福翁自伝 / 大阪修業・築城書を盗写す(1)
夫れは夫れとして、私が今度不幸で中津に帰て居るその間に一つ仕事をしました、と云うのはその時に奥平壹岐と云う人が長崎から帰て居たから、勿論私は御機嫌伺に出なければならぬ。或日奥平の屋敷に推参して久々の面会、四方山の話の序に、主人公が一冊の原書を出して、「この本は乃公が長崎から持て来た和蘭新版の築城書であると云うその書を見た所が、勿論私などは大阪に居ても緒方の塾は医学塾であるから、医書、窮理書の外に遂ぞそんな原書を見たことはないから、随分珍書だと先ず私は感心しなければならぬ、と云うのはその時は丁度ペルリ渡来の当分で、日本国中、海防軍備の話が中々喧しいその最中に、この築城書を見せられたから誠に珍しく感じて、その原書が読で見たくて堪らない。けれども是れは貸せと云た所が貸す気遣はない。夫れからマア色々話をする中に、主人が「この原書は安く買うた。二十三両で買えたから」なんと云うたのには、実に貧書生の胆を潰すばかり。迚も自分に買うことは出来ず、左ればとてゆるりと貸す気遣はないのだから、私は唯原書を眺めて心の底で独り貧乏を歎息して居るその中に、ヒョイと胸に浮んだ一策を遣て見た。「成程是れは結構な原書で御在ます。迚も之を読で仕舞うと云うことは急な事では出来ません。責めては図と目録とでも一通り拝見したいものですが、四、五日拝借は叶いますまいかと手軽に触って見たらば、「よし貸そう」と云て貸して呉れたこそ天与の僥倖、ソレカラ私は家に持て帰て、即刻鵞筆と墨と紙を用意してその原書を初から写掛けた。凡そ二百頁余のものであったと思う。それを写すに就ては誰にも言われぬのは勿論、写す処を人に見られては大変だ。家の奥の方に引込んで一切客に遇わずに、昼夜精切り一杯、根のあらん限り写した。そのとき私は藩の御用で城の門の番をする勤があって、二、三日目に一昼夜当番する順になるから、その時には昼は写本を休み、夜になれば窃と写物を持出して、朝、城門の明くまで写して、一目も眠らないのは毎度のことだが、又この通りに勉強しても、人間世界は壁に耳あり眼もあり、既に人に悟られて今にも原書を返せとか何とか云て来はしないだろうか、いよ/\露顕すれば唯原書を返したばかりでは済まぬ、御家老様の剣幕で中々六かしくなるだろうと思えば、その心配は堪らない。
新字:夫れは夫れとして、私が今度不幸で中津に帰て居るその間に一つ仕事をしました、と云うのはその時に奥平壱岐と云う人が長崎から帰て居たから、勿論私は御機嫌伺に出なければならぬ。或日奥平の屋敷に推参して久々の面会、四方山の話の序に、主人公が一冊の原書を出して、「この本は乃公が長崎から持て来た和蘭新版の築城書であると云うその書を見た所が、勿論私などは大阪に居ても緒方の塾は医学塾であるから、医書、窮理書の外に遂ぞそんな原書を見たことはないから、随分珍書だと先ず私は感心しなければならぬ、と云うのはその時は丁度ペルリ渡来の当分で、日本国中、海防軍備の話が中々喧しいその最中に、この築城書を見せられたから誠に珍しく感じて、その原書が読で見たくて堪らない。けれども是れは貸せと云た所が貸す気遣はない。夫れからマア色々話をする中に、主人が「この原書は安く買うた。二十三両で買えたから」なんと云うたのには、実に貧書生の胆を潰すばかり。迚も自分に買うことは出来ず、左ればとてゆるりと貸す気遣はないのだから、私は唯原書を眺めて心の底で独り貧乏を嘆息して居るその中に、ヒョイと胸に浮んだ一策を遣て見た。「成程是れは結構な原書で御在ます。迚も之を読で仕舞うと云うことは急な事では出来ません。責めては図と目録とでも一通り拝見したいものですが、四、五日拝借は叶いますまいかと手軽に触って見たらば、「よし貸そう」と云て貸して呉れたこそ天与の僥倖、ソレカラ私は家に持て帰て、即刻鵞筆と墨と紙を用意してその原書を初から写掛けた。凡そ二百頁余のものであったと思う。それを写すに就ては誰にも言われぬのは勿論、写す処を人に見られては大変だ。家の奥の方に引込んで一切客に遇わずに、昼夜精切り一杯、根のあらん限り写した。そのとき私は藩の御用で城の門の番をする勤があって、二、三日目に一昼夜当番する順になるから、その時には昼は写本を休み、夜になれば窃と写物を持出して、朝、城門の明くまで写して、一目も眠らないのは毎度のことだが、又この通りに勉強しても、人間世界は壁に耳あり眼もあり、既に人に悟られて今にも原書を返せとか何とか云て来はしないだろうか、いよ/\露顕すれば唯原書を返したばかりでは済まぬ、御家老様の剣幕で中々六かしくなるだろうと思えば、その心配は堪らない。
書き下し
夫れは夫れとして、私が今度不幸で中津に帰て居るその間に一つ仕事をしました、と云うのはその時に奥平壹岐と云う人が長崎から帰て居たから、勿論私は御機嫌伺に出なければならぬ。或日奥平の屋敷に推参して久々の面会、四方山の話の序に、主人公が一冊の原書を出して、「この本は乃公が長崎から持て来た和蘭新版の築城書であると云うその書を見た所が、勿論私などは大阪に居ても緒方の塾は医学塾であるから、医書、窮理書の外に遂ぞそんな原書を見たことはないから、随分珍書だと先ず私は感心しなければならぬ、と云うのはその時は丁度ペルリ渡来の当分で、日本国中、海防軍備の話が中々喧しいその最中に、この築城書を見せられたから誠に珍しく感じて、その原書が読で見たくて堪らない。けれども是れは貸せと云た所が貸す気遣はない。夫れからマア色々話をする中に、主人が「この原書は安く買うた。二十三両で買えたから」なんと云うたのには、実に貧書生の胆を潰すばかり。迚も自分に買うことは出来ず、左ればとてゆるりと貸す気遣はないのだから、私は唯原書を眺めて心の底で独り貧乏を歎息して居るその中に、ヒョイと胸に浮んだ一策を遣て見た。「成程是れは結構な原書で御在ます。迚も之を読で仕舞うと云うことは急な事では出来ません。責めては図と目録とでも一通り拝見したいものですが、四、五日拝借は叶いますまいかと手軽に触って見たらば、「よし貸そう」と云て貸して呉れたこそ天与の僥倖、ソレカラ私は家に持て帰て、即刻鵞筆と墨と紙を用意してその原書を初から写掛けた。凡そ二百頁余のものであったと思う。それを写すに就ては誰にも言われぬのは勿論、写す処を人に見られては大変だ。家の奥の方に引込んで一切客に遇わずに、昼夜精切り一杯、根のあらん限り写した。そのとき私は藩の御用で城の門の番をする勤があって、二、三日目に一昼夜当番する順になるから、その時には昼は写本を休み、夜になれば窃と写物を持出して、朝、城門の明くまで写して、一目も眠らないのは毎度のことだが、又この通りに勉強しても、人間世界は壁に耳あり眼もあり、既に人に悟られて今にも原書を返せとか何とか云て来はしないだろうか、いよ/\露顕すれば唯原書を返したばかりでは済まぬ、御家老様の剣幕で中々六かしくなるだろうと思えば、その心配は堪らない。
現代語訳
それはそれとして、私が今度不幸で中津に帰っているその間に、一つ仕事をしました。というのは、その時奥平壱岐という人が長崎から帰っていたので、もちろん私はご機嫌伺いに出なければなりません。ある日奥平の屋敷に伺って久しぶりの面会、世間話のついでに、主人が一冊の原書を出して、「この本は俺が長崎から持ってきたオランダ新版の築城書である」と言います。その書を見たところ、私などは大阪にいても、緒方の塾は医学塾ですから、医書や窮理書のほかにはそんな原書を見たことがなく、ずいぶん珍しい書だとまず感心しなければなりません。というのは、その時はちょうどペリー渡来の直後で、日本中、海防軍備の話がなかなか盛んな最中で、この築城書を見せられたのでたいへん珍しく感じ、その原書が読んでみたくてたまらない。けれども、貸してくださいと言ったところで貸す気遣いはありません。 それからまあ色々話をするうちに、主人が「この原書は安く買った。二十三両で買えた」などと言ったのには、実に貧しい書生は肝を潰すばかりです。とても自分に買うことはできず、さりとてゆっくり貸してもらえるはずもないので、私はただ原書を眺めて、心の底で独り貧乏を嘆息していましたが、ひょいと胸に浮かんだ一策をやってみました。「なるほど、これは結構な原書でございます。とてもこれを読んでしまうということは急にはできません。せめて図と目録だけでも一通り拝見したいのですが、四、五日拝借はかないますまいか」と手軽にさわってみたら、「よし、貸そう」と言って貸してくれたのは、天与の僥倖でした。 それから私は家に持って帰り、すぐに鵞ペンと墨と紙を用意して、その原書を最初から写し始めました。およそ二百頁余りのものだったと思います。それを写すについては、誰にも言えないのはもちろん、写すところを人に見られては大変です。家の奥のほうに引っ込んで一切客に会わず、昼夜精一杯、根のあらん限り写しました。その時私は藩の御用で城の門番をする勤めがあり、二、三日目に一昼夜当番する順になるので、その時には昼は写本を休み、夜になればそっと写し物を持ち出して、朝、城門の開くまで写して、一睡もしないのはたびたびのことでした。しかしこのように勉強しても、人間世界は壁に耳あり目もあり、すでに人に悟られて、今にも原書を返せなどと言ってきはしないか、いよいよ露顕すれば、ただ原書を返しただけでは済まない、ご家老様の剣幕でなかなか難しくなるだろうと思えば、その心配はたまりません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『呻吟語』外篇・品藻・名望甚だ隆きは大臣の福に非ず名望甚だ隆きは、大臣の福に非ざるなり。如し素行に愆無くんば、人言は仇とするに足らざるなり。
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『墨子』兼愛下昔者、越王句踐は勇を好む。其の士臣を教うること三年、其の知を以て未だ以て之を知るに足らずと為すなり。舟を焚き火を失し、鼔して之を進ましむ。其の士、前列に偃し、水火に伏して死する者、勝げて數う可からざるなり。此の時に當たりて、鼔せずして退かしむるも、越國の士は顫うと謂う可し。故に身を焚くは其の為し難きを為すなり。然る後に為して越王、之を説ぶ。世を踰えずして民、移す可きなり。即ち以て其の上に鄉かんことを求むればなり。
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『呻吟語』内篇・修身・身を愛する者は赫赫の名を貴ばず蝸は涎を以て覓めらる、蟬は身を以て黏せらる、螢は光を以て獲らる。故に身を愛する者は、赫赫の名を貴ばず。
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『墨子』親士今、五錐有り、此れ其れ銛ければ、銛き者は必ず先ず挫く。五刀有り、此れ其れ錯ければ、錯き者は必ず先ず靡く。是を以て甘井は竭くるに近く、喬木は伐らるるに近く、靈は灼かるるに近く、神蛇は暴さるるに近し。是の故に比干の殪るるは、其の抗すればなり。孟賁の殺さるるは、其の勇なればなり。西施の沈むは、其の美なればなり。吳起の裂かるるは、其の事なればなり。故に彼の人なる者は、其の長ずる所に死せざる寡し。故に「太だ盛んなるは守り難し」と曰うなり。
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論語・衛霊公篇子曰く、民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は、吾蹈みて死する者を見たり。未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり。
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孫子・地形篇夫れ勢均しきに、一を以て十を撃つを、走と曰う。卒強く吏弱きを、弛と曰う。吏強く卒弱きを、陥と曰う。大吏怒りて服せず、敵に遇いて懟みて自ら戦い、将其の能を知らざるを、崩と曰う。将弱くして厳ならず、教道明らかならず、吏卒常無く、兵を陳ぬること縦横なるを、乱と曰う。将敵を料る能わず、少を以て衆に合い、弱を以て強を撃ち、兵に選鋒無きを、北と曰う。凡そ此の六者は、敗の道なり。将の至任、察せざるべからず。
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