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福翁自伝 / 緒方の塾風・熊の解剖

それから又或時には斯う云う事があった。道修町の薬種屋に丹波か丹後から熊が来たと云う触込み。或る医者の紹介で、後学の為め解剖を拝見致したいから誰か来て熊を解剖して呉れぬかと塾に云て来た。「それは面白い」。当時緒方の書生は中々解剖と云うことに熱心であるから、早速行て遣ろうと云うので出掛けて行く。私は医者でないから行かぬが、塾生中七、八人行きました。夫から解剖して是れが心臓で是れが肺、是れが肝と説明して遣た所が、「誠に有難い」と云て薬種屋も医者もふっと帰って仕舞た。その実は彼等の考に、緒方の書生に解剖して貰えば無疵に熊胆が取れると云うことを知て居るものだから、解剖に託して熊胆が出るや否や帰て仕舞たと云う事がチャンと分たから、書生さん中々了簡しない。是れは一番こねくって遣ろうと、塾中の衆議一決、直にそれ/″\掛りの手分けをした。塾中に雄弁滔々と能く喋舌て誠に剛情なシツコイ男がある、田中発太郎(今は新吾と改名して加賀金沢に居る)と云う、是れが応接掛、それから私が掛合手紙の原案者で、信州飯山から来て居る書生で菱湖風の書を善く書く沼田芸平と云う男が原案の清書する。夫れから先方へ使者に行くのは誰れ、脅迫するのは誰れと、どうにも斯うにも手に余る奴ばかりで、動もすれば手短に打毀しに行くと云うような風を見せる奴もある。又彼方から来れば捏くる奴が控えて居る。何でも六、七人手勢を揃えて拈込で、理屈を述べることは筆にも口にも隙はない。応接掛りは不断の真裸体に似ず、袴羽織にチャント脇差を挟して緩急剛柔、ツマリ学医の面目云々を楯にして剛情な理屈を云うから、サア先方の医者も困て仕舞い、そこで平あやまりだと云う。只謝るだけで済めば宜いが、酒を五升に鶏と魚か何かを持て来て、それで手を拍て塾中で大に飲みました。

書き下し

それから又或時には斯う云う事があった。道修町の薬種屋に丹波か丹後から熊が来たと云う触込み。或る医者の紹介で、後学の為め解剖を拝見致したいから誰か来て熊を解剖して呉れぬかと塾に云て来た。「それは面白い」。当時緒方の書生は中々解剖と云うことに熱心であるから、早速行て遣ろうと云うので出掛けて行く。私は医者でないから行かぬが、塾生中七、八人行きました。夫から解剖して是れが心臓で是れが肺、是れが肝と説明して遣た所が、「誠に有難い」と云て薬種屋も医者もふっと帰って仕舞た。その実は彼等の考に、緒方の書生に解剖して貰えば無疵に熊胆が取れると云うことを知て居るものだから、解剖に託して熊胆が出るや否や帰て仕舞たと云う事がチャンと分たから、書生さん中々了簡しない。是れは一番こねくって遣ろうと、塾中の衆議一決、直にそれ/″\掛りの手分けをした。塾中に雄弁滔々と能く喋舌て誠に剛情なシツコイ男がある、田中発太郎(今は新吾と改名して加賀金沢に居る)と云う、是れが応接掛、それから私が掛合手紙の原案者で、信州飯山から来て居る書生で菱湖風の書を善く書く沼田芸平と云う男が原案の清書する。夫れから先方へ使者に行くのは誰れ、脅迫するのは誰れと、どうにも斯うにも手に余る奴ばかりで、動もすれば手短に打毀しに行くと云うような風を見せる奴もある。又彼方から来れば捏くる奴が控えて居る。何でも六、七人手勢を揃えて拈込で、理屈を述べることは筆にも口にも隙はない。応接掛りは不断の真裸体に似ず、袴羽織にチャント脇差を挟して緩急剛柔、ツマリ学医の面目云々を楯にして剛情な理屈を云うから、サア先方の医者も困て仕舞い、そこで平あやまりだと云う。只謝るだけで済めば宜いが、酒を五升に鶏と魚か何かを持て来て、それで手を拍て塾中で大に飲みました。

現代語訳

それからまた、ある時にはこんなことがありました。道修町の薬種屋に、丹波か丹後から熊が来たという触れ込みです。ある医者の紹介で、後学のために解剖を拝見したいから、誰か来て熊を解剖してくれないか、と塾に言ってきました。「それは面白い」。当時、緒方の書生はなかなか解剖ということに熱心だったので、早速行ってやろうと言って出かけて行きます。私は医者ではないから行きませんが、塾生の中から七、八人行きました。それから解剖して、これが心臓、これが肺、これが肝と説明してやったところ、「誠にありがとう」と言って、薬種屋も医者もふっと帰ってしまいました。 その実は、彼らの考えでは、緒方の書生に解剖してもらえば傷なしに熊胆が取れるということを知っていたものですから、解剖にかこつけて、熊胆が出るやいなや帰ってしまったということがちゃんと分かったので、書生さんたちはなかなか承知しません。これは一番こねくってやろうと、塾中の衆議一決、すぐにそれぞれ係の手分けをしました。塾中に、雄弁滔々とよくしゃべる、まことに強情でしつこい男がいて、田中発太郎(今は新吾と改名して加賀金沢にいる)という、これが応接係、それから私が掛け合い手紙の原案者で、信州飯山から来ていて菱湖風の書をよく書く沼田芸平という男が原案の清書をします。それから先方へ使者に行くのは誰、脅迫するのは誰と、どうにもこうにも手に余る奴ばかりで、ともすれば、手短に打ち壊しに行くという風を見せる奴もいます。またあちらから来れば、こねくる奴が控えています。何でも六、七人の手勢を揃えて談判し、理屈を述べることは筆にも口にも隙がありません。 応接係は、普段の真っ裸に似ず、袴羽織にちゃんと脇差を差し、緩急剛柔、つまり学医の面目云々を盾にして強情な理屈を言うので、さあ、先方の医者も困ってしまい、平謝りです。ただ謝るだけで済めばよいのですが、酒を五升に、鶏と魚か何かを持って来たので、それで手を打って塾中で大いに飲みました。

解説

熊の解剖を無償で手伝わせ、熊胆だけ持って帰った薬種屋と医者に、書生たちは組織的な抗議を行います。応接係、手紙の原案、清書、使者、脅迫と役割を分担する様子は、塾生の連携の良さを示しています。真っ裸の普段とは違い、袴羽織に脇差で理屈を述べる演出も周到です。最終的に酒と肴で手打ちになりますが、不当な扱いには黙らず、筋道を立てて交渉する姿勢が見えます。役割分担と準備が成果を生む、チーム交渉の好例です。

この章句が説くこと

熊胆解剖交渉役割分担談判学医

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