福翁自伝 / 欧羅巴各国に行く・露国に止まることを勧む
夫れから或日の事で、その接待委員の一人が私の処に来て、一寸こちらに来て呉れろと云て、一間に私を連れて行た。何だと云て話をすると、私の一身上の事に及んで、お前はこの度使節に付て来たが、是れから先は日本に帰て何をする所存かソリャ勿論知らないが、お前は大層金持かと尋ねるから、「イヤ決して金持ではない、マア幾らか日本の政府の用をして居る、用をして居れば自らその報酬と云うものがあるから衣食の道に差支はないものだと、斯う私は答えた。所が接待委員の云うに、「日本の事だから我々に委しい事情の分る訳けはない、分りはしないけれども、どうも大体を考えて見た所で日本は小国だ、アヽ云う小さな国に居て男子の仕事の出来るものじゃない。ソレよりかお前はヒョイと茲に心を変えてこの露西亜に止まらないかと云うから、私は答えて、「自分の身は使節に随従して来て居るものであるから、爾う勝手に止まられる訳けのものじゃないと有りのまゝに云うと、「イヤ夫れは造作もない話だ、お前さえ今から決断して隠れる気になれば直ぐに私が隠して遣る。どうせ使節は長く此処に居る気遣はない、間もなく帰る。帰ればソレ切だ。そうしてお前は露西亜人になって仕舞いなさい。この露西亜には外国の人は幾らも来て居る、就中独逸の人などは大変に多い、その外和蘭人も来て居れば英吉利人も来て居る。だから日本人が来て居たからと云て何も珍しい事はない、是非此処に止まれ。いよ/\止ると決すれば、その上はどんな仕事でも為ようと思えば面白い愉快な仕事は沢山ある。衣食住の安心は勿論、随分金持になる事も出来るから止まれと懇に説いたのは、決して尋常の戯れでない。チャント一間の中に差向いで真面目になって話したのである。けれども私がその時に止まると云う必要もなければ、又止まろうと云う気もない。宜い加減に返答をして置くと、その後二、三度同じような事を云て来たが、固より話は纏らず。その時に私は大に心付きました、成程露西亜は欧羅巴の中で一種風俗の変た国だと云うが、ソレに違いない。例えば今度英仏にも暫く滞留し、又前年亜米利加に行たときにも、人に逢いさえすれば日本に行こう/\と云う者が多い。何か日本に仕事はないか、どうかして一緒に連れて行て呉れないかと、ソリャもう行く先々でうるさいように云う者はあれども、遂ぞ止まれと云うことを只の一度も云た人はない。露西亜に来て始めて止まれと云う話を聞た、その趣を推察すれば、決して是れは商売上の話ではない、如何しても政治上又国交際上の意味を含んで居るに違いない。こりゃどうも気の知れない国だ、言葉に意味を含んで止まれと云う所を見れば、或は陰険の手段を施す為めではないか知らんと思うた事があった。けれどもそんな事を聞たと云うことを同行の人に語ることも出来ない、語ればどんな嫌疑を蒙るまいものでもないから、その時に語らぬのは勿論、日本に帰て来ても人に云わずに黙て居ました。或は爾う云うことを云われたのは私一人でなく、同行の者も同じ事を云われて、私と同じ考えで黙て居た者があったかも知れない。兎に角に気の知れぬ国だと思われる。
書き下し
夫れから或日の事で、その接待委員の一人が私の処に来て、一寸こちらに来て呉れろと云て、一間に私を連れて行た。何だと云て話をすると、私の一身上の事に及んで、お前はこの度使節に付て来たが、是れから先は日本に帰て何をする所存かソリャ勿論知らないが、お前は大層金持かと尋ねるから、「イヤ決して金持ではない、マア幾らか日本の政府の用をして居る、用をして居れば自らその報酬と云うものがあるから衣食の道に差支はないものだと、斯う私は答えた。所が接待委員の云うに、「日本の事だから我々に委しい事情の分る訳けはない、分りはしないけれども、どうも大体を考えて見た所で日本は小国だ、アヽ云う小さな国に居て男子の仕事の出来るものじゃない。ソレよりかお前はヒョイと茲に心を変えてこの露西亜に止まらないかと云うから、私は答えて、「自分の身は使節に随従して来て居るものであるから、爾う勝手に止まられる訳けのものじゃないと有りのまゝに云うと、「イヤ夫れは造作もない話だ、お前さえ今から決断して隠れる気になれば直ぐに私が隠して遣る。どうせ使節は長く此処に居る気遣はない、間もなく帰る。帰ればソレ切だ。そうしてお前は露西亜人になって仕舞いなさい。この露西亜には外国の人は幾らも来て居る、就中独逸の人などは大変に多い、その外和蘭人も来て居れば英吉利人も来て居る。だから日本人が来て居たからと云て何も珍しい事はない、是非此処に止まれ。いよ/\止ると決すれば、その上はどんな仕事でも為ようと思えば面白い愉快な仕事は沢山ある。衣食住の安心は勿論、随分金持になる事も出来るから止まれと懇に説いたのは、決して尋常の戯れでない。チャント一間の中に差向いで真面目になって話したのである。けれども私がその時に止まると云う必要もなければ、又止まろうと云う気もない。宜い加減に返答をして置くと、その後二、三度同じような事を云て来たが、固より話は纏らず。その時に私は大に心付きました、成程露西亜は欧羅巴の中で一種風俗の変た国だと云うが、ソレに違いない。例えば今度英仏にも暫く滞留し、又前年亜米利加に行たときにも、人に逢いさえすれば日本に行こう/\と云う者が多い。何か日本に仕事はないか、どうかして一緒に連れて行て呉れないかと、ソリャもう行く先々でうるさいように云う者はあれども、遂ぞ止まれと云うことを只の一度も云た人はない。露西亜に来て始めて止まれと云う話を聞た、その趣を推察すれば、決して是れは商売上の話ではない、如何しても政治上又国交際上の意味を含んで居るに違いない。こりゃどうも気の知れない国だ、言葉に意味を含んで止まれと云う所を見れば、或は陰険の手段を施す為めではないか知らんと思うた事があった。けれどもそんな事を聞たと云うことを同行の人に語ることも出来ない、語ればどんな嫌疑を蒙るまいものでもないから、その時に語らぬのは勿論、日本に帰て来ても人に云わずに黙て居ました。或は爾う云うことを云われたのは私一人でなく、同行の者も同じ事を云われて、私と同じ考えで黙て居た者があったかも知れない。兎に角に気の知れぬ国だと思われる。
現代語訳
それからある日のこと、その接待委員の一人が私のところに来て、ちょっとこちらに来てくれと言い、一室に私を連れていきました。何事かと話を聞くと、私の身の上のことに及んで、あなたはこのたび使節についてきたが、これから先、日本に帰って何をするつもりか、それはもちろん知らないが、あなたは大層な金持ちか、と尋ねます。私は「いや、決して金持ちではない。まあいくらか日本の政府の用をしており、用をしていれば自然に報酬というものがあるので、衣食の道に差し支えはない」と、こう答えました。すると接待委員は言いました。「日本のことだから、我々に詳しい事情がわかるはずはないが、どうも大体を考えてみても日本は小国だ。ああいう小さな国にいて、男子の仕事ができるものではない。それよりあなたは、ひょいとここで心を変えて、このロシアに留まらないか」と言うので、私は答えました。「自分の身は使節に随行してきているのだから、そう勝手に留まれるものではない」と、ありのままに言うと、「いや、それはたやすい話だ。あなたさえ今から決断して隠れる気になれば、すぐに私が隠してあげる。どうせ使節は長くここにいるはずがない。間もなく帰る。帰ればそれきりだ。そしてあなたはロシア人になってしまいなさい。このロシアには外国人がいくらも来ている。とりわけドイツ人は大変に多い。そのほかオランダ人もいればイギリス人もいる。だから日本人が来ていたからといって珍しいことは何もない。ぜひここに留まれ。いよいよ留まると決まれば、そのうえはどんな仕事でもしようと思えば、面白く愉快な仕事はたくさんある。衣食住の安心はもちろん、ずいぶん金持ちになることもできるから、留まれ」と、ねんごろに説いたのは、決して普通の戯れではありません。きちんと一室の中で差し向かいになり、真面目に話したのです。けれども私にはそのとき留まる必要もなく、留まろうという気もありません。いい加減な返事をしておくと、その後二、三度、同じようなことを言ってきましたが、もちろん話はまとまりませんでした。そのとき私は大いに気づきました。なるほどロシアはヨーロッパの中でも風俗の変わった国だというが、それに違いない。たとえば今度、英仏にもしばらく滞在し、また前年にアメリカへ行ったときにも、人に会いさえすれば日本に行こう行こうという者が多い。何か日本に仕事はないか、なんとかして一緒に連れていってくれないかと、それはもう行く先々でうるさいほど言う者はいても、ついぞ留まれということを、ただの一度も言った人はない。ロシアに来て初めて留まれという話を聞きました。その趣を推察すれば、決してこれは商売上の話ではない。どうしても政治上、または国際関係上の意味を含んでいるに違いない。これはどうも気の知れない国だ。言葉に意味を含んで留まれと言うところを見れば、あるいは陰険な手段を施すためではないかと思ったことがありました。けれどもそんなことを聞いたと同行の人に語ることもできません。語ればどんな嫌疑を受けるかもしれないので、そのときに語らなかったのはもちろん、日本に帰ってきても人に言わず黙っていました。あるいはそう言われたのは私一人でなく、同行の者も同じことを言われ、私と同じ考えで黙っていた者がいたかもしれません。ともかく気の知れない国だと思われます。
解説
この章句が説くこと
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論語・述而篇子の慎む所は、斉・戦・疾なり。
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『酔古堂剣掃』集法・平地を履みて恐る君子は青天に對して懼れ、雷霆を聞きて驚かず。平地を履みて恐れ、風波を涉りて疑はず。
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論語・為政篇子張禄を干(もと)むを学ぶ。子曰く、多く聞いて疑わしきを闕(か)き、其の余を慎言すれば、則ち尤(とがめ)寡なし。多く見て殆(あやう)きを闕き、其の余を慎行すれば、則ち悔寡なし。言に尤寡なく、行に悔寡なければ、禄は其の中に在り。
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『酔古堂剣掃』集法・拙く初めに戒む其の巧みに末に持せんよりは、拙く初めに戒むるに若かず。
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