福翁自伝 / 長崎遊学・贋手紙を作る
その間の道中と云うものは随分困りました。一人旅、殊に何処の者とも知れぬ貧乏そうな若侍、若し行倒になるか暴れでもすれば宿屋が迷惑するから容易に泊めない。もう宿の善悪は択ぶに暇なく、只泊めて呉れさえすれば宜しいと云うので無暗に歩行いて、何か斯か二晩泊って三日目に小倉に着きました。その道中で私は手紙を書いて即ち鉄屋惣兵衛の贋手紙を拵えて、「この御方は中津の御家中、中村何様の若旦那で、自分は始終そのお屋敷に出入して決して間違なき御方だから厚く頼むと鹿爪らしき手紙の文句で、下ノ関船場屋寿久右衛門へ宛て鉄屋惣兵衛の名前を書いてちゃんと封をして、明日下ノ関に渡てこの手紙を用に立てんと思い、小倉までたどり付て泊った時はおかしかった。彼方此方マゴマゴして、小倉中、宿を捜したが、何処でも泊めない。ヤット一軒泊めて呉れた所が薄汚ない宿屋で、相宿の同間に人が寝て居る。スルト夜半に枕辺で小便する音がする。何だと思うと中風病の老爺が、しびんに遣てる。実は客ではない、その家の病人でしょう。その病人と並べて寝かされたので、汚くて堪らなかったのは能く覚えて居ます。 それから下ノ関の渡場を渡て、船場屋を捜し出して、兼て用意の贋手紙を持て行た所が、成程鉄屋とは懇意な家と見える、手紙を一見して早速泊めて呉れて、万事能く世話をして呉れて、大阪まで船賃が一分二朱、賄の代は一日若干、ソコデ船賃を払うた外に二百文か三百文しか残らぬ。併し大阪に行けば中津の倉屋敷で賄の代を払う事にして、是れも船宿で心能く承知して呉れる。悪い事だが全く贋手紙の功徳でしょう。
書き下し
その間の道中と云うものは随分困りました。一人旅、殊に何処の者とも知れぬ貧乏そうな若侍、若し行倒になるか暴れでもすれば宿屋が迷惑するから容易に泊めない。もう宿の善悪は択ぶに暇なく、只泊めて呉れさえすれば宜しいと云うので無暗に歩行いて、何か斯か二晩泊って三日目に小倉に着きました。その道中で私は手紙を書いて即ち鉄屋惣兵衛の贋手紙を拵えて、「この御方は中津の御家中、中村何様の若旦那で、自分は始終そのお屋敷に出入して決して間違なき御方だから厚く頼むと鹿爪らしき手紙の文句で、下ノ関船場屋寿久右衛門へ宛て鉄屋惣兵衛の名前を書いてちゃんと封をして、明日下ノ関に渡てこの手紙を用に立てんと思い、小倉までたどり付て泊った時はおかしかった。彼方此方マゴマゴして、小倉中、宿を捜したが、何処でも泊めない。ヤット一軒泊めて呉れた所が薄汚ない宿屋で、相宿の同間に人が寝て居る。スルト夜半に枕辺で小便する音がする。何だと思うと中風病の老爺が、しびんに遣てる。実は客ではない、その家の病人でしょう。その病人と並べて寝かされたので、汚くて堪らなかったのは能く覚えて居ます。 それから下ノ関の渡場を渡て、船場屋を捜し出して、兼て用意の贋手紙を持て行た所が、成程鉄屋とは懇意な家と見える、手紙を一見して早速泊めて呉れて、万事能く世話をして呉れて、大阪まで船賃が一分二朱、賄の代は一日若干、ソコデ船賃を払うた外に二百文か三百文しか残らぬ。併し大阪に行けば中津の倉屋敷で賄の代を払う事にして、是れも船宿で心能く承知して呉れる。悪い事だが全く贋手紙の功徳でしょう。
現代語訳
その間の道中というものはずいぶん困りました。一人旅、とくにどこの者とも知れない貧乏そうな若侍で、もし行き倒れになるか暴れでもすれば宿屋が迷惑するから、たやすくは泊めてくれません。もう宿の善し悪しを選ぶ暇もなく、ただ泊めてくれさえすればよいというので、むやみに歩いて、どうにかこうにか二晩泊まって三日目に小倉に着きました。その道中で、私は手紙を書いて、すなわち鉄屋惣兵衛の贋手紙を作り、「この方は中津のご家中、中村何様の若旦那で、自分は始終そのお屋敷に出入りしていて、決して間違いのない方だから、厚くお頼みする」と、もっともらしい手紙の文句で、下ノ関の船場屋寿久右衛門に宛てて、鉄屋惣兵衛の名前を書いて、きちんと封をして、明日下ノ関に渡ってこの手紙を役に立てようと思い、小倉まで辿り着いて泊まったときはおかしかった。あちこちまごまごして、小倉中、宿を探しましたが、どこでも泊めてくれません。やっと一軒泊めてくれたところが、薄汚い宿屋で、相宿の同じ部屋に人が寝ています。すると夜中に枕元で小便をする音がします。何だと思うと、中風を病む老人が、しびんにしているのです。実は客ではなく、その家の病人でしょう。その病人と並べて寝かされたので、汚くてたまらなかったのはよく覚えています。 それから下ノ関の渡し場を渡って、船場屋を探し出して、かねて用意の贋手紙を持って行ったところ、なるほど鉄屋とは懇意な家と見えて、手紙を一見してすぐに泊めてくれて、万事よく世話をしてくれて、大阪までの船賃が一分二朱、賄いの代は一日いくらいくらということで、そこで船賃を払ったほかに二百文か三百文しか残りません。しかし大阪に行けば、中津の倉屋敷で賄いの代を払うということで、これも船宿で快く承知してくれます。悪いことですが、まったく贋手紙の功徳でしょう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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福翁自伝・長崎遊学・諫早にて鉄屋と別るそれから奥平の伝言や何かをすっかり手紙に認めて仕舞い、是れは例の御隠居様に遣らなければならぬ。「私は長崎を出立して中津に帰る所存で諫早まで参りました処が、その途中で不図江戸に行きたくなりましたから、是れから江戸に参ります。就ては壹岐様から斯様々々の御伝言で、お手紙は是れですからお届け申すと丁寧に認めて遣って、ソレカラ封をせずに渡した即ち大橋六助に宛た手紙を本人に届ける為めに、私が手紙を書添えて、「この通りに封をせぬのは可笑しい、こんな馬鹿な事はないがこの儘御届け申します。原はと云えば自分の方で呼還すように企てゝ置きながら、表べに人を欺くと云うのは卑劣至極な奴だ。私はもう中津に帰らず江戸に行くからこの手紙を御覧下さいと云うような塩梅に認めて、万事の用意は出来て、鉄屋惣兵衛と一処に長崎を出立して諫早まで――この間は七里ある――来た。丁度夕方着たが何でも三月の中旬、月の明るい晩であった。「扨鉄屋、乃公は長崎を出る時は中津に帰る所存であったが、是れから中津に帰るは忌になった。貴様の荷物と一処に乃公のこの葛籠も序に持て帰て呉れ。乃公はもう着換が一、二枚あれば沢山だ。是れから下ノ関に出て大阪へ行て、夫れから江戸に行くのだと云うと、惣兵衛殿は呆れて仕舞い、「それは途方もない、お前さんのような年の若い旅慣れぬお坊さんが一人で行くと云うのは。「馬鹿云うな、口があれば京に上る、長崎から江戸に一人行くのに何のことがあるか。「けれども私は中津に帰てお母さんにいい様がない。「なあに構うものか、乃公は死も何もせぬから内のおッ母さんに宜しく云て呉れ、唯江戸に参りましたと云えば夫れで分る。鉄屋も何とも云うことが出来ぬ。「時に鉄屋、乃公は是から下ノ関に行こうと思うが、実は下ノ関を知らぬ。貴様は諸方を歩くが下ノ関に知てる船宿はないか。「私の懇意な内で船場屋寿久右衛門と云う船宿があります、其処へお入来なされば宜しいと云う。抑もこの事を態々鉄屋に聞かねばならぬと云うのは、実はその時私の懐中に金がない。内から呉れた金が一歩もあったか、その外に和蘭の字引の訳鍵と云う本を売て、掻集めた所で二歩二朱か三朱しかない。それで大阪まで行くには如何しても船賃が足らぬと云う見込だから、そこで一寸と船宿の名を聞て置て、夫れから鉄屋に別れて、諫早から丸木船と云う船が天草の海を渡る。五百八十文出してその船に乗れば明日の朝佐賀まで着くと云うので、その船に乗た所が、浪風なく朝佐賀に着て、佐賀から歩いたが、案内もなければ何もなく真実一身で、道筋の村の名も知らず宿々の順も知らずに、唯東の方に向て、小倉には如何行くかと道を聞て、筑前を通り抜けて、多分太宰府の近所を通ったろうと思いますが、小倉には三日めに着た。
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福翁自伝・長崎遊学・明石より上陸(1)爾う云う不愉快な船中で、如何やら斯うやら十五日目に播州明石に着た。朝五ツ時、今の八時頃、明旦順風になれば船が出ると云う、けれどもコンナ連中のお供をしては際限がない。是れから大阪までは何里と聞けば、十五里と云う。「ヨシ、それじゃ乃公は是れから大阪まで歩いて行く。就ては是迄の勘定は、大阪に着たら中津の倉屋敷まで取りに来い、この荷物だけは預けて行くからと云うと、船頭が中々聞かない。「爾う旨くは行かぬ、一切勘定を払て行けと云う。云われても払う金は懐中にない。その時に私は更紗の着物と絹紬の着物と二枚あって、それを風呂敷に包んで持て居るから、「茲に着物が二枚ある、是れで賄の代位はあるだろう、外に書籍もあるが、是れは何にもならぬ。この着物を売ればその位の金にはなるではないか。大小を預ければ宜いが、是れは挟して行かねばならぬ。何時でも宜しい、船が大阪に着次第に中津屋敷で払て遣るから取りに来いと云うも、船頭は頑張て承知しない。「中津屋敷は知てるが、お前さんは知らぬ人じゃ。何でも船に乗て行きなさい。賄の代金は大阪で請取ると云う約束がしてあるからそれは宜しい。何日掛ても構わぬ、途中から上ることは出来ぬと云う。此方は只管頼むと小さくなって訳けを云えば、船頭は何でも聞かぬと剛情を張て段々声が大きくなる。喧嘩にもならず実に当惑して居た処に、同船中、下ノ関の商人風の男が出て来て、乃公が請合うと先ず発言して船頭に向い、「コレお前も爾う、いんごうな事を云うものじゃない。賄代の抵当に着物があるじゃないか。このお方はお侍じゃ、貴様達を騙す所存ではないように見受ける。若し騙したら乃公が払う、サアお上りなさいと云て、船頭も是れに安心して無理も云わず、ソレカラ私はその下ノ関の男に厚く礼を述て船を飛出し、地獄に仏と心の中にこの男を拝みました。
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福翁自伝・大阪修業・先生の大恩、緒方の食客となる船中無事大阪に着たのは宜しいが、唯生きて身体が着た計りで、扨て修業をすると云う手当は何もない。ハテ如何したものかと思た所が仕方がない。何しろ先生の処へ行てこの通り言おうと思て、夫から、大阪着はその歳の十一月頃と思う、その足で緒方へ行て、「私は兄の不幸、斯う/\云う次第で又出て参りましたと先ず話をして、夫から私は先生だからほんとうの親と同じ事で何も隠すことはない、家の借金の始末、家財を売払うた事から、一切万事何もかも打明けて、彼の原書写本の一条まで真実を話して、「実は斯う云う築城書を盗写してこの通り持て参りましたと云た所が、先生は笑て、「爾うか、ソレは一寸との間に怪しからぬ悪い事をしたような又善い事をしたような事じゃ。何は扨置き貴様は大造見違えたように丈夫になった。「左様で御在ます。身体は病後ですけれども、今歳の春大層御厄介になりましたその時の事はモウ覚えませぬ。元の通り丈夫になりました。「それは結構だ。ソコデお前は一切聞て見ると如何しても学費のないと云うことは明白に分ったから、私が世話をして遣りたい、けれども外の書生に対して何かお前一人に贔屓するようにあっては宜くない。待て/\。その原書は面白い。就ては乃公がお前に云付けてこの原書を訳させると、斯う云うことに仕よう、そのつもりで居なさいと云て、ソレカラ私は緒方の食客生になって、医者の家だから食客生と云うのは調合所の者より外にありはしませぬが、私は医者でなくて只飜訳と云う名義で医家の食客生になって居るのだから、その意味は全く先生と奥方との恩恵好意のみ、実際に飜訳はしてもしなくても宜いのであるけれども、嘘から出た誠で、私はその原書を飜訳して仕舞いました。
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福翁自伝・長崎遊学・明石より上陸(2)そこで明石から大阪まで十五里の間と云うものは、私は泊ることが出来ぬ。財布の中はモウ六、七十文、百に足らぬ銭で迚も一晩泊ることは出来ぬから、何でも歩かなければならぬ。途中何と云う処か知らぬが、左側の茶店で、一合十四文の酒を二合飲んで、大きな筍の煮たのを一皿と、飯を四、五杯喰て、夫れからグン/″\歩いて、今の神戸辺は先だか後だか、どう通たか少しも分らぬ。爾うして大阪近くなると、今の鉄道の道らしい川を幾川も渡て、有難い事にお侍だから船賃は只で宜かったが、日は暮れて暗夜で真暗、人に逢わなければ道を聞くことが出来ず、夜中淋しい処で変な奴に逢えば却て気味が悪い。その時私の指してる大小は、脇差は祐定の丈夫な身であったが、刀は太刀作りの細身でどうも役に立ちそうでなくて心細かった。実を云えば大阪近在に人殺しの無暗に出る訳けもない、ソンナに怖がる事はない筈だが、独旅の夜道、真暗ではあるし臆病神が付いてるから、ツイ腰の物を便りにするような気になる。後で考えれば却て危ない事だと思う。ソレカラ始終道を聞くには、幼少の時から中津の倉屋敷は大阪堂島玉江橋と云うことを知てるから、唯大阪の玉江橋へはどう行くかとばかり尋ねて、ヤット夜十時過ぎでもあろう、中津屋敷に着て兄に逢たが、大変に足が痛かった。
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福翁自伝・大阪を去て江戸に行く・三人同行大阪から江戸に来るに就ては、何は扨置き中津に帰て一度母に逢うて別を告げて来ましょうと云うので、中津に帰たその時は虎列拉の真盛りで、私の家の近処まで病人だらけ、バタ/″\死にました。その流行病最中、船に乗て大阪に着て暫時逗留、ソレカラ江戸に向て出立と云うことにした所が、凡そ藩の公用で勤番するに、私などの身分なれば道中並に在勤中家来を一人呉れるのが定例で、今度も私の江戸勤番に付て家来一人振の金を渡して呉れた。けれども家来なんぞと云うことは思いも寄らぬ事で何も要らぬ。けれども茲に旅費がある。待て/\、塾中に誰か江戸に行きたいと云う者はないか、江戸に行きたければ連れて行くが如何だ、実は斯う云う訳けで金はあるぞと云うと、即席にどうぞ連れて行て呉れと云たが岡本周吉、即ち古川節蔵である(広島の人)。よし連れて行て遣ろう。連れて行くが、君は飯を炊かなければならぬが宜しいか。江戸へ行けば米もあれば長屋もある。鍋釜も貸して呉れるが、本当の家来を止めにすれば飯炊がない。その代に連れて行くのだが如何だ。「飯を炊く位の事は何でもない、飯を炊こう。「それじゃ一緒に来いと云て、夫れから私の荷物は同藩の人に頼んで、道連は私と岡本、もう一人備中の者で原田磊蔵と云う矢張り緒方の塾生、都合三人の道中で、勿論歩く。その時は丁度十月下旬で少々寒かったが小春の時節、一日も川止など云う災難に遇わず滞おりなく江戸に着て、先ず木挽町汐留の奥平屋敷に行た所が、鉄砲洲に中屋敷がある、其処の長屋を貸すと云うので、早速岡本と私とその長屋に住込で、両人自炊の世帯持になった、夫れから同行の原田は下谷練塀小路の大医大槻俊斎先生の処へ入込だ。江戸へ参れば知己朋友は幾人も居て、段々面白くなって来た。
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福翁自伝・長崎遊学・江戸行を志す丁度そのとき中津から鉄屋惣兵衛と云う商人が長崎に来て居て、幸いその男が中津に帰ると云うから、兎も角も之と同伴と約束をして置て、ソコデ私の胸算は固より中津に帰る気はない。何でも人間の行くべき処は江戸に限る、是れから真直に江戸に行きましょうと決心はしたが、この事に就ては誰かに話して相談をせねばならぬ。所が江戸から来た岡部同直と云う蘭学書生がある。是れは医者の子で至極面白い慥かな人物と見込んだから、この男に委細の内情を打明けて、「斯う/\云う次第で僕は長崎に居られぬ、余り癪に障るからこのまゝ江戸に飛出す積りだが、実は江戸に知る人はなし、方角が分らぬ。君の家は江戸ではないか、大人は開業医と開いたが、君の家に食客に置て呉れる事は出来まいか。僕は医者でないが丸薬を丸める位の事は屹と出来るから、何卒世話をして貰いたいと云うと、岡部も私の身の有様を気の毒に思うたか、私と一緒になって腹を立てゝ容易く私の云う事を請合い、「ソレは出来よう、何でも江戸に行け。僕の親仁は日本橋檜物町に開業して居るから、手紙を書いて遣ろうと云て、親仁名当の一封を呉れたから私は喜んで之を請取り、「ソコデ今この事が知れると大変だ、中津に帰らなければならぬようになるから、是ればかりは奥平にも山本にも一切誰にも云わずに、君一人で呑込んで居て外に洩らさぬようにして、僕は是れから下ノ関に出て船に乗て先ず大阪に行く、凡そ十日か十五日も掛れば着くだろう。その時を見計ろうて中村(諭吉、当時は中村の姓を冒す)は初めから中津に帰る気はなかった、江戸に行くと云て長崎を出たと、奥平にも話して呉れ。是れも聊か面当だと互に笑て、朋友と内々の打合せは出来た。
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