福翁自伝 / 緒方の塾風・芝居見物の失策
それに引換えて此方から取られたことがある。道頓堀の芝居に与力や同心のような役人が見廻りに行くと、スット桟敷に通て、芝居の者共が茶を持て来る菓子を持て来るなどして、大威張りで芝居をたゞ見る。兼てその様子を知て居るから、緒方の書生が、気味の悪い話サ、大小を挟して宗十郎頭巾を冠て、その役人の真似をして度々行て、首尾能く芝居見物して居た。所が度重なれば顕われるの諺に洩れず、或る日、本者が来た。サア此方は何とも云われないだろう、詐欺だから、役人を偽造したのだから。その時はこねくられたとも何とも、進退谷まり大騒ぎになって、夫れから玉造の与力に少し由縁を得て、ソレに泣付て内済を頼で、ヤット無事に収まった。そのとき酒を持て行たり肴を持て行たりして、何でも金にして三歩ばかり取られたと思う。この詐欺の一件は丹後宮津の高橋順益と云う男が頭取であったが、私は元来芝居を見ない上に、この事を不安心に思うて、「それは余り宜くなかろう、マサカの時は大変だからと云たが肯ない。「何に訳けはない、自から方便ありなんてヅウ/″\しく遣て居たが、とう/\捕まったのが可笑しい所か一時大心配をした。
書き下し
それに引換えて此方から取られたことがある。道頓堀の芝居に与力や同心のような役人が見廻りに行くと、スット桟敷に通て、芝居の者共が茶を持て来る菓子を持て来るなどして、大威張りで芝居をたゞ見る。兼てその様子を知て居るから、緒方の書生が、気味の悪い話サ、大小を挟して宗十郎頭巾を冠て、その役人の真似をして度々行て、首尾能く芝居見物して居た。所が度重なれば顕われるの諺に洩れず、或る日、本者が来た。サア此方は何とも云われないだろう、詐欺だから、役人を偽造したのだから。その時はこねくられたとも何とも、進退谷まり大騒ぎになって、夫れから玉造の与力に少し由縁を得て、ソレに泣付て内済を頼で、ヤット無事に収まった。そのとき酒を持て行たり肴を持て行たりして、何でも金にして三歩ばかり取られたと思う。この詐欺の一件は丹後宮津の高橋順益と云う男が頭取であったが、私は元来芝居を見ない上に、この事を不安心に思うて、「それは余り宜くなかろう、マサカの時は大変だからと云たが肯ない。「何に訳けはない、自から方便ありなんてヅウ/″\しく遣て居たが、とう/\捕まったのが可笑しい所か一時大心配をした。
現代語訳
それに引き換え、こちらが取られたこともあります。道頓堀の芝居に、与力や同心のような役人が見回りに行くと、すっと桟敷に通されて、芝居の者たちが茶を持って来る、菓子を持って来るなどして、大威張りでただ見をします。かねてその様子を知っているので、緒方の書生が、気味の悪い話ですが、大小を差して宗十郎頭巾をかぶり、その役人の真似をして度々行って、首尾よく芝居見物をしていました。ところが度重なれば現れるという諺に漏れず、ある日、本物が来ました。さあ、こちらは何とも言えないでしょう。詐欺だから、役人を偽ったのだから。その時は、こねくられたとも何とも、進退窮まり大騒ぎになって、それから玉造の与力に少し由縁を得て、それに泣きついて内済を頼み、やっと無事に収まりました。その時、酒を持って行ったり肴を持って行ったりして、金に換算して三歩ばかり取られたと思います。 この詐欺の一件は、丹後宮津の高橋順益という男が頭取でしたが、私はもともと芝居を見ない上に、この事を不安に思って、「それはあまりよくなかろう、まさかの時は大変だ」と言ったのですが、聞き入れません。「なに、わけはない。自ら方便あり」などとずうずうしくやっていたのが、とうとう捕まったのはおかしいどころか、一時は大心配をしました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
徒然草・第167段一道に携はる人、あらぬ道の席に臨みて、「あはれ我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを。」といひ、心にも思へる事、常のことなれど、世にわろく覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな羨まし、などか習はざりけむ。」と言ひてありなむ。我が智を取り出でて人に争ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙を噛み出す類なり。人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝る事のあるは大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干の科あり。謹みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にもいひけたれ、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。一道にもまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知るゆゑに、志常に満たずして、つひに物に誇ることなし。
-
『法句経』第十九 住法の部 二七一・二七二 意を安んずる勿れ二七一 我は唯禁戒を持ち、或は復多く学び、又は心の安定を得、或は閑静処に住みて、 二七二 (此に由つて)凡夫の習はざる出離楽を証せず、比丘よ、未だ心中の穢を尽さずんば意を安んずる勿れ。
-
『正法眼蔵随聞記』巻四古人云く、奢て上賢にひとしからんと思ふことなかれ、賤ふして下賤にひとしからんと思ふことなかれと、云こゝろは、共に慢心なり、高ふしても下らんことを忘るゝことなかれ、安ふしても危からんことを忘るゝことなかれ、今日存するとも明日もと思ふことなかれ、死の至てちかくあやふきこと脚下にあり、
-
『翁問答』下卷之本体充曰、魔境へおち入とは、いかやうなるを申候や。師の曰、或は贋の学問にふけり或は学問せざれども暗処に魔を来しぬれば、自満の心根かたくなり枝葉しげりて異風になり、人をば生るむしとも思はず、天下にわれをこすべきものなしと、人もゆるさぬ高満を鼻にあて、親おやかたの愚痴なるをさげしみおかしく思ひ、主君をそしり朋友をあざけりて、孝悌忠信の生道をさまたげ邪魔に相通じ悪魔と作法をあはするを魔境に陥ると云なり、うまれつき利根無欲けなげなる人此やまひ多し。
-
『翁問答』下卷之本体充曰、にせの学問をする人に、世間の交りをむづかしがり、閑居を好み或は心気やみなどの如く、引こもりなどするものあるは、何としたることにて候や。師の曰、それが即ち魔境におち入たるにて候高満の魔心ふかき故に、本来非もなきせけんを非にみて、親のする事も兄弟のする事も、主君のあてがひも朋友のなす業もみなわけもなき妄作なりと得心するによつて、右を見るも左を見るも、皆おのれが心にかなはぬ事ばかりなる故に、世間の交をいとひ、ひとり居る事を好むと知べし。
-
史記 秦本紀其の秋、甘茂・庶長封をして宜陽を伐たしむ。四年、宜陽を抜き、首を斬ること六万。河を渉り、武遂に城く。魏の太子来朝す。武王力有りて戯を好む。力士任鄙・烏獲・孟説皆大官に至る。王孟説と鼎を挙げ、臏を絶つ。八月、武王死す。孟説を族す。武王魏の女を取りて后と為すも、子無し。異母弟を立つ。是を昭襄王と為す。昭襄の母は楚人にして、姓は羋氏、宣太后と号す。武王の死せし時、昭襄王燕に質為り。燕人送り帰し、立つを得たり。昭襄王の元年、厳君疾相と為る。甘茂出でて魏に之く。二年、彗星見る。庶長壮大臣・諸侯・公子と逆を為し、皆誅せらる。恵文后に及ぶまで皆良死を得ず。悼武王の后出でて魏に帰る。三年、王冠す。楚王と黄棘に会し、楚に上庸を与ふ。四年、蒲阪を取る。彗星見る。五年、魏王来たりて応亭に朝す。復た魏に蒲阪を与ふ。六年、蜀侯煇反き、司馬錯蜀を定む。庶長奐楚を伐ち、首を斬ること二万。涇陽君斉に質たり。日食し、昼晦し。七年、新城を抜く。樗里子卒す。八年、将軍羋戎をして楚を攻めしめ、新市を取る。斉は章子をして、魏は公孫喜をして、韓は暴鳶をして共に楚の方城を攻めしめ、唐眛を取る。趙中山を破り、其の君亡げ、竟に斉に死す。魏の公子勁・韓の公子長諸侯と為る。九年、孟嘗君薛文来たりて秦に相たり。奐楚を攻め、八城を取り、其の将景快を殺す。十年、楚の懐王入りて秦に朝す。秦之を留む。薛文金を以て免るるを受く。楼緩丞相と為る。十一年、斉・韓・魏・趙・宋・中山の五国共に秦を攻め、塩氏に至りて還る。秦韓・魏に河北及び封陵を与へて以て和す。彗星見る。楚の懐王走りて趙に之く。趙受けず、之を秦に還す。即ち死し、帰葬す。十二年、楼緩免ぜられ、穣侯魏冉相と為る。楚に粟五万石を予ふ。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る