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福翁自伝 / 大阪修業・書生を懲らしめる(1)

酒の話は幾らもあるが、安政二年の春、始めて長崎から出て緒方の塾に入門したその即日に、在塾の一書生が始めて私に遇て云うには、「君は何処から来たか。「長崎から来たと云うのが話の始まりで、その書生の云うに、「爾うか、以来は懇親にお交際したい。就ては酒を一献酌もうではないかと云うから、私が之に答えて、「始めてお目に掛て自分の事を云うようであるが、私は元来の酒客、然かも大酒だ。一献酌もうとは有難い、是非お供致したい、早速お供致したい。だが念の為めに申して置くが、私には金はない、実は長崎から出て末たばかりで、塾で修業するその学費さえ甚だ怪しい。有るか無いか分らない。矧や酒を飲むなどゝ云う金は一銭もない。是れだけは念の為めにお話して置くが、酒を飲みにお誘とは誠に辱ない。是非お供致そうと斯う出掛けた。所がその書生の云うに、「そんな馬鹿げた事があるものか、酒を飲みに行けば金の要るのは当然の話だ。夫ればかりの金のない筈はないじゃないかと云う。「何と云われても、ない金はないが、折角飲みに行こうと云うお誘だから是非行きたいものじゃと云うのが物分れでその日は仕舞い、翌日も屋敷から通って塾に行てその男に出遇い、「昨日のお話は立消になったが、如何だろうか。私は今日も酒が飲みたい連れて行て呉れないか、どうも行きたいと此方から促した処が、馬鹿云うなと云うような事で、お別れになって仕舞た。

書き下し

酒の話は幾らもあるが、安政二年の春、始めて長崎から出て緒方の塾に入門したその即日に、在塾の一書生が始めて私に遇て云うには、「君は何処から来たか。「長崎から来たと云うのが話の始まりで、その書生の云うに、「爾うか、以来は懇親にお交際したい。就ては酒を一献酌もうではないかと云うから、私が之に答えて、「始めてお目に掛て自分の事を云うようであるが、私は元来の酒客、然かも大酒だ。一献酌もうとは有難い、是非お供致したい、早速お供致したい。だが念の為めに申して置くが、私には金はない、実は長崎から出て末たばかりで、塾で修業するその学費さえ甚だ怪しい。有るか無いか分らない。矧や酒を飲むなどゝ云う金は一銭もない。是れだけは念の為めにお話して置くが、酒を飲みにお誘とは誠に辱ない。是非お供致そうと斯う出掛けた。所がその書生の云うに、「そんな馬鹿げた事があるものか、酒を飲みに行けば金の要るのは当然の話だ。夫ればかりの金のない筈はないじゃないかと云う。「何と云われても、ない金はないが、折角飲みに行こうと云うお誘だから是非行きたいものじゃと云うのが物分れでその日は仕舞い、翌日も屋敷から通って塾に行てその男に出遇い、「昨日のお話は立消になったが、如何だろうか。私は今日も酒が飲みたい連れて行て呉れないか、どうも行きたいと此方から促した処が、馬鹿云うなと云うような事で、お別れになって仕舞た。

現代語訳

酒の話はいくらでもありますが、安政二年の春、初めて長崎から出て緒方の塾に入門したその日に、在塾の一書生が初めて私に会って言うには、「君はどこから来たか」。「長崎から来た」というのが話の始まりで、その書生が言うには、「そうか、以後は親しくお付き合いしたい。ついては酒を一献酌もうではないか」。そこで私がこれに答えて、「初めてお目にかかって自分のことを言うようだが、私はもともと酒好きで、しかも大酒だ。一献酌もうとはありがたい、ぜひお供したい、早速お供したい。だが念のために申しておくが、私には金がない。実は長崎から出て来たばかりで、塾で修業するその学費さえはなはだ怪しい。あるかないか分からない。まして酒を飲むなどという金は一銭もない。これだけは念のためにお話しておくが、酒を飲みにお誘いくださるとは誠にありがたい。ぜひお供しよう」とこう出かけました。 ところがその書生が言うには、「そんな馬鹿げたことがあるものか、酒を飲みに行けば金が要るのは当然の話だ。それだけの金がないはずはないじゃないか」。「何と言われても、ない金はないが、せっかく飲みに行こうというお誘いだから、ぜひ行きたいものじゃ」というのが物分かれで、その日は終わり、翌日も屋敷から通って塾に行ってその男に出会い、「昨日のお話は立ち消えになったが、どうだろうか。私は今日も酒が飲みたい。連れて行ってくれないか、どうも行きたい」とこちらから促したところ、「馬鹿を言うな」というようなことで、お別れになってしまいました。

解説

入門初日、酒に誘ってきた先輩に対し、福沢は金がないと正直に告げた上で、それでも行きたいと返します。新入りから酒代を引き出そうとした書生の意図を、無一文という事実で崩しました。1855年(安政二年)の適塾では、新入生は束脩を納めていたため、先輩が金をたかる風習があったと見られます。堂々と自分の状況を明かしたため、相手は何も言えなくなったのです。相手の思惑に乗らず、事実を明言して立場を守る強さがここにあります。

この章句が説くこと

入門酒先輩無一文正直たかり

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