福翁自伝 / 長崎遊学・大阪着
大阪に着て久振で兄に逢うのみならず、屋敷の内外に幼ない時から私を知てる者が沢山ある。私は三歳の時に国に帰て二十二歳に再び行たのですから、私の生れた時に知てる者は沢山。私の面が何処か幼顔に肖て居ると云うその中には、私に乳を呑まして呉れた仲仕の内儀さんもあれば、又今度兄の供をして中津から来て居る武八と云う極質朴な田舎男は、先年も大阪の私の家に奉公して私のお守をした者で、私が大阪に着た翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目の処を通ると、男の云うに、お前の生れる時に我身夜中にこの横町の彼の産婆さんの処に迎いに行たことがある、その産婆さんは今も達者にし居る、それからお前が段々大きくなって、此身お前をだいて毎日々々湊の部屋(勧進元)に相撲の稽古を見に行た、その産婆さんの家は彼処じゃ湊の稽古場は此処の方じゃと、指をさして見せたときには、私も旧を懐うて胸一杯になって思わず涙をこぼしました。都て如斯な訳けで私はどうも旅とは思われぬ、真実故郷に帰た通りで誠に宜い心地。それから兄が私に如何して貴様は出し抜けに此処に来たのかという。兄の事であるから構わず斯う云う次第で参りましたと云たら、「乃公が居なければ宜いが、道の順序を云て見れば貴様は長崎から来るのに中津の方が順路だ。その中津を横に見ておッ母さんの処を避て来たではないか。それも乃公が此処に居なければ兎も角、乃公が此処で貴様に面会しながら之を手放して江戸に行けと云えば兄弟共謀だ。如何にも済まぬではないか。おッ母さんは夫程に思わぬだろうが、如何しても乃公が済まぬ。それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ、大阪で蘭学を学ぶが宜いと云うので、兄の処に居て先生を捜したら緒方と云う先生のある事を聞出した。
書き下し
大阪に着て久振で兄に逢うのみならず、屋敷の内外に幼ない時から私を知てる者が沢山ある。私は三歳の時に国に帰て二十二歳に再び行たのですから、私の生れた時に知てる者は沢山。私の面が何処か幼顔に肖て居ると云うその中には、私に乳を呑まして呉れた仲仕の内儀さんもあれば、又今度兄の供をして中津から来て居る武八と云う極質朴な田舎男は、先年も大阪の私の家に奉公して私のお守をした者で、私が大阪に着た翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目の処を通ると、男の云うに、お前の生れる時に我身夜中にこの横町の彼の産婆さんの処に迎いに行たことがある、その産婆さんは今も達者にし居る、それからお前が段々大きくなって、此身お前をだいて毎日々々湊の部屋(勧進元)に相撲の稽古を見に行た、その産婆さんの家は彼処じゃ湊の稽古場は此処の方じゃと、指をさして見せたときには、私も旧を懐うて胸一杯になって思わず涙をこぼしました。都て如斯な訳けで私はどうも旅とは思われぬ、真実故郷に帰た通りで誠に宜い心地。それから兄が私に如何して貴様は出し抜けに此処に来たのかという。兄の事であるから構わず斯う云う次第で参りましたと云たら、「乃公が居なければ宜いが、道の順序を云て見れば貴様は長崎から来るのに中津の方が順路だ。その中津を横に見ておッ母さんの処を避て来たではないか。それも乃公が此処に居なければ兎も角、乃公が此処で貴様に面会しながら之を手放して江戸に行けと云えば兄弟共謀だ。如何にも済まぬではないか。おッ母さんは夫程に思わぬだろうが、如何しても乃公が済まぬ。それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ、大阪で蘭学を学ぶが宜いと云うので、兄の処に居て先生を捜したら緒方と云う先生のある事を聞出した。
現代語訳
大阪に着いて、久しぶりに兄に会っただけでなく、屋敷の内外には、幼い時から私を知っている者がたくさんいました。私は三歳の時に国へ帰り、二十二歳で再び行ったのですから、私の生まれた時を知っている人はたくさんいます。私の顔のどこかに幼い頃の面影が残っていると言う人の中には、私に乳を飲ませてくれた仲仕のおかみさんもいれば、今度兄のお供をして中津から来ている武八という極めて朴訥な田舎男もいました。この男は先年も大阪の私の家に奉公して私の子守をした者で、私が大阪に着いた翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目のあたりを通ると、男が言うには、「お前の生まれる時に、わしは夜中にこの横町のあの産婆さんの所へ迎えに行ったことがある。その産婆さんは今も達者でいる。それからお前が大きくなって、わしはお前を抱いて毎日、湊の部屋(勧進元)へ相撲の稽古を見に行った。その産婆さんの家はあそこじゃ、湊の稽古場はこっちの方じゃ」と、指をさして見せてくれました。その時には私も昔を懐かしんで胸がいっぱいになり、思わず涙をこぼしました。すべてこんな訳で、私はどうも旅とは思えず、本当に故郷へ帰ったようで、たいへん良い心持ちでした。 それから兄が私に、どうしてお前は出し抜けにここへ来たのかと尋ねます。兄のことですから遠慮なく、こういう次第で参りましたと答えると、兄はこう言いました。「俺がいなければよいが、道の順序で言えば、お前が長崎から来るなら中津のほうが順路だ。その中津を横目に見て、おっかさんの所を避けて来たではないか。それも俺がここにいなければ構わないが、俺がここでお前に会いながら、お前を手放して江戸へ行けと言えば、兄弟が示し合わせたことになる。まことに申し訳ないではないか。おっかさんはそれほどには思わないだろうが、どうしても俺が済まない。それより、大阪にも先生がいそうなものだ。大阪で蘭学を学ぶのがよい。」そこで兄の所にいて先生を探したところ、緒方という先生がいることを聞き出しました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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福翁自伝・大阪修業・兄弟中津に帰るその中に丁度兄の年期と云うものがあって、二ヶ年居れば国に帰ると云う約束で、今年の夏が二年目になり、私も亦病後大阪に居て書物など読むことも出来ず、兎に角に帰国が宜かろうと云うので、兄弟一緒に船に乗て中津に帰ったのがその歳の五、六月頃と思う。所が私は病後ではあるが日々に恢復して、兄の僂麻質斯も全快には及ばないけれども別段に危険な病症でもない。夫れでは私は又大阪に参りましょうと云て出たのがその歳、即ち安政三年の八月。モウその時は病後とは云われませぬ、中々元気が能くて、大阪に着たその時に、私は中津屋敷の空長屋を借用して独居自炊、即ち土鍋で飯を焚て喰て、毎日朝から夕刻まで緒方の塾に通学して居ました。
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福翁自伝・大阪修業兄の申すことには私も逆らうことが出来ず、大阪に足を止めまして、緒方先生の塾に入門したのは安政二年卯歳の三月でした。その前長崎に居る時には勿論蘭学の稽古をしたので、その稽古をした所は楢林と云う和蘭通詞の家、同じく楢林と云う医者の家、それから石川桜所と云う蘭法医師、この人は長崎に開業して居て立派な門戸を張て居る大家であるから、中々入門することは出来ない。ソコで其処の玄関に行て調合所の人などに習って居たので、爾う云うように彼方此方にちょい/\と教えて呉れるような人があれば其処へ行く。何処の何某に便り誰の門人になってミッチリ蘭書を読だと云うことはないので、ソコで大阪に来て緒方に入門したのは是れが本当に蘭学修業の始まり、始めて規則正しく書物を教えて貰いました。その時にも私は学業の進歩が随分速くて、塾中には大勢書生があるけれども、その中ではマア出来の宜い方であったと思う。
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福翁自伝・大阪修業・家兄の不幸再遊困難所が又不幸な話で、九月の十日頃であったと思う。国から手紙が来て、九月三日に兄が病死したから即刻帰て来いと云う急報。どうも驚いたけれども仕方がない。取るものも取り敢えずスグ船に乗て、この度は誠に順風で、速に中津の港に着て、家に帰て見ればモウ葬式は勿論、何も斯も片が付て仕舞た後の事で、ソレカラ私は叔父の処の養子になって居た、所が自分の本家、即ち里の主人が死亡して、娘が一人あれども女の子では家督相続は出来ない、是れは弟が相続する、当然の順序だと云うので、親類相談の上、私は知らぬ間にチャント福澤の主人になって居て、当人の帰国を待て相談なんと云うことはありはしない。貴様は福澤の主人になったと知らせて呉れる位の事だ。扨てその跡を襲だ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服を勤めねばならぬ。夫れから家督相続と云えば其れ相応の勤がなくてはならぬ、藩中小士族相応の勤を命ぜられて居る、けれども私の心と云うものは天外万里、何もかも浮足になって一寸とも落付かぬ。何としても中津に居ようなど云うことは思いも寄らぬ事であるけれども、藩の正式に依ればチャント勤をしなければならぬから、その命を拒むことは出来ない。唯言行を謹み、何と云われてもハイ/\と答えて勤めて居ました。自分の内心には如何しても再遊と決して居るけれども、周囲の有様と云うものは中々寄付かれもしない。藩中一般の説は姑く差措き、近い親類の者までも西洋は大嫌で、何事も話し出すことが出来ない。ソコデ私に叔父があるから、其処に行て何か話をして、序ながら夫れとなく再遊の事を少しばかり言掛けて見ると、夫れは/\恐ろしい剣幕で頭から叱られた。「怪からぬ事を申すではないか。兄の不幸で貴様が家督相続した上は、御奉公大事に勤をする筈のものだ。ソレに和蘭の学問とは何たる心得違いか、呆返った話だとか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私を冷かして、貴様のような奴は負角力の瘠錣と云うものじゃと苦々しく睨み付けたのは、身の程知らずと云う意味でしょう。迚も叔父さんに賛成して貰おうと云うことは出来そうにもしないが、私が心に思って居れば自から口の端にも出る。出れば狭い所だから直ぐ分る。近処辺りに何処となく評判する。平生私の処に能く来るお婆さんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重さんと云う人。今でも其の人の面を覚えて居る。つい向うのお婆さんで、或るとき私方に来て、「何か聞けば諭吉さんは又大阪に行くと云う話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんな事はさせなさらんじゃろう、再び出すなんと云うのはお前さんは気が違うて居はせぬかと云うような、世間一般先ずソンナ風で、その時の私の身の上を申せば寄辺汀の捨小舟、まるで唄の文句のようだ。
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福翁自伝・大阪修業・母と直談ソコデ私は独り考えた。「是れは迚も仕様がない。唯頼む所は母一人だ。母さえ承知して呉れば誰が何と云うても怖い者はないと。ソレカラ私は母にとっくり話した。「おッ母さん。今私が修業して居るのは斯う云う有様、斯う云う塩梅で、長崎から大阪に行て修業して居ります。自分で考えるには、如何しても修業は出来て何か物になるだろうと思う。この藩に居た所が何としても頭の上る気遣はない。真に朽果つると云うものだ。どんな事があっても私は中津で朽果てようとは思いません。アナタはお淋しいだろうけれども、何卒私を手放して下さらぬか。私の産れたときにお父ッさんは坊主にすると仰しゃったそうですから、私は今から寺の小僧になったと諦めて下さい」。その時私が出れば、母と死んだ兄の娘、産れて三つになる女の子と五十有余の老母と唯の二人で、淋しい心細いに違いないけれども、とっくり話して、「どうぞ二人で留主をして下さい、私は大阪に行くから」と云たら、母も中々思切りの宜い性質で、「ウム宜しい。「アナタさえ左様云て下されば、誰が何と云ても怖いことはない。「オーそうとも。兄が死んだけれども、死んだものは仕方がない。お前も亦余所に出て死ぬかも知れぬが、死生の事は一切言うことなし。何処へでも出て行きなさい」。ソコデ母子の間と云うものはちゃんと魂胆が出来て仕舞て、ソレカラ愈よ出ようと云うことになる。
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福翁自伝・長崎遊学・明石より上陸(2)そこで明石から大阪まで十五里の間と云うものは、私は泊ることが出来ぬ。財布の中はモウ六、七十文、百に足らぬ銭で迚も一晩泊ることは出来ぬから、何でも歩かなければならぬ。途中何と云う処か知らぬが、左側の茶店で、一合十四文の酒を二合飲んで、大きな筍の煮たのを一皿と、飯を四、五杯喰て、夫れからグン/″\歩いて、今の神戸辺は先だか後だか、どう通たか少しも分らぬ。爾うして大阪近くなると、今の鉄道の道らしい川を幾川も渡て、有難い事にお侍だから船賃は只で宜かったが、日は暮れて暗夜で真暗、人に逢わなければ道を聞くことが出来ず、夜中淋しい処で変な奴に逢えば却て気味が悪い。その時私の指してる大小は、脇差は祐定の丈夫な身であったが、刀は太刀作りの細身でどうも役に立ちそうでなくて心細かった。実を云えば大阪近在に人殺しの無暗に出る訳けもない、ソンナに怖がる事はない筈だが、独旅の夜道、真暗ではあるし臆病神が付いてるから、ツイ腰の物を便りにするような気になる。後で考えれば却て危ない事だと思う。ソレカラ始終道を聞くには、幼少の時から中津の倉屋敷は大阪堂島玉江橋と云うことを知てるから、唯大阪の玉江橋へはどう行くかとばかり尋ねて、ヤット夜十時過ぎでもあろう、中津屋敷に着て兄に逢たが、大変に足が痛かった。
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福翁自伝・大阪修業・医家に砲術修業の願書その時に母が、「お前は何をするのか。そんなに毎晩夜を更かして碌に寝もしないじゃないか。何の事だ。風邪でも引くと宜くない。勉強にも程のあったものだと喧しく云う。「なあに、おッ母さん、大丈夫だ。私は写本をして居るのです。この位の事で私の身体は何ともなるものじゃない。御安心下さい。決して煩いはしませぬと云うたことがありましたが、ソレカラ愈よ大阪に出ようとすると、茲に可笑しい事がある。今度出るには藩に願書を出さなければならぬ。可笑しいとも何とも云いようがない。是れまで私は部屋住だから外に出るからと云て届も願も要らぬ、颯々と出入したが、今度は仮初にも一家の主人であるから願書を出さなければならぬ。夫れから私は兼て母との相談が済んで居るから、叔父にも叔母にも相談は要りはしない。出抜けに蘭学の修業に参りたいと願書を出すと、懇意なその筋の人が内々知らせて呉れるに、「それはイケない。蘭学修業と云うことは御家に先例のない事だと云う。「そんなら如何すれば宜いかと尋れば、「左様さ。砲術修業と書いたならば済むだろうと云う。「けれども緒方と云えば大阪の開業医師だ。お医者様の処に鉄砲を習いに行くと云うのは、世の中に余り例のない事のように思われる。是れこそ却て不都合な話ではござらぬか。「イヤ、それは何としても御例のない事は仕方がない。事実相違しても宜しいから、矢張り砲術修業でなければ済まぬと云うから、「エー宜しい。如何でも為ましょうと云て、ソレカラ私儀大阪表緒方洪庵の許に砲術修業に罷越したい云々と願書を出して聞済になって、大阪に出ることになった。大抵当時の世の中の塩梅式が分るであろう、と云うのは是れは必ずしも中津一藩に限らず、日本国中悉く漢学の世の中で、西洋流など云うことは仮初にも通用しない。俗に云う鼻掴みの世の中に、唯ペルリ渡来の一条が人心を動かして、砲術だけは西洋流儀にしなければならぬと、云わば一線の血路が開けて、ソコで砲術修業の願書で穏に事が済んだのです。
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