福翁自伝 / 緒方の塾風・難波橋から小皿を投ず
その小皿に縁のある一奇談は、或る夏の事である、夜十時過ぎになって酒が飲みたくなって、嗚呼飲みたいと一人が云うと、僕も爾うだと云う者が直に四、五人出来た。所がチャント門限があって出ることが出来ぬから、当直の門番を脅迫して無理に開けさして、鍋島の浜と云う納涼の葭簀張で、不味いけれども芋蛸汁か何かで安い酒を飲で、帰りに例の通りに小皿を五、六枚挙げて来た。夜十二時過でもあったか、難波橋の上に来たら、下流の方で茶船に乗てジャラ/\三味線を鳴らして騒いで居る奴がある。「あんな事をして居やがる。此方は百五十か其処辺の金を見付出して漸く一盃飲で帰る所だ。忌々敷い奴等だ。あんな奴があるから此方等が貧乏するのだと云いさま、私の持てる小皿を二、三枚投付けたら、一番仕舞の一枚で三味線の音がプッツリ止んだ。その時は急いで逃げたから人が怪我をしたかどうか分らなかった。所が不思議にも一箇月ばかり経て其れが能く分った。塾の一書生が北の新地に行て何処かの席で芸者に逢うたとき、その芸者の話に、「世の中には酷い奴もある。一箇月ばかり前の夜に私がお客さんと舟で難波橋の下で涼んで居たら、橋の上からお皿を投げて、丁度私の三味線に中って裏表の皮を打抜きましたが、本当に危ない事で、先ず/\怪我をせんのが仕合でした。何処の奴か四、五人連れでその皿を投げて置て南の方にドン/″\逃げて行きました。実に憎らしい奴もあればあるものと、斯う/\芸者が話して居たと云うのを、私共は夫れを聞て下手人にはチャント覚えがあるけれども、云えば面倒だからその同窓の書生にもその時には隠して置いた。
書き下し
その小皿に縁のある一奇談は、或る夏の事である、夜十時過ぎになって酒が飲みたくなって、嗚呼飲みたいと一人が云うと、僕も爾うだと云う者が直に四、五人出来た。所がチャント門限があって出ることが出来ぬから、当直の門番を脅迫して無理に開けさして、鍋島の浜と云う納涼の葭簀張で、不味いけれども芋蛸汁か何かで安い酒を飲で、帰りに例の通りに小皿を五、六枚挙げて来た。夜十二時過でもあったか、難波橋の上に来たら、下流の方で茶船に乗てジャラ/\三味線を鳴らして騒いで居る奴がある。「あんな事をして居やがる。此方は百五十か其処辺の金を見付出して漸く一盃飲で帰る所だ。忌々敷い奴等だ。あんな奴があるから此方等が貧乏するのだと云いさま、私の持てる小皿を二、三枚投付けたら、一番仕舞の一枚で三味線の音がプッツリ止んだ。その時は急いで逃げたから人が怪我をしたかどうか分らなかった。所が不思議にも一箇月ばかり経て其れが能く分った。塾の一書生が北の新地に行て何処かの席で芸者に逢うたとき、その芸者の話に、「世の中には酷い奴もある。一箇月ばかり前の夜に私がお客さんと舟で難波橋の下で涼んで居たら、橋の上からお皿を投げて、丁度私の三味線に中って裏表の皮を打抜きましたが、本当に危ない事で、先ず/\怪我をせんのが仕合でした。何処の奴か四、五人連れでその皿を投げて置て南の方にドン/″\逃げて行きました。実に憎らしい奴もあればあるものと、斯う/\芸者が話して居たと云うのを、私共は夫れを聞て下手人にはチャント覚えがあるけれども、云えば面倒だからその同窓の書生にもその時には隠して置いた。
現代語訳
その小皿に縁のある奇談が一つあります。ある夏のこと、夜十時過ぎになって酒が飲みたくなり、ああ飲みたいと一人が言うと、僕もそうだと言う者がすぐに四、五人できました。ところがきちんと門限があって出られないので、当直の門番を脅して無理に開けさせ、鍋島の浜という納涼の葭簀張りで、まずいけれど芋と蛸の汁か何かで安い酒を飲み、帰りには例のとおり小皿を五、六枚盗んできました。夜十二時過ぎでもあったでしょうか、難波橋の上に来ると、下流の方で茶船に乗り、ジャラジャラと三味線を鳴らして騒いでいる奴がいる。「あんなことをしていやがる。こっちは百五十文かそこらの金を見つけ出して、ようやく一杯飲んで帰るところだ。忌々しい奴らだ。あんな奴がいるからこっちが貧乏するのだ」と言いざま、私の持っていた小皿を二、三枚投げつけたところ、一番最後の一枚で三味線の音がぷっつり止みました。そのときは急いで逃げたので、人が怪我をしたかどうか分りませんでした。ところが不思議にも一箇月ばかり経ってそれがよく分りました。塾の一書生が北の新地に行って、どこかの席で芸者に会ったとき、その芸者の話に、「世の中にはひどい奴もある。一箇月ばかり前の夜に、私がお客さんと舟で難波橋の下で涼んでいたら、橋の上からお皿を投げて、ちょうど私の三味線に当たり、裏表の皮を打ち抜きました。本当に危ないことで、まず怪我をしなかったのが幸せでした。どこの奴か四、五人連れで、その皿を投げておいて、南の方にどんどん逃げて行きました。実に憎らしい奴もあればあるものです」と、こうこう芸者が話していたというのを、私たちはそれを聞いて、下手人にはちゃんと覚えがあるけれども、言えば面倒だから、その同窓の書生にもそのときは隠しておきました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『初学訓』巻之五一人と才能を争ふべからず、人と威勢を争ふべからず、人の才あるを妬むべからず。おのれ立たんとして、人をも立つべし、我のみ立たんとすべからず。心けはしく、人を言ひ貶すは、人をそこなひ、物をやぶるなり。不仁と云ひつべし。
-
『呻吟語』内篇・修身・真修と語る可し人と為りて善を揚ぐる者の心を復すること無く、惡を稱する者の口を實にすること無くんば、亦た以て真修と語る可し。
-
人物志・釋爭前に在る者は然れば之を害せられ、功有る者は人之を毀り、毀敗する者は人之を幸とす。
-
『太上感応篇』悪行・他の栄貴を見て、他の流貶を願ふ他の栄貴なるを見ては、他の流貶せられんことを願ふ。他の富有なるを見ては、他の破散せんことを願ふ。他の色の美しきを見ては、心を起して之を私す。他の貨財を負ひては、他の身の死せんことを願ふ。
-
史記 白起王翦列伝韓・趙恐れ、蘇代をして幣を厚くして秦の相応侯に説かしめて曰く、「武安君は馬服子を禽にせるか」と。曰く、「然り」と。また曰く、「即ち邯鄲を囲まんとするか」と。曰く、「然り」と。「趙亡びば則ち秦王は王たらん、武安君は三公と為らん。武安君の秦の為に戦ひ勝ち攻め取る所の者は七十余城、南のかた鄢・郢・漢中を定め、北のかた趙括の軍を禽にす。周・召・呂望の功と雖もこれに益さず。今、趙亡びて、秦王王たらば、則ち武安君必ず三公と為らん。君能くこれが下と為らんか。これが下と為るを欲すること無しと雖も、固より已むを得ざらん。秦嘗て韓を攻め、邢丘を囲み、上党を困しむ。上党の民皆反りて趙の為にす。天下の秦の民たるを楽しまざるの日久し。今、趙を亡ぼさば、北地は燕に入り、東地は斉に入り、南地は韓・魏に入らん、則ち君の得る所の民は幾何人も亡し。故に因りてこれを割かしめ、以て武安君の功と為すこと無きに如かず」と。是に於いて応侯、秦王に言ひて曰く、「秦の兵労る、請ふ韓・趙の地を割きて以て和するを許し、且つ士卒を休めん」と。王これを聴き、韓の垣雍・趙の六城を割きて以て和す。正月、皆兵を罷む。武安君これを聞き、是に由りて応侯と隙有り。
-
史記 司馬穰苴列伝已にして大夫鮑氏・高・国の属之を害み、景公に譖る。景公、穰苴を退く。苴、疾を発して死す。田乞・田豹の徒、此れに由り高・国等を怨む。其の後、田常の簡公を殺すに及び、尽く高子・国子の族を滅ぼす。常の曾孫和に至り、因りて自立して斉の威王と為り、兵を用ゐ威を行ふに、大いに穰苴の法に放ひ、而して諸侯斉に朝す。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る