福翁自伝 / 大阪修業・先生の大恩、緒方の食客となる
船中無事大阪に着たのは宜しいが、唯生きて身体が着た計りで、扨て修業をすると云う手当は何もない。ハテ如何したものかと思た所が仕方がない。何しろ先生の処へ行てこの通り言おうと思て、夫から、大阪着はその歳の十一月頃と思う、その足で緒方へ行て、「私は兄の不幸、斯う/\云う次第で又出て参りましたと先ず話をして、夫から私は先生だからほんとうの親と同じ事で何も隠すことはない、家の借金の始末、家財を売払うた事から、一切万事何もかも打明けて、彼の原書写本の一条まで真実を話して、「実は斯う云う築城書を盗写してこの通り持て参りましたと云た所が、先生は笑て、「爾うか、ソレは一寸との間に怪しからぬ悪い事をしたような又善い事をしたような事じゃ。何は扨置き貴様は大造見違えたように丈夫になった。「左様で御在ます。身体は病後ですけれども、今歳の春大層御厄介になりましたその時の事はモウ覚えませぬ。元の通り丈夫になりました。「それは結構だ。ソコデお前は一切聞て見ると如何しても学費のないと云うことは明白に分ったから、私が世話をして遣りたい、けれども外の書生に対して何かお前一人に贔屓するようにあっては宜くない。待て/\。その原書は面白い。就ては乃公がお前に云付けてこの原書を訳させると、斯う云うことに仕よう、そのつもりで居なさいと云て、ソレカラ私は緒方の食客生になって、医者の家だから食客生と云うのは調合所の者より外にありはしませぬが、私は医者でなくて只飜訳と云う名義で医家の食客生になって居るのだから、その意味は全く先生と奥方との恩恵好意のみ、実際に飜訳はしてもしなくても宜いのであるけれども、嘘から出た誠で、私はその原書を飜訳して仕舞いました。
新字:船中無事大阪に着たのは宜しいが、唯生きて身体が着た計りで、扨て修業をすると云う手当は何もない。ハテ如何したものかと思た所が仕方がない。何しろ先生の処へ行てこの通り言おうと思て、夫から、大阪着はその歳の十一月頃と思う、その足で緒方へ行て、「私は兄の不幸、斯う/\云う次第で又出て参りましたと先ず話をして、夫から私は先生だからほんとうの親と同じ事で何も隠すことはない、家の借金の始末、家財を売払うた事から、一切万事何もかも打明けて、彼の原書写本の一条まで真実を話して、「実は斯う云う築城書を盗写してこの通り持て参りましたと云た所が、先生は笑て、「爾うか、ソレは一寸との間に怪しからぬ悪い事をしたような又善い事をしたような事じゃ。何は扨置き貴様は大造見違えたように丈夫になった。「左様で御在ます。身体は病後ですけれども、今歳の春大層御厄介になりましたその時の事はモウ覚えませぬ。元の通り丈夫になりました。「それは結構だ。ソコデお前は一切聞て見ると如何しても学費のないと云うことは明白に分ったから、私が世話をして遣りたい、けれども外の書生に対して何かお前一人に贔屓するようにあっては宜くない。待て/\。その原書は面白い。就ては乃公がお前に云付けてこの原書を訳させると、斯う云うことに仕よう、そのつもりで居なさいと云て、ソレカラ私は緒方の食客生になって、医者の家だから食客生と云うのは調合所の者より外にありはしませぬが、私は医者でなくて只翻訳と云う名義で医家の食客生になって居るのだから、その意味は全く先生と奥方との恩恵好意のみ、実際に翻訳はしてもしなくても宜いのであるけれども、嘘から出た誠で、私はその原書を翻訳して仕舞いました。
書き下し
船中無事大阪に着たのは宜しいが、唯生きて身体が着た計りで、扨て修業をすると云う手当は何もない。ハテ如何したものかと思た所が仕方がない。何しろ先生の処へ行てこの通り言おうと思て、夫から、大阪着はその歳の十一月頃と思う、その足で緒方へ行て、「私は兄の不幸、斯う/\云う次第で又出て参りましたと先ず話をして、夫から私は先生だからほんとうの親と同じ事で何も隠すことはない、家の借金の始末、家財を売払うた事から、一切万事何もかも打明けて、彼の原書写本の一条まで真実を話して、「実は斯う云う築城書を盗写してこの通り持て参りましたと云た所が、先生は笑て、「爾うか、ソレは一寸との間に怪しからぬ悪い事をしたような又善い事をしたような事じゃ。何は扨置き貴様は大造見違えたように丈夫になった。「左様で御在ます。身体は病後ですけれども、今歳の春大層御厄介になりましたその時の事はモウ覚えませぬ。元の通り丈夫になりました。「それは結構だ。ソコデお前は一切聞て見ると如何しても学費のないと云うことは明白に分ったから、私が世話をして遣りたい、けれども外の書生に対して何かお前一人に贔屓するようにあっては宜くない。待て/\。その原書は面白い。就ては乃公がお前に云付けてこの原書を訳させると、斯う云うことに仕よう、そのつもりで居なさいと云て、ソレカラ私は緒方の食客生になって、医者の家だから食客生と云うのは調合所の者より外にありはしませぬが、私は医者でなくて只飜訳と云う名義で医家の食客生になって居るのだから、その意味は全く先生と奥方との恩恵好意のみ、実際に飜訳はしてもしなくても宜いのであるけれども、嘘から出た誠で、私はその原書を飜訳して仕舞いました。
現代語訳
船中は無事で大阪に着いたのはよいのですが、ただ生きて身体が着いただけで、さて修業をする手当ては何もありません。さてどうしたものかと思ったところで仕方がない。とにかく先生のところへ行ってこの通り言おうと思って、それから、大阪着はその年の十一月頃と思いますが、その足で緒方へ行き、「私は兄の不幸、こうこういう次第で、また出て参りました」とまず話をして、それから私は先生に対して、本当の親と同じことで何も隠すことはないと、家の借金の始末、家財を売り払ったことから、一切万事何もかも打ち明けて、あの原書写本の一件まで真実を話して、「実はこういう築城書を盗み写して、このまま持って参りました」と言ったところ、先生は笑って、「そうか、それはちょっとの間に、けしからぬ悪いことをしたような、また善いことをしたようなことじゃ。何はさておき、お前は大層見違えたように丈夫になった」。「さようでございます。身体は病後ですけれども、今年の春、大層お世話になったその時のことはもう覚えません。元の通り丈夫になりました。」「それは結構だ。ところでお前は、一切聞いてみると、どうしても学費のないことは明白に分かったから、私が世話をしてやりたい。けれども他の書生に対して、何かお前一人を贔屓するようではよくない。待て待て。その原書は面白い。ついては俺がお前に言い付けて、この原書を訳させる、こういうことにしよう。そのつもりでいなさい」と言いました。 それから私は緒方の食客生になりました。医者の家ですから、食客生というのは調合所の者のほかにありませんが、私は医者でなくただ翻訳という名義で、医家の食客生になったのです。その意味はまったく先生と奥方の恩恵と好意だけで、実際に翻訳はしてもしなくてもよいのですが、嘘から出た誠で、私はその原書を翻訳してしまいました。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・大阪修業・築城書を盗写す(1)夫れは夫れとして、私が今度不幸で中津に帰て居るその間に一つ仕事をしました、と云うのはその時に奥平壹岐と云う人が長崎から帰て居たから、勿論私は御機嫌伺に出なければならぬ。或日奥平の屋敷に推参して久々の面会、四方山の話の序に、主人公が一冊の原書を出して、「この本は乃公が長崎から持て来た和蘭新版の築城書であると云うその書を見た所が、勿論私などは大阪に居ても緒方の塾は医学塾であるから、医書、窮理書の外に遂ぞそんな原書を見たことはないから、随分珍書だと先ず私は感心しなければならぬ、と云うのはその時は丁度ペルリ渡来の当分で、日本国中、海防軍備の話が中々喧しいその最中に、この築城書を見せられたから誠に珍しく感じて、その原書が読で見たくて堪らない。けれども是れは貸せと云た所が貸す気遣はない。夫れからマア色々話をする中に、主人が「この原書は安く買うた。二十三両で買えたから」なんと云うたのには、実に貧書生の胆を潰すばかり。迚も自分に買うことは出来ず、左ればとてゆるりと貸す気遣はないのだから、私は唯原書を眺めて心の底で独り貧乏を歎息して居るその中に、ヒョイと胸に浮んだ一策を遣て見た。「成程是れは結構な原書で御在ます。迚も之を読で仕舞うと云うことは急な事では出来ません。責めては図と目録とでも一通り拝見したいものですが、四、五日拝借は叶いますまいかと手軽に触って見たらば、「よし貸そう」と云て貸して呉れたこそ天与の僥倖、ソレカラ私は家に持て帰て、即刻鵞筆と墨と紙を用意してその原書を初から写掛けた。凡そ二百頁余のものであったと思う。それを写すに就ては誰にも言われぬのは勿論、写す処を人に見られては大変だ。家の奥の方に引込んで一切客に遇わずに、昼夜精切り一杯、根のあらん限り写した。そのとき私は藩の御用で城の門の番をする勤があって、二、三日目に一昼夜当番する順になるから、その時には昼は写本を休み、夜になれば窃と写物を持出して、朝、城門の明くまで写して、一目も眠らないのは毎度のことだが、又この通りに勉強しても、人間世界は壁に耳あり眼もあり、既に人に悟られて今にも原書を返せとか何とか云て来はしないだろうか、いよ/\露顕すれば唯原書を返したばかりでは済まぬ、御家老様の剣幕で中々六かしくなるだろうと思えば、その心配は堪らない。
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福翁自伝・長崎遊学・贋手紙を作るその間の道中と云うものは随分困りました。一人旅、殊に何処の者とも知れぬ貧乏そうな若侍、若し行倒になるか暴れでもすれば宿屋が迷惑するから容易に泊めない。もう宿の善悪は択ぶに暇なく、只泊めて呉れさえすれば宜しいと云うので無暗に歩行いて、何か斯か二晩泊って三日目に小倉に着きました。その道中で私は手紙を書いて即ち鉄屋惣兵衛の贋手紙を拵えて、「この御方は中津の御家中、中村何様の若旦那で、自分は始終そのお屋敷に出入して決して間違なき御方だから厚く頼むと鹿爪らしき手紙の文句で、下ノ関船場屋寿久右衛門へ宛て鉄屋惣兵衛の名前を書いてちゃんと封をして、明日下ノ関に渡てこの手紙を用に立てんと思い、小倉までたどり付て泊った時はおかしかった。彼方此方マゴマゴして、小倉中、宿を捜したが、何処でも泊めない。ヤット一軒泊めて呉れた所が薄汚ない宿屋で、相宿の同間に人が寝て居る。スルト夜半に枕辺で小便する音がする。何だと思うと中風病の老爺が、しびんに遣てる。実は客ではない、その家の病人でしょう。その病人と並べて寝かされたので、汚くて堪らなかったのは能く覚えて居ます。 それから下ノ関の渡場を渡て、船場屋を捜し出して、兼て用意の贋手紙を持て行た所が、成程鉄屋とは懇意な家と見える、手紙を一見して早速泊めて呉れて、万事能く世話をして呉れて、大阪まで船賃が一分二朱、賄の代は一日若干、ソコデ船賃を払うた外に二百文か三百文しか残らぬ。併し大阪に行けば中津の倉屋敷で賄の代を払う事にして、是れも船宿で心能く承知して呉れる。悪い事だが全く贋手紙の功徳でしょう。
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福翁自伝・大阪修業兄の申すことには私も逆らうことが出来ず、大阪に足を止めまして、緒方先生の塾に入門したのは安政二年卯歳の三月でした。その前長崎に居る時には勿論蘭学の稽古をしたので、その稽古をした所は楢林と云う和蘭通詞の家、同じく楢林と云う医者の家、それから石川桜所と云う蘭法医師、この人は長崎に開業して居て立派な門戸を張て居る大家であるから、中々入門することは出来ない。ソコで其処の玄関に行て調合所の人などに習って居たので、爾う云うように彼方此方にちょい/\と教えて呉れるような人があれば其処へ行く。何処の何某に便り誰の門人になってミッチリ蘭書を読だと云うことはないので、ソコで大阪に来て緒方に入門したのは是れが本当に蘭学修業の始まり、始めて規則正しく書物を教えて貰いました。その時にも私は学業の進歩が随分速くて、塾中には大勢書生があるけれども、その中ではマア出来の宜い方であったと思う。
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福翁自伝・大阪修業・築城書を盗写す(2)生れてから泥坊をしたことはないが、泥坊の心配も大抵こんなものであろうと推察しながら、とう/\写し終りて、図が二枚あるその図も写して仕舞て、サア出来上った。出来上ったが読合せに困る。是れが出来なくては大変だと云うと、妙な事もあるもので、中津に和蘭のスペルリングの読めるものが只た一人ある。それは藤野啓山と云う医者で、この人は甚だ私の処に縁がある、と云うのは私の父が大阪に居る時に、啓山が医者の書生で、私の家に寄宿して、母も常に世話をして遣たと云う縁故からして、固より信じられる人に違いないと見抜いて、私は藤野の処に行て、「大秘密をお前に語るが、実は斯う/\云うことで、奥平の原書を写して仕舞た。所が困るのはその読合せだが、お前はどうか原書を見て居て呉れぬか、私が写したのを読むから。実は昼遣りたいが、昼は出来られない。ヒョッと分っては大変だから、夜分私が来るから御苦労だが見て居て呉れよと頼んだら、藤野が宜しいと快く請合って呉れて、ソレカラ私は其処の家に三晩か四晩読合せに行て、ソックリ出来て仕舞た。モウ連城の璧を手に握ったようなもので、夫れから原書は大事にしてあるから如何にも気遣はない。しらばくれて奥平壹岐の家に行て、「誠に難有うございます。お蔭で始めてこんな兵書を見ました。斯う云う新舶来の原書が翻訳にでもなりましたら、嘸マア海防家には有益の事でありましょう。併しこんな結構なものは貧書生の手に得らるゝものでない。有難うございました。返上致しますと云て奇麗に済んだのは嬉しかった。この書を写すに幾日かゝったか能く覚えないが、何でも二十日以上三十日足らずの間に写して仕舞うて、原書の主人に毛頭疑うような顔色もなく、マンマとその宝物の正味を偸み取て私の物にしたのは、悪漢が宝蔵に忍び入たようだ。
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福翁自伝・大阪修業・医家に砲術修業の願書その時に母が、「お前は何をするのか。そんなに毎晩夜を更かして碌に寝もしないじゃないか。何の事だ。風邪でも引くと宜くない。勉強にも程のあったものだと喧しく云う。「なあに、おッ母さん、大丈夫だ。私は写本をして居るのです。この位の事で私の身体は何ともなるものじゃない。御安心下さい。決して煩いはしませぬと云うたことがありましたが、ソレカラ愈よ大阪に出ようとすると、茲に可笑しい事がある。今度出るには藩に願書を出さなければならぬ。可笑しいとも何とも云いようがない。是れまで私は部屋住だから外に出るからと云て届も願も要らぬ、颯々と出入したが、今度は仮初にも一家の主人であるから願書を出さなければならぬ。夫れから私は兼て母との相談が済んで居るから、叔父にも叔母にも相談は要りはしない。出抜けに蘭学の修業に参りたいと願書を出すと、懇意なその筋の人が内々知らせて呉れるに、「それはイケない。蘭学修業と云うことは御家に先例のない事だと云う。「そんなら如何すれば宜いかと尋れば、「左様さ。砲術修業と書いたならば済むだろうと云う。「けれども緒方と云えば大阪の開業医師だ。お医者様の処に鉄砲を習いに行くと云うのは、世の中に余り例のない事のように思われる。是れこそ却て不都合な話ではござらぬか。「イヤ、それは何としても御例のない事は仕方がない。事実相違しても宜しいから、矢張り砲術修業でなければ済まぬと云うから、「エー宜しい。如何でも為ましょうと云て、ソレカラ私儀大阪表緒方洪庵の許に砲術修業に罷越したい云々と願書を出して聞済になって、大阪に出ることになった。大抵当時の世の中の塩梅式が分るであろう、と云うのは是れは必ずしも中津一藩に限らず、日本国中悉く漢学の世の中で、西洋流など云うことは仮初にも通用しない。俗に云う鼻掴みの世の中に、唯ペルリ渡来の一条が人心を動かして、砲術だけは西洋流儀にしなければならぬと、云わば一線の血路が開けて、ソコで砲術修業の願書で穏に事が済んだのです。
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福翁自伝・長崎遊学・大阪着大阪に着て久振で兄に逢うのみならず、屋敷の内外に幼ない時から私を知てる者が沢山ある。私は三歳の時に国に帰て二十二歳に再び行たのですから、私の生れた時に知てる者は沢山。私の面が何処か幼顔に肖て居ると云うその中には、私に乳を呑まして呉れた仲仕の内儀さんもあれば、又今度兄の供をして中津から来て居る武八と云う極質朴な田舎男は、先年も大阪の私の家に奉公して私のお守をした者で、私が大阪に着た翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目の処を通ると、男の云うに、お前の生れる時に我身夜中にこの横町の彼の産婆さんの処に迎いに行たことがある、その産婆さんは今も達者にし居る、それからお前が段々大きくなって、此身お前をだいて毎日々々湊の部屋(勧進元)に相撲の稽古を見に行た、その産婆さんの家は彼処じゃ湊の稽古場は此処の方じゃと、指をさして見せたときには、私も旧を懐うて胸一杯になって思わず涙をこぼしました。都て如斯な訳けで私はどうも旅とは思われぬ、真実故郷に帰た通りで誠に宜い心地。それから兄が私に如何して貴様は出し抜けに此処に来たのかという。兄の事であるから構わず斯う云う次第で参りましたと云たら、「乃公が居なければ宜いが、道の順序を云て見れば貴様は長崎から来るのに中津の方が順路だ。その中津を横に見ておッ母さんの処を避て来たではないか。それも乃公が此処に居なければ兎も角、乃公が此処で貴様に面会しながら之を手放して江戸に行けと云えば兄弟共謀だ。如何にも済まぬではないか。おッ母さんは夫程に思わぬだろうが、如何しても乃公が済まぬ。それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ、大阪で蘭学を学ぶが宜いと云うので、兄の処に居て先生を捜したら緒方と云う先生のある事を聞出した。
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