福翁自伝 / 緒方の塾風
左様云えば何か私が緒方塾の塾長で頻りに威張て自然に塾の風を矯正したように聞ゆるけれども、又一方から見れば酒を飲むことでは随分塾風を荒らした事もあろうと思う。塾長になっても相替らず元の貧書生なれども、その時の私の身の上は、故郷に在る母と姪と二人は藩から貰う少々ばかりの家禄で暮して居る、私は塾長になってから表向に先生家の賄を受けて、その上に新書生が入門するとき先生家に束脩を納めて同時に塾長へも金貳朱を朱を」]呈すと規則があるから、一箇月に入門生が三人あれば塾長には一分二朱の収入、五人あれば二分二朱にもなるから小遣銭には沢山で、是れが大抵酒の代になる。衣服は国の母が手織木綿の品を送て呉れて夫れには心配がないから、少しでも手許に金があれば直に飲むことを考える。是れが為めには同窓生の中で私に誘われてツイ/\飲だ者も多かろう。扨その飲みようも至極お租末、殺風景で、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買て来て塾中で独り飲む。夫れから少し都合の宜い時には一朱か二朱以て一寸と料理茶屋に行く、是れは最上の奢で容易に出来兼ねるから、先ず度々行くのは鶏肉屋、夫れよりモット便利なのは牛肉屋だ。その時大阪中で牛鍋を喰わせる処は唯二軒ある。一軒は難波橋の南詰、一軒は新町の廓の側にあって、最下等の店だから、凡そ人間らしい人で出入する者は決してない。文身だらけの町の破落戸と緒方の書生ばかりが得意の定客だ。何処から取寄せた肉だか、殺した牛やら、病死した牛やら、そんな事には頓着なし、一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛は随分硬くて臭かった。
書き下し
左様云えば何か私が緒方塾の塾長で頻りに威張て自然に塾の風を矯正したように聞ゆるけれども、又一方から見れば酒を飲むことでは随分塾風を荒らした事もあろうと思う。塾長になっても相替らず元の貧書生なれども、その時の私の身の上は、故郷に在る母と姪と二人は藩から貰う少々ばかりの家禄で暮して居る、私は塾長になってから表向に先生家の賄を受けて、その上に新書生が入門するとき先生家に束脩を納めて同時に塾長へも金貳朱を朱を」]呈すと規則があるから、一箇月に入門生が三人あれば塾長には一分二朱の収入、五人あれば二分二朱にもなるから小遣銭には沢山で、是れが大抵酒の代になる。衣服は国の母が手織木綿の品を送て呉れて夫れには心配がないから、少しでも手許に金があれば直に飲むことを考える。是れが為めには同窓生の中で私に誘われてツイ/\飲だ者も多かろう。扨その飲みようも至極お租末、殺風景で、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買て来て塾中で独り飲む。夫れから少し都合の宜い時には一朱か二朱以て一寸と料理茶屋に行く、是れは最上の奢で容易に出来兼ねるから、先ず度々行くのは鶏肉屋、夫れよりモット便利なのは牛肉屋だ。その時大阪中で牛鍋を喰わせる処は唯二軒ある。一軒は難波橋の南詰、一軒は新町の廓の側にあって、最下等の店だから、凡そ人間らしい人で出入する者は決してない。文身だらけの町の破落戸と緒方の書生ばかりが得意の定客だ。何処から取寄せた肉だか、殺した牛やら、病死した牛やら、そんな事には頓着なし、一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛は随分硬くて臭かった。
現代語訳
そう言えば、何か私が緒方塾の塾長で、しきりに威張って自然と塾の風を矯正したように聞こえますが、また一方から見れば、酒を飲むことではずいぶん塾風を荒らしたこともあったと思います。塾長になっても相変わらず元の貧書生ですが、その時の私の身の上は、故郷にいる母と姪の二人は藩から貰うわずかな家禄で暮らし、私は塾長になってから表向きに先生家の賄いを受け、その上に、新書生が入門する時、先生家に束脩を納めると同時に塾長へも金二朱を呈す規則があるので、一箇月に入門生が三人あれば塾長には一分二朱の収入、五人あれば二分二朱にもなり、小遣い銭には十分で、これがだいたい酒代になりました。衣服は国の母が手織り木綿の品を送ってくれるので心配がなく、少しでも手元に金があれば、すぐに飲むことを考えます。このために、同窓生の中で私に誘われてついつい飲んだ者も多かったでしょう。 さてその飲みようも至ってお粗末で殺風景で、銭の乏しい時は酒屋で三合か五合買って来て、塾中で独り飲みます。それから少し都合のよい時には、一朱か二朱を持ってちょっと料理茶屋に行きます。これは最上の贅沢で容易にできないので、まずたびたび行くのは鶏肉屋、それよりもっと便利なのは牛肉屋です。その時、大阪中で牛鍋を食べさせる所はたった二軒ありました。一軒は難波橋の南詰、一軒は新町の廓の側にあって、最下等の店だから、およそ人間らしい人で出入りする者は決していません。入れ墨だらけの町のごろつきと緒方の書生だけが得意の常連でした。どこから取り寄せた肉だか、殺した牛やら病死した牛やら、そんなことには頓着なし。一人前百五十文ばかりで、牛肉と酒と飯と十分の飲食でしたが、牛はずいぶん硬くて臭かったものです。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・大阪修業・書生の生活酒の悪癖(1)私は是れまで緒方の塾に這入らずに屋敷から通って居たのであるが、安政三年の十一月頃から塾に這入て内塾生となり、是れが抑も私の書生生活、活動の始まりだ。元来緒方の塾と云うものは真実日進々歩主義の塾で、その中に這入て居る書生は皆活溌有為の人物であるが、一方から見れば血気の壮年、乱暴書生ばかりで、中々一筋縄でも二筋縄でも始末に行かぬ人物の巣窟、その中に私が飛込で共に活溌に乱暴を働いた、けれども又自から外の者と少々違って居ると云うこともお話しなければならぬ。先ず第一に私の悪い事を申せば、生来酒を嗜むと云うのが一大欠点、成長した後には自からその悪い事を知ても、悪習既に性を成して自から禁ずることの出来なかったと云うことも、敢て包み隠さず明白に自首します。自分の悪い事を公けにするは余り面白くもないが、正味を言わねば事実談にならぬから、先ず一ト通り幼少以来の飲酒の歴史を語りましょう。抑も私の酒癖は、年齢の次第に成長するに従て飲覚え、飲慣れたと云うでなくして、生れたまゝ物心の出来た時から自然に数寄でした。今に記憶して居る事を申せば、幼少の頃、月代を剃るとき、頭の盆の窪を剃ると痛いから嫌がる。スルト剃て呉れる母が、「酒を給べさせるから此処を剃らせろと云うその酒が飲みたさ計りに、痛いのを我慢して泣かずに剃らして居た事は幽に覚えて居ます。天性の悪癖、誠に愧ずべき事です。その後、次第に年を重ねて弱冠に至るまで、外に何も法外な事は働かず行状は先ず正しい積りでしたが、俗に云う酒に目のない少年で、酒を見ては殆んど廉恥を忘れるほどの意気地なしと申して宜しい。
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福翁自伝・緒方の塾風・塾生裸体当時は士族の世の中だから皆大小は挟して居る、けれども内塾生五、六十人の中で、私は元来物を質入れしたことがないから、双刀はチャント持て居るその外、塾中に二腰か三腰もあったが、跡は皆質に置て仕舞て、塾生の誰か所持して居るその刀が恰も共有物で、是れでも差支のないと云うは、銘々倉屋敷にでも行くときに二本挟すばかりで、不断は脇差一本、たゞ丸腰にならぬ丈けの事であったから。夫れから大阪は暖い処だから冬は難渋な事はないが、夏は真実の裸体、褌も襦袢も何もない真裸体。勿論飯を喫う時と会読をする時には自から遠慮するから何か一枚ちょいと引掛ける、中にも絽の羽織を真裸体の上に着てる者が多い。是れは余程おかしな風で、今の人が見たら、さぞ笑うだろう。食事の時には迚も座って喰うなんと云うことは出来た話でない。足も踏立てられぬ板敷だから、皆上草履を穿て立て喰う。一度は銘々に別けてやったこともあるけれども、爾うは続かぬ。お鉢が其処に出してあるから、銘々に茶碗に盛て百鬼立食。ソンナ訳けだから食物の価も勿論安い。お菜は一六が葱と薩摩芋の難波煮、五十が豆腐汁、三八が蜆汁と云うようになって居て、今日は何か出ると云うことは極って居る。
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福翁自伝・大阪修業・書生を懲らしめる(1)酒の話は幾らもあるが、安政二年の春、始めて長崎から出て緒方の塾に入門したその即日に、在塾の一書生が始めて私に遇て云うには、「君は何処から来たか。「長崎から来たと云うのが話の始まりで、その書生の云うに、「爾うか、以来は懇親にお交際したい。就ては酒を一献酌もうではないかと云うから、私が之に答えて、「始めてお目に掛て自分の事を云うようであるが、私は元来の酒客、然かも大酒だ。一献酌もうとは有難い、是非お供致したい、早速お供致したい。だが念の為めに申して置くが、私には金はない、実は長崎から出て末たばかりで、塾で修業するその学費さえ甚だ怪しい。有るか無いか分らない。矧や酒を飲むなどゝ云う金は一銭もない。是れだけは念の為めにお話して置くが、酒を飲みにお誘とは誠に辱ない。是非お供致そうと斯う出掛けた。所がその書生の云うに、「そんな馬鹿げた事があるものか、酒を飲みに行けば金の要るのは当然の話だ。夫ればかりの金のない筈はないじゃないかと云う。「何と云われても、ない金はないが、折角飲みに行こうと云うお誘だから是非行きたいものじゃと云うのが物分れでその日は仕舞い、翌日も屋敷から通って塾に行てその男に出遇い、「昨日のお話は立消になったが、如何だろうか。私は今日も酒が飲みたい連れて行て呉れないか、どうも行きたいと此方から促した処が、馬鹿云うなと云うような事で、お別れになって仕舞た。
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福翁自伝・大阪修業・塾長になるその後私の学問も少しは進歩した折柄、先輩の人は国に帰る、塾中無人にて遂に私が塾長になった。扨塾長になったからと云て、元来の塾風で塾長に何も権力のあるではなし、唯塾中一番六かしい原書を会読するときその会頭を勤める位のことで、同窓生の交際に少しも軽重はない。塾長殿も以前の通りに読書勉強して、勉強の間にはあらん限りの活動ではないどうかと云えば先ず乱暴をして面白がって居ることだから、その乱暴生が徳義を以て人を感化するなど云う鹿爪らしい事を考える訳けもない。又塾風を善くすれば先生に対しての御奉公、御恩報じになると、そんな老人めいた心のあろう筈もないが、唯私の本来仮初にも弱い者いじめをせず、仮初にも人の物を貪らず、人の金を借用せず、唯の百文も借りたることはないその上に、品行は清浄潔白にして俯仰天地に愧ずと云う、自から外の者と違う処があるから、一緒になってワイ/\云て居ながら、マア一口に云えば、同窓生一人も残らず自分の通りになれ、又自分の通りにして遣ろうと云うような血気の威張りであったろうと今から思うだけで、決して道徳とか仁義とか又大恩の先生に忠義とか、そんな奥ゆかしい事は更らに覚えはなかったのです。併し何でも爾う威張り廻って暴れたのが、塾の為めに悪い事もあろう、又自から役に立たこともあるだろうと思う。若し役に立て居れば夫れは偶然で、決して私の手柄でも何でもありはしない。
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福翁自伝・緒方の塾風・塾生の勉強(2)それから緒方の塾に這入てからも私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分に若し酒があれば酒を飲で初更に寝る。一寝して目が覚ると云うのが今で云えば十時か十時過、それからヒョイと起きて書を読む。夜明まで書を読んで居て、台所の方で塾の飯炊がコト/\飯を焚く仕度をする音が聞えると、それを相図に又寝る。寝て丁度飯の出来上った頃起きて、その儘湯屋に行て朝湯に這入て、それから塾に帰て朝飯を給べて又書を読むと云うのが、大抵緒方の塾に居る間殆んど常極りであった。勿論衛生などゝ云うことは頓と構わない。全体は医者の塾であるから衛生論も喧しく言いそうなものであるけれども、誰も気が付かなかったのか或は思出さなかったのか、一寸でも喧しく云たことはない。それで平気で居られたと云うのは、考えて見れば身体が丈夫であったのか、或は又衛生々々と云うようなことを無闇に喧しく云えば却て身体が弱くなると思て居たのではないかと思われる。
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福翁自伝・緒方の塾風・不潔に頓着せず塾員は不規則と云わんか不整頓と云わんか乱暴狼藉、丸で物事に無頓着。その無頓着の極は世間で云うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止めない。例えば、塾の事であるから勿論桶だの丼だの皿などの、あろう筈はないけれども、緒方の塾生は学塾の中に居ながら七輪もあれば鍋もあって、物を煮て喰うと云うような事を不断遣て居る、その趣は恰も手鍋世帯の台所見たような事を机の周囲で遣て居た。けれども道具の足ると云うことのあろう筈はない。ソコで洗手盥も金盥も一切食物調理の道具になって、暑中など何処からか素麺を貰うと、その素麺を奥の台所で湯煮て貰うて、その素麺を冷すには、毎朝、顔を洗う洗手盥を持て来て、その中で冷素麺にして、汁を拵えるに調合所の砂糖でも盗み出せば上出来、その外、肴を拵えるにも野菜を洗うにも洗手盥は唯一のお道具で、ソンナ事は少しも汚ないと思わなかった。 夫れ所ではない。虱は塾中永住の動物で、誰れ一人も之を免かれることは出来ない。一寸と裸体になれば五疋も十疋も捕るに造作はない。春先き少し暖気になると羽織の襟に匍出すことがある。或る書生の説に、ドウダ、吾々の虱は大阪の焼芋に似て居る。冬中が真盛りで、春になり夏になると次第に衰えて、暑中二、三箇月蚤と交代して引込み、九月頃新芋が町に出ると吾々の虱も復た出て来るのは可笑しいと云た事がある。私は一案を工風し、抑も虱を殺すに熱湯を用うるは洗濯婆の旧筆法で面白くない、乃公が一発で殺して見せようと云て、厳冬の霜夜に襦袢を物干に洒して虱の親も玉子も一時に枯らしたことがある。この工風は私の新発明ではない、曾て誰れかに聞たことがあるから遣て見たのです。
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