を少し長くして刀に仕立て、夫れから神明前の金物屋で小刀を買て短刀作りに拵えて、唯印し丈けの脇差に挟すことにして、アトは残らず売払て、その代金は何でも二度に六、七十両請取たことは今でも覚えて居る。即ち家に伝わる長い脇差の刀に化けたのが一本、小刀で拵えた短い脇差が一本、それ切で外には何もない。そうして小さくなって居るばかり。私は少年の時から大阪の緒方の塾に居るときも、戯に居合を抜て、随分好きであったけれども、世の中に武芸の話が流行すると同時に、居合刀はすっかり奥に仕舞い込んで、刀なんぞは生れてから挟すばかりで抜たこともなければ抜く法も知らぬと云うような風をして、唯用心に用心して夜分は決して外に出ず、凡そ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の間と云うものは、夜分外出したことはない。その間の仕事は何だと云うと、唯著書飜訳にのみ屈託して歳月を送て居ました。
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福翁自伝・暗殺の心配・増田宗太郎に窺わる以上は維新前の事で、直に私の身に害を及ぼしたでもなし、唯無暗に私が怖く思たばかり、所謂世間の風声鶴唳に臆病心を起したのかも知れないが、維新後になっても忌な風聞は絶えず行われて、何分にも不安心のみか、歳月を経て後に聞けば、実際恐るべき事も毎度のことでした。頃は明治三年、私が豊前中津へ老母の迎いに参て、母と姪と両人を守護して東京に帰たことがあります。その時は中津滞留も左まで怖いとも思わず、先ず安心して居ましたが、数年の後に至て実際の話を聞けば、恐ろしいとも何とも、実に命拾いをしたような事です。私の再従弟に増田宗太部と云う男があります。この男は後に九州西南の役に賊軍に投じて城山で死に就た一種の人物で、世間にも名を知られて居ますが、私が中津に行たときはマダ年も若く、私より十三、四歳も下ですから、私は之を子供のように思い、且つ住居の家も近処で朝夕往来して交際は前年の通り、宗さん/\と云て親しくして居ましたが、元来この宗太郎の母は神官の家の妹で、その神官の倅即ち宗太郎の従兄に水戸学風の学者があって、宗太郎はその従兄を先生にして勉強したから中々エライ、その上に増田の家は年来堅固なる家風で、封建の武家としては一点も愧る所はない。宗太郎の実父は私の母の従兄ですから、私もその風采を知て居ますが、ソレハソレハ立派な侍と申して宜しい。この父母に養育せられた宗太郎が水戸学国学を勉強したとあれば、所謂尊攘家に違いはあるまい。ソコで私は今度中津に帰ても宗太郎をば乳臭の小児と思い、相替らず宗さん/\で待遇して居た処が、何ぞ料らん、この宗さんが胸に一物、恐ろしい事をたくらんで居て、そのニコ/\優しい顔をして私方に出入したのは全く探偵の為めであったと云う。扨探偵も届いたか、いよ/\今夜は福澤を片付けると云うので、忍び/\に動静を窺いに来た、田舎の事で外廻りの囲いもなければ戸締りもない、所が丁度その夜は私の処に客があって、その客は服部五郎兵衛と云う私の先進先生、至極磊落な人で、主客相対して酒を飲みながら談論は尽きぬ。その間宗太郎は外に立て居たが、十二時になっても寝そうにもしない、一時になっても寝そうにもしない、何時までも二人差向いで飲んで話をして居るので、余儀なくお罷めになったと云う。是れは私が大酒夜更しの功名ではない僥倖である。
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