福翁自伝 / 大阪修業・書生の生活酒の悪癖(1)
私は是れまで緒方の塾に這入らずに屋敷から通って居たのであるが、安政三年の十一月頃から塾に這入て内塾生となり、是れが抑も私の書生生活、活動の始まりだ。元来緒方の塾と云うものは真実日進々歩主義の塾で、その中に這入て居る書生は皆活溌有為の人物であるが、一方から見れば血気の壮年、乱暴書生ばかりで、中々一筋縄でも二筋縄でも始末に行かぬ人物の巣窟、その中に私が飛込で共に活溌に乱暴を働いた、けれども又自から外の者と少々違って居ると云うこともお話しなければならぬ。先ず第一に私の悪い事を申せば、生来酒を嗜むと云うのが一大欠点、成長した後には自からその悪い事を知ても、悪習既に性を成して自から禁ずることの出来なかったと云うことも、敢て包み隠さず明白に自首します。自分の悪い事を公けにするは余り面白くもないが、正味を言わねば事実談にならぬから、先ず一ト通り幼少以来の飲酒の歴史を語りましょう。抑も私の酒癖は、年齢の次第に成長するに従て飲覚え、飲慣れたと云うでなくして、生れたまゝ物心の出来た時から自然に数寄でした。今に記憶して居る事を申せば、幼少の頃、月代を剃るとき、頭の盆の窪を剃ると痛いから嫌がる。スルト剃て呉れる母が、「酒を給べさせるから此処を剃らせろと云うその酒が飲みたさ計りに、痛いのを我慢して泣かずに剃らして居た事は幽に覚えて居ます。天性の悪癖、誠に愧ずべき事です。その後、次第に年を重ねて弱冠に至るまで、外に何も法外な事は働かず行状は先ず正しい積りでしたが、俗に云う酒に目のない少年で、酒を見ては殆んど廉恥を忘れるほどの意気地なしと申して宜しい。
書き下し
私は是れまで緒方の塾に這入らずに屋敷から通って居たのであるが、安政三年の十一月頃から塾に這入て内塾生となり、是れが抑も私の書生生活、活動の始まりだ。元来緒方の塾と云うものは真実日進々歩主義の塾で、その中に這入て居る書生は皆活溌有為の人物であるが、一方から見れば血気の壮年、乱暴書生ばかりで、中々一筋縄でも二筋縄でも始末に行かぬ人物の巣窟、その中に私が飛込で共に活溌に乱暴を働いた、けれども又自から外の者と少々違って居ると云うこともお話しなければならぬ。先ず第一に私の悪い事を申せば、生来酒を嗜むと云うのが一大欠点、成長した後には自からその悪い事を知ても、悪習既に性を成して自から禁ずることの出来なかったと云うことも、敢て包み隠さず明白に自首します。自分の悪い事を公けにするは余り面白くもないが、正味を言わねば事実談にならぬから、先ず一ト通り幼少以来の飲酒の歴史を語りましょう。抑も私の酒癖は、年齢の次第に成長するに従て飲覚え、飲慣れたと云うでなくして、生れたまゝ物心の出来た時から自然に数寄でした。今に記憶して居る事を申せば、幼少の頃、月代を剃るとき、頭の盆の窪を剃ると痛いから嫌がる。スルト剃て呉れる母が、「酒を給べさせるから此処を剃らせろと云うその酒が飲みたさ計りに、痛いのを我慢して泣かずに剃らして居た事は幽に覚えて居ます。天性の悪癖、誠に愧ずべき事です。その後、次第に年を重ねて弱冠に至るまで、外に何も法外な事は働かず行状は先ず正しい積りでしたが、俗に云う酒に目のない少年で、酒を見ては殆んど廉恥を忘れるほどの意気地なしと申して宜しい。
現代語訳
私はこれまで緒方の塾に入らずに屋敷から通っていたのですが、安政三年の十一月頃から塾に入って内塾生となりました。これがそもそも私の書生生活、活動の始まりです。もともと緒方の塾というのは本当に日進月歩主義の塾で、その中に入っている書生はみな活発で有為の人物ですが、一方から見れば血気盛んな壮年、乱暴書生ばかりで、なかなか一筋縄でも二筋縄でも始末に行かない人物の巣窟でした。その中に私が飛び込んで、共に活発に乱暴を働きました。けれどもまた、自然と他の者と少し違っているということもお話ししなければなりません。 まず第一に私の悪いことを申せば、生来酒を好むというのが一大欠点で、成長した後には自分でその悪いことを知っても、悪習がすでに性になって自分では禁ずることができなかったということも、あえて包み隠さず明白に自首します。自分の悪いことを公けにするのはあまり面白くもありませんが、正味を言わねば事実談になりませんから、まず一通り幼少以来の飲酒の歴史を語りましょう。 そもそも私の酒癖は、年齢が次第に成長するにつれて飲み覚え、飲み慣れたというのではなく、生まれたまま物心がついた時から自然に好きでした。今に記憶していることを言えば、幼少の頃、月代を剃る時、頭の盆の窪を剃ると痛いから嫌がります。すると剃ってくれる母が、「酒を飲ませるからここを剃らせろ」と言う。その酒が飲みたいばかりに、痛いのを我慢して泣かずに剃らせていたことはかすかに覚えています。天性の悪癖、まことに恥ずべきことです。その後、次第に年を重ねて二十歳になるまで、ほかに何も法外なことはせず、行状はまず正しいつもりでしたが、俗に言う酒に目のない少年で、酒を見てはほとんど廉恥を忘れるほどの意気地なしと言ってよいでしょう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
福翁自伝・大阪修業・書生を懲らしめる(1)酒の話は幾らもあるが、安政二年の春、始めて長崎から出て緒方の塾に入門したその即日に、在塾の一書生が始めて私に遇て云うには、「君は何処から来たか。「長崎から来たと云うのが話の始まりで、その書生の云うに、「爾うか、以来は懇親にお交際したい。就ては酒を一献酌もうではないかと云うから、私が之に答えて、「始めてお目に掛て自分の事を云うようであるが、私は元来の酒客、然かも大酒だ。一献酌もうとは有難い、是非お供致したい、早速お供致したい。だが念の為めに申して置くが、私には金はない、実は長崎から出て末たばかりで、塾で修業するその学費さえ甚だ怪しい。有るか無いか分らない。矧や酒を飲むなどゝ云う金は一銭もない。是れだけは念の為めにお話して置くが、酒を飲みにお誘とは誠に辱ない。是非お供致そうと斯う出掛けた。所がその書生の云うに、「そんな馬鹿げた事があるものか、酒を飲みに行けば金の要るのは当然の話だ。夫ればかりの金のない筈はないじゃないかと云う。「何と云われても、ない金はないが、折角飲みに行こうと云うお誘だから是非行きたいものじゃと云うのが物分れでその日は仕舞い、翌日も屋敷から通って塾に行てその男に出遇い、「昨日のお話は立消になったが、如何だろうか。私は今日も酒が飲みたい連れて行て呉れないか、どうも行きたいと此方から促した処が、馬鹿云うなと云うような事で、お別れになって仕舞た。
-
福翁自伝・緒方の塾風左様云えば何か私が緒方塾の塾長で頻りに威張て自然に塾の風を矯正したように聞ゆるけれども、又一方から見れば酒を飲むことでは随分塾風を荒らした事もあろうと思う。塾長になっても相替らず元の貧書生なれども、その時の私の身の上は、故郷に在る母と姪と二人は藩から貰う少々ばかりの家禄で暮して居る、私は塾長になってから表向に先生家の賄を受けて、その上に新書生が入門するとき先生家に束脩を納めて同時に塾長へも金貳朱を朱を」]呈すと規則があるから、一箇月に入門生が三人あれば塾長には一分二朱の収入、五人あれば二分二朱にもなるから小遣銭には沢山で、是れが大抵酒の代になる。衣服は国の母が手織木綿の品を送て呉れて夫れには心配がないから、少しでも手許に金があれば直に飲むことを考える。是れが為めには同窓生の中で私に誘われてツイ/\飲だ者も多かろう。扨その飲みようも至極お租末、殺風景で、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買て来て塾中で独り飲む。夫れから少し都合の宜い時には一朱か二朱以て一寸と料理茶屋に行く、是れは最上の奢で容易に出来兼ねるから、先ず度々行くのは鶏肉屋、夫れよりモット便利なのは牛肉屋だ。その時大阪中で牛鍋を喰わせる処は唯二軒ある。一軒は難波橋の南詰、一軒は新町の廓の側にあって、最下等の店だから、凡そ人間らしい人で出入する者は決してない。文身だらけの町の破落戸と緒方の書生ばかりが得意の定客だ。何処から取寄せた肉だか、殺した牛やら、病死した牛やら、そんな事には頓着なし、一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛は随分硬くて臭かった。
-
福翁自伝・緒方の塾風・禁酒から煙草又私は酒の為めに生涯の大損をして、その損害は今日までも身に附て居ると云うその次第は、緒方の塾に学問修業しながら兎角酒を飲で宜いことは少しもない。是れは済まぬ事だと思い、恰も一念こゝに発起したように断然酒を止めた。スルト塾中の大評判ではない大笑で、「ヤア福澤が昨日から禁酒した。コリャ面白い、コリャ可笑しい。何時まで続くだろう。迚も十日は持てまい。三日禁酒で明日は飲むに違いないなんて冷かす者ばかりであるが、私も中々剛情に辛抱して十日も十五日も飲まずに居ると、親友の高橋順益が、「君の辛抱はエライ。能くも続く。見上げて遣るぞ。所が凡そ人間の習慣は、仮令い悪い事でも頓に禁ずることは宜しくない。到底出来ない事だから、君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに烟草を始めろ。何か一方に楽しみが無くては叶わぬと親切らしく云う。所が私は烟草が大嫌いで、是れまでも同塾生の烟草を喫むのを散々に悪く云うて、「こんな無益な不養生な訳の分らぬ物を喫む奴の気が知れない。何は扨置き臭くて穢なくて堪らん。乃公の側では喫んで呉れるななんて、愛想づかしの悪口を云て居たから、今になって自分が烟草を始めるのは如何もきまりが悪いけれども、高橋の説を聞けば亦無理でもない。「そんなら遣て見ようかと云てそろ/\試ると、塾中の者が烟草を呉れたり、烟管を貸したり、中には是れは極く軽い烟草だと云て態々買て来て呉れる者もあると云うような騒ぎは、何も本当な深切でも何でもない。実は私が不断烟草の事を悪くばかり云て居たものだから、今度は彼奴を喫烟者にして遣ろうと、寄って掛って私を愚弄するのは分って居るけれども、此方は一生懸命禁酒の熱心だから、忌な烟を無理に吹かして、十日も十五日もそろ/\慣らして居る中に、臭い辛いものが自然に臭くも辛くもなく、段々風味が善くなって来た。凡そ一箇月ばかり経て本当の喫烟客になった。処が例の酒だ。何としても忘れられない。卑怯とは知りながら一寸と一盃遣て見ると堪らない。モウ一盃、これでお仕舞と力んでも、徳利を振て見て音がすれば我慢が出来ない。とう/\三合の酒を皆飲で仕舞て、又翌日は五合飲む。五合、三合、従前の通りになって、去らば烟草の方は喫まぬむかしの通りにしようとしても是れも出来ず、馬鹿々々しいとも何とも訳けが分らない。迚も叶わぬ禁酒の発心、一箇月の大馬鹿をして酒と烟草と両刀遣いに成り果て、六十余歳の今年に至るまで、酒は自然に禁じたれども烟草は止みそうにもせず、衛生の為め自から作せる損害と申して一言の弁解はありません。
-
福翁自伝・老余の半生・漸く酒を節すソレカラ又酒の話になって、私が生得酒を好んでも、郷里に居るとき少年の身として自由に飲まれるものでもなし、長崎では一年の間、禁酒を守り、大阪に出てから随分自由に飲むことは飲んだが、兎角銭に窮して思うように行かず、年二十五歳のとき江戸に来て以来、嚢中も少し温かになって酒を買う位の事は出来るようになったから、勉強の傍ら飲むことを第一の楽みにして、朋友の家に行けば飲み、知る人が来ればスグに酒を命じて、客に勧めるよりも主人の方が嬉しがって飲むと云うような訳けで、朝でも昼でも晩でも時を嫌わず能くも飲みました。夫れから三十二、三歳の頃と思う。独り大に発明して、斯う飲んでは迚も寿命を全くすることは叶わぬ、左ればとて断然禁酒は、以前に覚えがある、唯一時の事で永続きが出来ぬ、詰り生涯の根気でそろ/\自から節するの外に道なしと決断したのは、支那人が阿片を罷めるようなもので随分苦しいが、先ず第一に朝酒を廃し、暫くして次ぎに昼酒を禁じたが、客のあるときは矢張り客来を名にして飲んで居たのを、漸く我慢して、後にはその客ばかりに進めて自分は一杯も飲まぬことにして、是れ丈けは如何やら斯うやら首尾能く出来て、サア今度は晩酌の一段になって、その全廃は迚も行われないから、そろ/\量を減ずることにしようと方針を定め、口では飲みたい、心では許さず、口と心と相反して喧嘩をするように争いながら、次第々々に減量して、稍や穏になるまでには三年も掛りました、と云うのは私が三十七歳のとき酷い熱病に罹て、万死一生の幸を得たそのとき、友医の説に、是れが以前のような大酒では迚も助かる道はないが、幸に今度の全快は近年節酒の賜に相違ないと云たのを覚えて居るから、私が生涯鯨飲の全盛は凡そ十年間と思われる。その後酒量は減ずるばかりで増すことはない。初めの間は自から制するようにして居たが、自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは、道徳上の謹慎と云うよりも年齢老却の所為でしょう。兎に角に人間が四十にも五十にもなって酒量が段々強くなって、遂には唯の清酒は利きが鈍いなんてブランデーだのウ※スキーだの飲む者があるが、アレは宜くない。苦しかろうが罷めるが上策だ。私の身に覚えがある。私のような無法な大酒家でも、三十四、五歳のときトウ/\酒慾を征伐して勝利を得たから、況して今の大酒家と云ても私より以上の者は先ず少ない、高の知れた酒客の葉武者だ、そろ/\遣れば節酒も禁酒も屹と出来ましょう。
-
福翁自伝・老余の半生・身体の養生扨又心の養生法は右の如しとして、身の養生は如何だと申すに、私の身に極めて宜しくない極めて赤面すべき悪癖は、幼少の時から酒を好む一条で、然かも図抜けの大酒、世間には大酒をしても必ずしも酒が旨いとは思わず、飲んでも飲まなくても宜いと云う人があるが、私は左様でない。私の口には酒が旨くて多く飲みたいその上に、上等の銘酒を好んで、酒の良否が誠に能く分る。先年中一樽の価七、八円のとき、上下五十銭も相違すれば、先ず価を聞かずにチャンとその風味を飲み分けると云うような黒人で、その上等の酒をウンと飲んで、肴も良い肴を沢山喰い、満腹飲食した跡で飯もドッサリ給べて残す所なしと云う、誠に意地の穢ない所謂牛飲馬食とも云うべき男である。尚おその上に、この賤しむべき男が酒に酔て酔狂でもすれば自から警めると云うこともあろうが、大酒の癖に酒の上が決して悪くない。酔えば唯大きな声をして饒舌るばかり、遂ぞ人の気になるような忌がるような根性の悪いことを云て喧嘩をしたこともなければ、上戸本性真面目になって議論したこともないから、人に邪魔にされない。是れが却て不幸で、本人は宜い気になって、酒とさえ云えば一番先きに罷出て、人の一倍も二倍も三倍も飲んで天下に敵なしなんて得意がって居たのは、返す/\も愧かしい事であるが、酒の事を除てその外になれば、私は少年の時から宜い加減な摂生家と云ても宜しい。何も別段に摂生をしようなんてソンな六かしい考のあろうようもないが、日に三度の食事の外にメッタに物を食わない。或は母が給べさせなかったのか知らぬが、幼少から癖になって間の食物が欲しくない。殊に晩食の後、夜になれば如何なる好物があっても口に入れることが出来ない。例えば親類の不幸に通夜するとか、又は近火の騒ぎに夜を更かすとかして、自然に其処に食物が出て来ても食う気にならぬ。是れは母に仕込まれた習慣が生涯残て居るのでしょう。摂生の為めには最も宜しい習慣です。又私は随分気の長い方でない、何事もテキパキ早く遣ると云う風で、時としては人に笑われるような事も多い。所が三度の食事となると丸で別人のように変化して、何としても早く食うことが出来ない。子供の時に早飯と何とやらは武士の嗜なんと云て、人に悪く云われた事もあり、又自分でも早く食いたいと思て居たが、何分にも頬張て生噛にして食うことが出来ない。その後西洋流の書を読んで生噛の宜しくない事を知て、始めて是れは却て自分の悪い癖が宜い事になったと合点して大きに悦び、爾来憚る所もなくゆる/\食事をして、凡そ人の一、二倍も時を費します。是れも摂生の為めに甚だ宜しい。
-
福翁自伝・緒方の塾風・塾生の勉強(2)それから緒方の塾に這入てからも私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分に若し酒があれば酒を飲で初更に寝る。一寝して目が覚ると云うのが今で云えば十時か十時過、それからヒョイと起きて書を読む。夜明まで書を読んで居て、台所の方で塾の飯炊がコト/\飯を焚く仕度をする音が聞えると、それを相図に又寝る。寝て丁度飯の出来上った頃起きて、その儘湯屋に行て朝湯に這入て、それから塾に帰て朝飯を給べて又書を読むと云うのが、大抵緒方の塾に居る間殆んど常極りであった。勿論衛生などゝ云うことは頓と構わない。全体は医者の塾であるから衛生論も喧しく言いそうなものであるけれども、誰も気が付かなかったのか或は思出さなかったのか、一寸でも喧しく云たことはない。それで平気で居られたと云うのは、考えて見れば身体が丈夫であったのか、或は又衛生々々と云うようなことを無闇に喧しく云えば却て身体が弱くなると思て居たのではないかと思われる。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る