福翁自伝 / 大阪修業・母の病気
願が済んで愈よ船に乗て出掛けようとする時に母の病気、誠に困りました。ソレカラ私は一生懸命、此の医者を頼み彼の医者に相談、様々に介抱した所が虫だと云う。虫なれぼ如何なる薬が一番の良剤かと医者の話を聞くと、その時にはまだサントニーネと云うものはない、セメンシーナが妙薬だと云う。この薬は至極価の高い薬で田舎の薬店には容易にない。中津に只た一軒ある計りだけれども、母の病気に薬の価が高いの安いのと云て居られぬ。私は今こそ借金を払った後でなけなしの金を何でも二朱か一歩出して、そのセメンシーナを買て母に服用させて、其れが利いたのか何か分らぬ、田舎医者の言うことも固より信ずるに足らず、私は唯運を天に任せて看病大事と昼夜番をして居ましたが、幸に難症でもなかったと見えて日数凡そ二週間ばかりで快くなりましたから、愈よ大阪へ出掛けると日を定めて、出立のとき別を惜しみ無事を祈って呉れる者は母と姉とばかり、知人朋友、見送は扨置き見向く者もなし、逃げるようにして船に乗りましたが、兄の死後、間もなく家財は残らず売払うて諸道具もなければ金もなし、赤貧洗うが如くにして、他人の来て訪問て呉れる者もなし、寂々寥々、古寺見たような家に老母と小さい姪とタッタ二人残して出て行くのですから、流石磊落書生も是れには弱りました。
書き下し
願が済んで愈よ船に乗て出掛けようとする時に母の病気、誠に困りました。ソレカラ私は一生懸命、此の医者を頼み彼の医者に相談、様々に介抱した所が虫だと云う。虫なれぼ如何なる薬が一番の良剤かと医者の話を聞くと、その時にはまだサントニーネと云うものはない、セメンシーナが妙薬だと云う。この薬は至極価の高い薬で田舎の薬店には容易にない。中津に只た一軒ある計りだけれども、母の病気に薬の価が高いの安いのと云て居られぬ。私は今こそ借金を払った後でなけなしの金を何でも二朱か一歩出して、そのセメンシーナを買て母に服用させて、其れが利いたのか何か分らぬ、田舎医者の言うことも固より信ずるに足らず、私は唯運を天に任せて看病大事と昼夜番をして居ましたが、幸に難症でもなかったと見えて日数凡そ二週間ばかりで快くなりましたから、愈よ大阪へ出掛けると日を定めて、出立のとき別を惜しみ無事を祈って呉れる者は母と姉とばかり、知人朋友、見送は扨置き見向く者もなし、逃げるようにして船に乗りましたが、兄の死後、間もなく家財は残らず売払うて諸道具もなければ金もなし、赤貧洗うが如くにして、他人の来て訪問て呉れる者もなし、寂々寥々、古寺見たような家に老母と小さい姪とタッタ二人残して出て行くのですから、流石磊落書生も是れには弱りました。
現代語訳
願いが済んで、いよいよ船に乗って出かけようとする時に母が病気になり、まことに困りました。それから私は一生懸命、この医者を頼みあの医者に相談し、さまざまに介抱したところ、虫だと言います。虫なら何の薬が一番の良薬かと医者の話を聞くと、その頃はまだサントニーネというものはなく、セメンシーナが妙薬だと言います。この薬は至って値の高い薬で、田舎の薬店には容易にありません。中津にたった一軒あるだけでしたが、母の病気に薬の値が高いの安いのと言っていられません。私は借金を払った後のなけなしの金から、二朱か一歩出して、そのセメンシーナを買って母に服用させました。それが効いたのか何か分かりません。田舎医者の言うことももとより信じるに足りず、私はただ運を天に任せて、看病を大事に昼夜番をしていましたが、幸い難症でもなかったと見えて、日数およそ二週間ばかりで快くなりましたから、いよいよ大阪へ出かけると日を定めました。 出発の時、別れを惜しみ無事を祈ってくれる者は母と姉ばかり、知人や友人は見送りはさておき見向く者もありません。逃げるようにして船に乗りましたが、兄の死後、間もなく家財は残らず売り払って、諸道具もなければ金もなく、赤貧洗うがごとし。他人が訪ねてくれることもなく、寂々寥々、古寺のような家に老母と小さな姪をたった二人残して出て行くのですから、さすがの磊落な書生もこれには弱りました。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・大阪修業・母と直談ソコデ私は独り考えた。「是れは迚も仕様がない。唯頼む所は母一人だ。母さえ承知して呉れば誰が何と云うても怖い者はないと。ソレカラ私は母にとっくり話した。「おッ母さん。今私が修業して居るのは斯う云う有様、斯う云う塩梅で、長崎から大阪に行て修業して居ります。自分で考えるには、如何しても修業は出来て何か物になるだろうと思う。この藩に居た所が何としても頭の上る気遣はない。真に朽果つると云うものだ。どんな事があっても私は中津で朽果てようとは思いません。アナタはお淋しいだろうけれども、何卒私を手放して下さらぬか。私の産れたときにお父ッさんは坊主にすると仰しゃったそうですから、私は今から寺の小僧になったと諦めて下さい」。その時私が出れば、母と死んだ兄の娘、産れて三つになる女の子と五十有余の老母と唯の二人で、淋しい心細いに違いないけれども、とっくり話して、「どうぞ二人で留主をして下さい、私は大阪に行くから」と云たら、母も中々思切りの宜い性質で、「ウム宜しい。「アナタさえ左様云て下されば、誰が何と云ても怖いことはない。「オーそうとも。兄が死んだけれども、死んだものは仕方がない。お前も亦余所に出て死ぬかも知れぬが、死生の事は一切言うことなし。何処へでも出て行きなさい」。ソコデ母子の間と云うものはちゃんと魂胆が出来て仕舞て、ソレカラ愈よ出ようと云うことになる。
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福翁自伝・暗殺の心配・老母の大坂見物も叶わず扨神戸に着た処で、母は天保七年、大阪を去てから三十何年になる、誠に久し振りの事であるから、今度こそ大阪、京都方々を思うさま見物させて悦ばせようと、中津出帆の時から楽しんで居た処が、神戸に上陸して旅宿に着て見ると、東京の小幡篤次郎から手紙が来てあるその手紙に、昨今京阪の間甚だ穏かならず、少々聞込みし事もあれば、神戸に着船したらば成るたけ人に知られぬように注意して、早々郵船にて帰京せよとある。ヤレ/\又しても面百くない報だ、左ればとてこんな忌な事を老母の耳に入れるでもなしと思い、何かつまらぬ口実を作て、折角楽しみにした上方見物も罷めにして、空しく東京に帰て来ました。
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福翁自伝・大阪修業・家兄の不幸再遊困難所が又不幸な話で、九月の十日頃であったと思う。国から手紙が来て、九月三日に兄が病死したから即刻帰て来いと云う急報。どうも驚いたけれども仕方がない。取るものも取り敢えずスグ船に乗て、この度は誠に順風で、速に中津の港に着て、家に帰て見ればモウ葬式は勿論、何も斯も片が付て仕舞た後の事で、ソレカラ私は叔父の処の養子になって居た、所が自分の本家、即ち里の主人が死亡して、娘が一人あれども女の子では家督相続は出来ない、是れは弟が相続する、当然の順序だと云うので、親類相談の上、私は知らぬ間にチャント福澤の主人になって居て、当人の帰国を待て相談なんと云うことはありはしない。貴様は福澤の主人になったと知らせて呉れる位の事だ。扨てその跡を襲だ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服を勤めねばならぬ。夫れから家督相続と云えば其れ相応の勤がなくてはならぬ、藩中小士族相応の勤を命ぜられて居る、けれども私の心と云うものは天外万里、何もかも浮足になって一寸とも落付かぬ。何としても中津に居ようなど云うことは思いも寄らぬ事であるけれども、藩の正式に依ればチャント勤をしなければならぬから、その命を拒むことは出来ない。唯言行を謹み、何と云われてもハイ/\と答えて勤めて居ました。自分の内心には如何しても再遊と決して居るけれども、周囲の有様と云うものは中々寄付かれもしない。藩中一般の説は姑く差措き、近い親類の者までも西洋は大嫌で、何事も話し出すことが出来ない。ソコデ私に叔父があるから、其処に行て何か話をして、序ながら夫れとなく再遊の事を少しばかり言掛けて見ると、夫れは/\恐ろしい剣幕で頭から叱られた。「怪からぬ事を申すではないか。兄の不幸で貴様が家督相続した上は、御奉公大事に勤をする筈のものだ。ソレに和蘭の学問とは何たる心得違いか、呆返った話だとか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私を冷かして、貴様のような奴は負角力の瘠錣と云うものじゃと苦々しく睨み付けたのは、身の程知らずと云う意味でしょう。迚も叔父さんに賛成して貰おうと云うことは出来そうにもしないが、私が心に思って居れば自から口の端にも出る。出れば狭い所だから直ぐ分る。近処辺りに何処となく評判する。平生私の処に能く来るお婆さんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重さんと云う人。今でも其の人の面を覚えて居る。つい向うのお婆さんで、或るとき私方に来て、「何か聞けば諭吉さんは又大阪に行くと云う話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんな事はさせなさらんじゃろう、再び出すなんと云うのはお前さんは気が違うて居はせぬかと云うような、世間一般先ずソンナ風で、その時の私の身の上を申せば寄辺汀の捨小舟、まるで唄の文句のようだ。
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