福翁自伝 / 緒方の塾風・料理茶屋の物を盗む
前に云う通り御霊の植木見世で万引と疑われたが、疑われる筈だ、緒方の書生は本当に万引をして居たその万引と云うは、呉服店で反物なんど云う念の入た事ではない、料理茶屋で飲だ帰りに猪口だの小皿だの色々手ごろな品を窃と盗んで来るような万引である。同窓生互に夫れを手柄のようにして居るから、送別会などゝ云う大会のときには穫物も多い。中には昨夜の会で団扇の大きなのを背中に入れて帰る者もあれば、平たい大皿を懐中し吸物椀の蓋を袂にする者もある。又或る奴は、君達がそんな半端物を挙げて来るのはまだ拙ない。乃公の獲物を拝見し給えと云て、小皿を十人前揃えて手拭に包んで来たこともある。今思えば是れは茶屋でもトックに知て居ながら黙って通して、実はその盗品の勘定も払の内に這入て居るに相違ない、毎度の事でお極りの盗坊だから。
書き下し
前に云う通り御霊の植木見世で万引と疑われたが、疑われる筈だ、緒方の書生は本当に万引をして居たその万引と云うは、呉服店で反物なんど云う念の入た事ではない、料理茶屋で飲だ帰りに猪口だの小皿だの色々手ごろな品を窃と盗んで来るような万引である。同窓生互に夫れを手柄のようにして居るから、送別会などゝ云う大会のときには穫物も多い。中には昨夜の会で団扇の大きなのを背中に入れて帰る者もあれば、平たい大皿を懐中し吸物椀の蓋を袂にする者もある。又或る奴は、君達がそんな半端物を挙げて来るのはまだ拙ない。乃公の獲物を拝見し給えと云て、小皿を十人前揃えて手拭に包んで来たこともある。今思えば是れは茶屋でもトックに知て居ながら黙って通して、実はその盗品の勘定も払の内に這入て居るに相違ない、毎度の事でお極りの盗坊だから。
現代語訳
前に述べたとおり、御霊の植木店で万引きを疑われましたが、疑われるのも当然です。緒方の書生は本当に万引きをしていました。その万引きというのは、呉服店で反物などという念の入ったことではなく、料理茶屋で飲んだ帰りに、猪口や小皿など、いろいろ手ごろな品をそっと盗んでくるような万引きです。同窓生は互いにこれを手柄のようにしているので、送別会などの大きな会のときには獲物も多い。中には昨夜の会で、大きな団扇を背中に入れて帰る者もあれば、平たい大皿を懐に入れ、吸物椀の蓋を袂に入れる者もあります。またある奴は、「君たちがそんな半端物を持ってくるのはまだ拙い。俺の獲物を拝見したまえ」と言って、小皿を十人前そろえ、手拭に包んで持ってきたこともあります。今思えば、これは茶屋でもとうに知っていながら黙って通していたので、実はその盗品の勘定も払いの中に入っていたに違いありません。毎度のことで、決まりきった盗人ですから。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
福翁自伝・緒方の塾風・弁天小僧それから一度は斯う云う事があった。私と先輩の同窓生で久留米の松下元芳と云う医者と二人連で、御霊と云う宮地に行て夜見世の植木を冷かしてる中に、植木屋が、「旦那さん悪さをしてはいけまへんと云たのは、吾々の風体を見て万引をしたと云う意味だから、サア了簡しない。丸で弁天小僧見たように拈繰返した。「何でもこの野郎を打殺して仕舞え。理屈を云わずに打殺して仕舞えと私が怒鳴る。松下は慰めるような風をして、「マア殺さぬでも宜いじゃないか。「ヤア面倒だ、一打に打殺して仕舞うから止めなさんなと、夫れ是れする中に往来の人は黒山のように集まって大混雑になって来たから、此方は尚お面白がって威張て居ると、御霊の善哉屋の餅搗か何かして居る角力取が仲裁に這入て来て、「どうか宥して遣て下さいと云うから、「よし貴様が中に這入れば宥して遣る。併し明日の晩此処に見世を出すと打殺して仕舞うぞ。折角中に這入たから今夜は宥して遣るからと云て、翌晩行て見たら、正直な奴だ、植木屋の処だけ土場見世を休んで居た。今のように一寸も警察と云うものがなかったから乱暴は勝手次第、けれども存外に悪い事をしない、一寸この植木見世位の話で実のある悪事は決してしない。
-
福翁自伝・大阪修業・書生の生活酒の悪癖(1)私は是れまで緒方の塾に這入らずに屋敷から通って居たのであるが、安政三年の十一月頃から塾に這入て内塾生となり、是れが抑も私の書生生活、活動の始まりだ。元来緒方の塾と云うものは真実日進々歩主義の塾で、その中に這入て居る書生は皆活溌有為の人物であるが、一方から見れば血気の壮年、乱暴書生ばかりで、中々一筋縄でも二筋縄でも始末に行かぬ人物の巣窟、その中に私が飛込で共に活溌に乱暴を働いた、けれども又自から外の者と少々違って居ると云うこともお話しなければならぬ。先ず第一に私の悪い事を申せば、生来酒を嗜むと云うのが一大欠点、成長した後には自からその悪い事を知ても、悪習既に性を成して自から禁ずることの出来なかったと云うことも、敢て包み隠さず明白に自首します。自分の悪い事を公けにするは余り面白くもないが、正味を言わねば事実談にならぬから、先ず一ト通り幼少以来の飲酒の歴史を語りましょう。抑も私の酒癖は、年齢の次第に成長するに従て飲覚え、飲慣れたと云うでなくして、生れたまゝ物心の出来た時から自然に数寄でした。今に記憶して居る事を申せば、幼少の頃、月代を剃るとき、頭の盆の窪を剃ると痛いから嫌がる。スルト剃て呉れる母が、「酒を給べさせるから此処を剃らせろと云うその酒が飲みたさ計りに、痛いのを我慢して泣かずに剃らして居た事は幽に覚えて居ます。天性の悪癖、誠に愧ずべき事です。その後、次第に年を重ねて弱冠に至るまで、外に何も法外な事は働かず行状は先ず正しい積りでしたが、俗に云う酒に目のない少年で、酒を見ては殆んど廉恥を忘れるほどの意気地なしと申して宜しい。
-
福翁自伝・緒方の塾風・不潔に頓着せず塾員は不規則と云わんか不整頓と云わんか乱暴狼藉、丸で物事に無頓着。その無頓着の極は世間で云うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止めない。例えば、塾の事であるから勿論桶だの丼だの皿などの、あろう筈はないけれども、緒方の塾生は学塾の中に居ながら七輪もあれば鍋もあって、物を煮て喰うと云うような事を不断遣て居る、その趣は恰も手鍋世帯の台所見たような事を机の周囲で遣て居た。けれども道具の足ると云うことのあろう筈はない。ソコで洗手盥も金盥も一切食物調理の道具になって、暑中など何処からか素麺を貰うと、その素麺を奥の台所で湯煮て貰うて、その素麺を冷すには、毎朝、顔を洗う洗手盥を持て来て、その中で冷素麺にして、汁を拵えるに調合所の砂糖でも盗み出せば上出来、その外、肴を拵えるにも野菜を洗うにも洗手盥は唯一のお道具で、ソンナ事は少しも汚ないと思わなかった。 夫れ所ではない。虱は塾中永住の動物で、誰れ一人も之を免かれることは出来ない。一寸と裸体になれば五疋も十疋も捕るに造作はない。春先き少し暖気になると羽織の襟に匍出すことがある。或る書生の説に、ドウダ、吾々の虱は大阪の焼芋に似て居る。冬中が真盛りで、春になり夏になると次第に衰えて、暑中二、三箇月蚤と交代して引込み、九月頃新芋が町に出ると吾々の虱も復た出て来るのは可笑しいと云た事がある。私は一案を工風し、抑も虱を殺すに熱湯を用うるは洗濯婆の旧筆法で面白くない、乃公が一発で殺して見せようと云て、厳冬の霜夜に襦袢を物干に洒して虱の親も玉子も一時に枯らしたことがある。この工風は私の新発明ではない、曾て誰れかに聞たことがあるから遣て見たのです。
-
福翁自伝・緒方の塾風・芝居見物の失策それに引換えて此方から取られたことがある。道頓堀の芝居に与力や同心のような役人が見廻りに行くと、スット桟敷に通て、芝居の者共が茶を持て来る菓子を持て来るなどして、大威張りで芝居をたゞ見る。兼てその様子を知て居るから、緒方の書生が、気味の悪い話サ、大小を挟して宗十郎頭巾を冠て、その役人の真似をして度々行て、首尾能く芝居見物して居た。所が度重なれば顕われるの諺に洩れず、或る日、本者が来た。サア此方は何とも云われないだろう、詐欺だから、役人を偽造したのだから。その時はこねくられたとも何とも、進退谷まり大騒ぎになって、夫れから玉造の与力に少し由縁を得て、ソレに泣付て内済を頼で、ヤット無事に収まった。そのとき酒を持て行たり肴を持て行たりして、何でも金にして三歩ばかり取られたと思う。この詐欺の一件は丹後宮津の高橋順益と云う男が頭取であったが、私は元来芝居を見ない上に、この事を不安心に思うて、「それは余り宜くなかろう、マサカの時は大変だからと云たが肯ない。「何に訳けはない、自から方便ありなんてヅウ/″\しく遣て居たが、とう/\捕まったのが可笑しい所か一時大心配をした。
-
福翁自伝・緒方の塾風左様云えば何か私が緒方塾の塾長で頻りに威張て自然に塾の風を矯正したように聞ゆるけれども、又一方から見れば酒を飲むことでは随分塾風を荒らした事もあろうと思う。塾長になっても相替らず元の貧書生なれども、その時の私の身の上は、故郷に在る母と姪と二人は藩から貰う少々ばかりの家禄で暮して居る、私は塾長になってから表向に先生家の賄を受けて、その上に新書生が入門するとき先生家に束脩を納めて同時に塾長へも金貳朱を朱を」]呈すと規則があるから、一箇月に入門生が三人あれば塾長には一分二朱の収入、五人あれば二分二朱にもなるから小遣銭には沢山で、是れが大抵酒の代になる。衣服は国の母が手織木綿の品を送て呉れて夫れには心配がないから、少しでも手許に金があれば直に飲むことを考える。是れが為めには同窓生の中で私に誘われてツイ/\飲だ者も多かろう。扨その飲みようも至極お租末、殺風景で、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買て来て塾中で独り飲む。夫れから少し都合の宜い時には一朱か二朱以て一寸と料理茶屋に行く、是れは最上の奢で容易に出来兼ねるから、先ず度々行くのは鶏肉屋、夫れよりモット便利なのは牛肉屋だ。その時大阪中で牛鍋を喰わせる処は唯二軒ある。一軒は難波橋の南詰、一軒は新町の廓の側にあって、最下等の店だから、凡そ人間らしい人で出入する者は決してない。文身だらけの町の破落戸と緒方の書生ばかりが得意の定客だ。何処から取寄せた肉だか、殺した牛やら、病死した牛やら、そんな事には頓着なし、一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛は随分硬くて臭かった。
-
福翁自伝・緒方の塾風・難波橋から小皿を投ずその小皿に縁のある一奇談は、或る夏の事である、夜十時過ぎになって酒が飲みたくなって、嗚呼飲みたいと一人が云うと、僕も爾うだと云う者が直に四、五人出来た。所がチャント門限があって出ることが出来ぬから、当直の門番を脅迫して無理に開けさして、鍋島の浜と云う納涼の葭簀張で、不味いけれども芋蛸汁か何かで安い酒を飲で、帰りに例の通りに小皿を五、六枚挙げて来た。夜十二時過でもあったか、難波橋の上に来たら、下流の方で茶船に乗てジャラ/\三味線を鳴らして騒いで居る奴がある。「あんな事をして居やがる。此方は百五十か其処辺の金を見付出して漸く一盃飲で帰る所だ。忌々敷い奴等だ。あんな奴があるから此方等が貧乏するのだと云いさま、私の持てる小皿を二、三枚投付けたら、一番仕舞の一枚で三味線の音がプッツリ止んだ。その時は急いで逃げたから人が怪我をしたかどうか分らなかった。所が不思議にも一箇月ばかり経て其れが能く分った。塾の一書生が北の新地に行て何処かの席で芸者に逢うたとき、その芸者の話に、「世の中には酷い奴もある。一箇月ばかり前の夜に私がお客さんと舟で難波橋の下で涼んで居たら、橋の上からお皿を投げて、丁度私の三味線に中って裏表の皮を打抜きましたが、本当に危ない事で、先ず/\怪我をせんのが仕合でした。何処の奴か四、五人連れでその皿を投げて置て南の方にドン/″\逃げて行きました。実に憎らしい奴もあればあるものと、斯う/\芸者が話して居たと云うのを、私共は夫れを聞て下手人にはチャント覚えがあるけれども、云えば面倒だからその同窓の書生にもその時には隠して置いた。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る