福翁自伝 / 緒方の塾風・禁酒から煙草
又私は酒の為めに生涯の大損をして、その損害は今日までも身に附て居ると云うその次第は、緒方の塾に学問修業しながら兎角酒を飲で宜いことは少しもない。是れは済まぬ事だと思い、恰も一念こゝに発起したように断然酒を止めた。スルト塾中の大評判ではない大笑で、「ヤア福澤が昨日から禁酒した。コリャ面白い、コリャ可笑しい。何時まで続くだろう。迚も十日は持てまい。三日禁酒で明日は飲むに違いないなんて冷かす者ばかりであるが、私も中々剛情に辛抱して十日も十五日も飲まずに居ると、親友の高橋順益が、「君の辛抱はエライ。能くも続く。見上げて遣るぞ。所が凡そ人間の習慣は、仮令い悪い事でも頓に禁ずることは宜しくない。到底出来ない事だから、君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに烟草を始めろ。何か一方に楽しみが無くては叶わぬと親切らしく云う。所が私は烟草が大嫌いで、是れまでも同塾生の烟草を喫むのを散々に悪く云うて、「こんな無益な不養生な訳の分らぬ物を喫む奴の気が知れない。何は扨置き臭くて穢なくて堪らん。乃公の側では喫んで呉れるななんて、愛想づかしの悪口を云て居たから、今になって自分が烟草を始めるのは如何もきまりが悪いけれども、高橋の説を聞けば亦無理でもない。「そんなら遣て見ようかと云てそろ/\試ると、塾中の者が烟草を呉れたり、烟管を貸したり、中には是れは極く軽い烟草だと云て態々買て来て呉れる者もあると云うような騒ぎは、何も本当な深切でも何でもない。実は私が不断烟草の事を悪くばかり云て居たものだから、今度は彼奴を喫烟者にして遣ろうと、寄って掛って私を愚弄するのは分って居るけれども、此方は一生懸命禁酒の熱心だから、忌な烟を無理に吹かして、十日も十五日もそろ/\慣らして居る中に、臭い辛いものが自然に臭くも辛くもなく、段々風味が善くなって来た。凡そ一箇月ばかり経て本当の喫烟客になった。処が例の酒だ。何としても忘れられない。卑怯とは知りながら一寸と一盃遣て見ると堪らない。モウ一盃、これでお仕舞と力んでも、徳利を振て見て音がすれば我慢が出来ない。とう/\三合の酒を皆飲で仕舞て、又翌日は五合飲む。五合、三合、従前の通りになって、去らば烟草の方は喫まぬむかしの通りにしようとしても是れも出来ず、馬鹿々々しいとも何とも訳けが分らない。迚も叶わぬ禁酒の発心、一箇月の大馬鹿をして酒と烟草と両刀遣いに成り果て、六十余歳の今年に至るまで、酒は自然に禁じたれども烟草は止みそうにもせず、衛生の為め自から作せる損害と申して一言の弁解はありません。
新字:又私は酒の為めに生涯の大損をして、その損害は今日までも身に附て居ると云うその次第は、緒方の塾に学問修業しながら兎角酒を飲で宜いことは少しもない。是れは済まぬ事だと思い、恰も一念こゝに発起したように断然酒を止めた。スルト塾中の大評判ではない大笑で、「ヤア福沢が昨日から禁酒した。コリャ面白い、コリャ可笑しい。何時まで続くだろう。迚も十日は持てまい。三日禁酒で明日は飲むに違いないなんて冷かす者ばかりであるが、私も中々剛情に辛抱して十日も十五日も飲まずに居ると、親友の高橋順益が、「君の辛抱はエライ。能くも続く。見上げて遣るぞ。所が凡そ人間の習慣は、仮令い悪い事でも頓に禁ずることは宜しくない。到底出来ない事だから、君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに烟草を始めろ。何か一方に楽しみが無くては叶わぬと親切らしく云う。所が私は烟草が大嫌いで、是れまでも同塾生の烟草を喫むのを散々に悪く云うて、「こんな無益な不養生な訳の分らぬ物を喫む奴の気が知れない。何は扨置き臭くて穢なくて堪らん。乃公の側では喫んで呉れるななんて、愛想づかしの悪口を云て居たから、今になって自分が烟草を始めるのは如何もきまりが悪いけれども、高橋の説を聞けば亦無理でもない。「そんなら遣て見ようかと云てそろ/\試ると、塾中の者が烟草を呉れたり、烟管を貸したり、中には是れは極く軽い烟草だと云て態々買て来て呉れる者もあると云うような騒ぎは、何も本当な深切でも何でもない。実は私が不断烟草の事を悪くばかり云て居たものだから、今度は彼奴を喫烟者にして遣ろうと、寄って掛って私を愚弄するのは分って居るけれども、此方は一生懸命禁酒の熱心だから、忌な烟を無理に吹かして、十日も十五日もそろ/\慣らして居る中に、臭い辛いものが自然に臭くも辛くもなく、段々風味が善くなって来た。凡そ一箇月ばかり経て本当の喫烟客になった。処が例の酒だ。何としても忘れられない。卑怯とは知りながら一寸と一盃遣て見ると堪らない。モウ一盃、これでお仕舞と力んでも、徳利を振て見て音がすれば我慢が出来ない。とう/\三合の酒を皆飲で仕舞て、又翌日は五合飲む。五合、三合、従前の通りになって、去らば烟草の方は喫まぬむかしの通りにしようとしても是れも出来ず、馬鹿々々しいとも何とも訳けが分らない。迚も叶わぬ禁酒の発心、一箇月の大馬鹿をして酒と烟草と両刀遣いに成り果て、六十余歳の今年に至るまで、酒は自然に禁じたれども烟草は止みそうにもせず、衛生の為め自から作せる損害と申して一言の弁解はありません。
書き下し
又私は酒の為めに生涯の大損をして、その損害は今日までも身に附て居ると云うその次第は、緒方の塾に学問修業しながら兎角酒を飲で宜いことは少しもない。是れは済まぬ事だと思い、恰も一念こゝに発起したように断然酒を止めた。スルト塾中の大評判ではない大笑で、「ヤア福澤が昨日から禁酒した。コリャ面白い、コリャ可笑しい。何時まで続くだろう。迚も十日は持てまい。三日禁酒で明日は飲むに違いないなんて冷かす者ばかりであるが、私も中々剛情に辛抱して十日も十五日も飲まずに居ると、親友の高橋順益が、「君の辛抱はエライ。能くも続く。見上げて遣るぞ。所が凡そ人間の習慣は、仮令い悪い事でも頓に禁ずることは宜しくない。到底出来ない事だから、君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに烟草を始めろ。何か一方に楽しみが無くては叶わぬと親切らしく云う。所が私は烟草が大嫌いで、是れまでも同塾生の烟草を喫むのを散々に悪く云うて、「こんな無益な不養生な訳の分らぬ物を喫む奴の気が知れない。何は扨置き臭くて穢なくて堪らん。乃公の側では喫んで呉れるななんて、愛想づかしの悪口を云て居たから、今になって自分が烟草を始めるのは如何もきまりが悪いけれども、高橋の説を聞けば亦無理でもない。「そんなら遣て見ようかと云てそろ/\試ると、塾中の者が烟草を呉れたり、烟管を貸したり、中には是れは極く軽い烟草だと云て態々買て来て呉れる者もあると云うような騒ぎは、何も本当な深切でも何でもない。実は私が不断烟草の事を悪くばかり云て居たものだから、今度は彼奴を喫烟者にして遣ろうと、寄って掛って私を愚弄するのは分って居るけれども、此方は一生懸命禁酒の熱心だから、忌な烟を無理に吹かして、十日も十五日もそろ/\慣らして居る中に、臭い辛いものが自然に臭くも辛くもなく、段々風味が善くなって来た。凡そ一箇月ばかり経て本当の喫烟客になった。処が例の酒だ。何としても忘れられない。卑怯とは知りながら一寸と一盃遣て見ると堪らない。モウ一盃、これでお仕舞と力んでも、徳利を振て見て音がすれば我慢が出来ない。とう/\三合の酒を皆飲で仕舞て、又翌日は五合飲む。五合、三合、従前の通りになって、去らば烟草の方は喫まぬむかしの通りにしようとしても是れも出来ず、馬鹿々々しいとも何とも訳けが分らない。迚も叶わぬ禁酒の発心、一箇月の大馬鹿をして酒と烟草と両刀遣いに成り果て、六十余歳の今年に至るまで、酒は自然に禁じたれども烟草は止みそうにもせず、衛生の為め自から作せる損害と申して一言の弁解はありません。
現代語訳
また私は酒のために生涯の大損をして、その損害は今日まで身についていると言います。その次第は、緒方の塾で学問修業をしながら、とかく酒を飲んでいてよいことは少しもない。これは済まないことだと思い、ちょうど一念ここに発起したように、断然酒をやめました。すると塾中の大評判、いや大笑いで、「やあ、福沢が昨日から禁酒した。これは面白い、これは可笑しい。いつまで続くだろう。とても十日は持つまい。三日禁酒で明日は飲むに違いない」などと冷やかす者ばかりでしたが、私もなかなか頑固に辛抱して、十日も十五日も飲まずにいると、親友の高橋順益が、「君の辛抱はえらい。よくも続く。見上げてやるぞ。ところがおよそ人間の習慣は、たとえ悪いことでも急に禁ずることはよくない。結局できないことだから、君がいよいよ禁酒と決心したのなら、酒の代わりに煙草を始めろ。何か一方に楽しみがなくては叶わぬ」と、親切らしく言う。ところが私は煙草が大嫌いで、これまでも同塾生が煙草を吸うのをさんざん悪く言い、「こんな無益な不養生な、訳の分らぬ物を吸う奴の気が知れない。何はさておき臭くて汚くて堪らん。俺の側では吸ってくれるな」などと、愛想づかしの悪口を言っていたので、今になって自分が煙草を始めるのはどうもきまりが悪いけれども、高橋の説を聞けばまた無理もない。「それならやってみようか」と言って、そろそろ試みると、塾中の者が煙草をくれたり、煙管を貸したり、中には「これはごく軽い煙草だ」と言ってわざわざ買ってきてくれる者もあるという騒ぎです。これは何も本当の親切でも何でもなく、実は私が普段煙草のことを悪くばかり言っていたものですから、今度はあいつを喫煙者にしてやろうと、寄ってたかって私をからかうのは分っていましたが、こちらは一生懸命、禁酒の熱心ですから、嫌な煙を無理に吹かして、十日も十五日もそろそろ慣らしているうちに、臭い辛いものが自然に臭くも辛くもなくなり、だんだん風味がよくなってきました。およそ一箇月ばかり経って、本当の喫煙客になりました。ところが例の酒です。どうしても忘れられない。卑怯とは知りながら、ちょっと一杯やってみると堪らない。もう一杯、これでおしまいと力んでも、徳利を振って音がすれば我慢ができない。とうとう三合の酒をみな飲んでしまい、また翌日は五合飲む。五合、三合と、従前のとおりになって、それならば煙草の方は吸わない昔のとおりにしようとしても、これもできず、馬鹿々々しいとも何とも訳が分らない。とても叶わぬ禁酒の発心、一箇月の大馬鹿をして、酒と煙草の両刀遣いになり果て、六十余歳の今年に至るまで、酒は自然にやめましたが、煙草はやみそうにもせず、衛生のために自分で作った損害と申して、一言の弁解もありません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孟子・公孫丑章句下燕人畔く。王曰く、「吾甚だ孟子に慚づ。」陳賈曰く、「王患うること無かれ。王自ら以て周公と孰れか仁且つ智なりと為すか。」王曰く、「惡。是れ何の言ぞや。」曰く、「周公、管叔をして殷を監せしむ。管叔、殷を以て畔く。知りて之を使むれば、是れ不仁なり。知らずして之を使むれば、是れ不智なり。仁智は周公も未だ之れ盡くさざるなり。而るを況んや王に於いてをや。賈請う、見て之を解かん。」孟子を見て、問いて曰く、「周公は何人ぞや。」曰く、「古の聖人なり。」曰く、「管叔をして殷を監せしめしに、管叔、殷を以て畔く。諸れ有りや。」曰く、「然り。」曰く、「周公は其れ將に畔かんとするを知りて之に使むるか。」曰く、「知らざるなり。」「然らば則ち聖人すら且つ過つこと有るか。」曰く、「周公は弟なり。管叔は兄なり。周公の過つも、亦た宜ならずや。且つ古の君子は、過てば則ち之を改む。今の君子は、過てば則ち之に順う。古の君子は、其の過つや、日月の食するが如し。民皆之を見る。其の更むるに及んでや、民皆之を仰ぐ。今の君子は、豈に徒に之に順うのみならんや。又從って之が辭を為す。」
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『墨子』親士昔者、文公は出で走りて天下を正し、桓公は國を去りて諸侯に霸たり、越王句踐は吳王の仇に遜りて、尚お中國の賢君を攝す。三子の能く名を達し功を天下に成せるや、皆な其の國に於て抑えられ、而して大いに醜ずかしめられたればなり。太上は敗るること無く、其の次は敗れて以て成すこと有り、此れを之れ民を用うと謂う。吾れ之を聞けらく、「安居無きに非ざるなり、我に安心無きなり。足財無きに非ざるなり、我に足心無きなり」と。是の故に君子は自らを難んじて彼を易んじ、衆人は自らを易んじて彼を難んず。君子は進んで其の志を敗らず、内に其の情を究め、庸民に雜わると雖も、終に怨心無し。彼れ自ら信ずる者有ればなり。
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