福翁自伝 / 大阪修業
兄の申すことには私も逆らうことが出来ず、大阪に足を止めまして、緒方先生の塾に入門したのは安政二年卯歳の三月でした。その前長崎に居る時には勿論蘭学の稽古をしたので、その稽古をした所は楢林と云う和蘭通詞の家、同じく楢林と云う医者の家、それから石川桜所と云う蘭法医師、この人は長崎に開業して居て立派な門戸を張て居る大家であるから、中々入門することは出来ない。ソコで其処の玄関に行て調合所の人などに習って居たので、爾う云うように彼方此方にちょい/\と教えて呉れるような人があれば其処へ行く。何処の何某に便り誰の門人になってミッチリ蘭書を読だと云うことはないので、ソコで大阪に来て緒方に入門したのは是れが本当に蘭学修業の始まり、始めて規則正しく書物を教えて貰いました。その時にも私は学業の進歩が随分速くて、塾中には大勢書生があるけれども、その中ではマア出来の宜い方であったと思う。
書き下し
兄の申すことには私も逆らうことが出来ず、大阪に足を止めまして、緒方先生の塾に入門したのは安政二年卯歳の三月でした。その前長崎に居る時には勿論蘭学の稽古をしたので、その稽古をした所は楢林と云う和蘭通詞の家、同じく楢林と云う医者の家、それから石川桜所と云う蘭法医師、この人は長崎に開業して居て立派な門戸を張て居る大家であるから、中々入門することは出来ない。ソコで其処の玄関に行て調合所の人などに習って居たので、爾う云うように彼方此方にちょい/\と教えて呉れるような人があれば其処へ行く。何処の何某に便り誰の門人になってミッチリ蘭書を読だと云うことはないので、ソコで大阪に来て緒方に入門したのは是れが本当に蘭学修業の始まり、始めて規則正しく書物を教えて貰いました。その時にも私は学業の進歩が随分速くて、塾中には大勢書生があるけれども、その中ではマア出来の宜い方であったと思う。
現代語訳
兄の言うことには私も逆らえず、大阪に足を止め、緒方先生の塾に入門したのは安政二年卯の年の三月でした。その前、長崎にいる時にももちろん蘭学の稽古はしており、稽古をした所は、楢林という和蘭通詞の家、同じく楢林という医者の家、それから石川桜所という蘭方医の家です。この人は長崎で開業して立派な門戸を張っている大家ですから、なかなか入門することはできません。そこで玄関に行って、調合所の人などに習っていたのです。そのようにあちこちでちょこちょこと教えてくれる人があれば、そこへ行きました。どこの誰それを頼り、誰の門人になってじっくり蘭書を読んだということはありません。ですから、大阪に来て緒方に入門したのが本当の蘭学修業の始まりで、初めて規則正しく書物を教えてもらいました。その時にも私は学業の進歩がかなり速く、塾中には大勢の書生がいますが、その中ではまあ出来のよいほうだったと思います。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・大阪修業・医家に砲術修業の願書その時に母が、「お前は何をするのか。そんなに毎晩夜を更かして碌に寝もしないじゃないか。何の事だ。風邪でも引くと宜くない。勉強にも程のあったものだと喧しく云う。「なあに、おッ母さん、大丈夫だ。私は写本をして居るのです。この位の事で私の身体は何ともなるものじゃない。御安心下さい。決して煩いはしませぬと云うたことがありましたが、ソレカラ愈よ大阪に出ようとすると、茲に可笑しい事がある。今度出るには藩に願書を出さなければならぬ。可笑しいとも何とも云いようがない。是れまで私は部屋住だから外に出るからと云て届も願も要らぬ、颯々と出入したが、今度は仮初にも一家の主人であるから願書を出さなければならぬ。夫れから私は兼て母との相談が済んで居るから、叔父にも叔母にも相談は要りはしない。出抜けに蘭学の修業に参りたいと願書を出すと、懇意なその筋の人が内々知らせて呉れるに、「それはイケない。蘭学修業と云うことは御家に先例のない事だと云う。「そんなら如何すれば宜いかと尋れば、「左様さ。砲術修業と書いたならば済むだろうと云う。「けれども緒方と云えば大阪の開業医師だ。お医者様の処に鉄砲を習いに行くと云うのは、世の中に余り例のない事のように思われる。是れこそ却て不都合な話ではござらぬか。「イヤ、それは何としても御例のない事は仕方がない。事実相違しても宜しいから、矢張り砲術修業でなければ済まぬと云うから、「エー宜しい。如何でも為ましょうと云て、ソレカラ私儀大阪表緒方洪庵の許に砲術修業に罷越したい云々と願書を出して聞済になって、大阪に出ることになった。大抵当時の世の中の塩梅式が分るであろう、と云うのは是れは必ずしも中津一藩に限らず、日本国中悉く漢学の世の中で、西洋流など云うことは仮初にも通用しない。俗に云う鼻掴みの世の中に、唯ペルリ渡来の一条が人心を動かして、砲術だけは西洋流儀にしなければならぬと、云わば一線の血路が開けて、ソコで砲術修業の願書で穏に事が済んだのです。
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福翁自伝・長崎遊学・大阪着大阪に着て久振で兄に逢うのみならず、屋敷の内外に幼ない時から私を知てる者が沢山ある。私は三歳の時に国に帰て二十二歳に再び行たのですから、私の生れた時に知てる者は沢山。私の面が何処か幼顔に肖て居ると云うその中には、私に乳を呑まして呉れた仲仕の内儀さんもあれば、又今度兄の供をして中津から来て居る武八と云う極質朴な田舎男は、先年も大阪の私の家に奉公して私のお守をした者で、私が大阪に着た翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目の処を通ると、男の云うに、お前の生れる時に我身夜中にこの横町の彼の産婆さんの処に迎いに行たことがある、その産婆さんは今も達者にし居る、それからお前が段々大きくなって、此身お前をだいて毎日々々湊の部屋(勧進元)に相撲の稽古を見に行た、その産婆さんの家は彼処じゃ湊の稽古場は此処の方じゃと、指をさして見せたときには、私も旧を懐うて胸一杯になって思わず涙をこぼしました。都て如斯な訳けで私はどうも旅とは思われぬ、真実故郷に帰た通りで誠に宜い心地。それから兄が私に如何して貴様は出し抜けに此処に来たのかという。兄の事であるから構わず斯う云う次第で参りましたと云たら、「乃公が居なければ宜いが、道の順序を云て見れば貴様は長崎から来るのに中津の方が順路だ。その中津を横に見ておッ母さんの処を避て来たではないか。それも乃公が此処に居なければ兎も角、乃公が此処で貴様に面会しながら之を手放して江戸に行けと云えば兄弟共謀だ。如何にも済まぬではないか。おッ母さんは夫程に思わぬだろうが、如何しても乃公が済まぬ。それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ、大阪で蘭学を学ぶが宜いと云うので、兄の処に居て先生を捜したら緒方と云う先生のある事を聞出した。
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福翁自伝・長崎遊学・師弟アベコベ私が始めて長崎に来て始めて横文字を習うと云うときに、薩州の医学生に松崎鼎甫と云う人がある。その時に藩主薩摩守は名高い西洋流の人物で、藩中の医者などに蘭学を引立て、松崎も蘭学修業を命ぜられて長崎に出て来て下宿屋に居るから、その人に頼んで教えて貰うが宜かろうと云うので行た所が、松崎が abc を書いて仮名を附けて呉れたのには先ず驚いた。是れが文字とは合点が行かぬ。二十何字を覚えて仕舞うにも余程手間が掛たが、学べば進むの道理で、次第々々に蘭語の綴も分るようになって来た。ソコデ松崎と云う先生の人相を見て応対の様子を察するに、決して絶倫の才子でない。依て私の心中窃に、「是れは高の知れた人物だ。今でも漢書を読で見ろ、自分の方が数等上流の先生だ。漢蘭等しく字を読み義を解することゝすれば、左までこの先生を恐るゝことはない。如何かしてアベコベにこの男に蘭書を教えて呉れたいものだと、生々の初学生が無鉄砲な野心を起したのは全く少年の血気に違いない。ソレはそれとしてその後私は大阪に行き、是れまで長崎で一年も勉強して居たから緒方でも上達が頗る速くて、両三年の間に同窓生八、九十人の上に頭角を現わした。所が人事の廻り合せは不思議なもので、その松崎と云う男が九州から出て来て緒方の塾に這入り、私はその時ズット上級で、下級生の会頭をして居るその会読に、松崎も出席することになって、三、四年の間に今昔の師弟アベコベ。私の無鉄砲な野心が本当な事になって、固より人には云われず、又云うべきことでないから黙て居たが、その時の愉快は堪らない。独り酒を飲で得意がって居ました。左れば軍人の功名手柄、政治家の立身出世、金持の財産蓄積なんぞ、孰れも熱心で、一寸と見ると俗なようで、深く考えると馬鹿なように見えるが、決して笑うことはない。ソンナ事を議論したり理窟を述べたりする学者も、矢張り同じことで、世間並に俗な馬鹿毛た野心があるから可笑しい。
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福翁自伝・緒方の塾風・原本写本会読の法それから塾で修行するその時の仕方は如何云う塩梅であったかと申すと、先ず始めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に如何して教えるかと云うと、その時江戸で飜刻になって居る和蘭の文典が二冊ある。一をガランマチカと云い、一をセインタキスと云う。初学の者には先ずそのガランマチカを教え、素読を授る傍に講釈をもして聞かせる。之を一冊読了るとセインタキスを又その通にして教える。如何やら斯うやら二冊の文典が解せるようになった所で会読をさせる。会読と云うことは生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に会頭が一人あって、その会読するのを聞て居て、出来不出来に依て白玉を附けたり黒玉を付けたりすると云う趣向で、ソコで文典二冊の素読も済めば講釈も済み会読も出来るようになると、夫れから以上は専ら自身自力の研究に任せることにして、会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、又質問を試みるような卑劣な者もない。緒方の塾の蔵書と云うものは物理書と医書とこの二種類の外に何もない。ソレモ取集めて僅か十部に足らず、固より和蘭から舶来の原書であるが、一種類唯一部に限ってあるから、文典以上の生徒になれば如何してもその原書を写さなくてはならぬ。銘々に写して、その写本を以て毎月六才位会読をするのであるが、之を写すに十人なら十人一緒に写す訳けに行かないから、誰が先に写すかと云うことは籤で定めるので、扨その写しようは如何すると云うに、その時には勿論洋紙と云うものはない、皆日本紙で、紙を能く磨て真書で写す。それはどうも埓が明かないから、その紙に礬水をして、夫れから筆は鵞筆で以て写すのが先ず一般の風であった。その鵞筆と云うのは如何云うものであるかと云うと、その時大阪の薬種屋か何かに、鶴か雁かは知らぬが、三寸ばかりに切た鳥の羽の軸を売る所が幾らもある。是れは鰹の釣道具にするものとやら聞て居た。価は至極安い物で、それを買て、磨澄ました小刀で以てその軸をペンのように削って使えば役に立つ。夫れから墨も西洋インキのあられよう訳けはない。日本の墨壺と云うのは、磨た墨汁を綿か毛氈の切布に浸して使うのであるが、私などが原書の写本に用うるのは、只墨を磨たまゝ墨壺の中に入れて今日のインキのようにして貯えて置きます。斯う云う次第で、塾中誰でも是非写さなければならぬから写本は中々上達して上手である。一例を挙ぐれば、一人の人が原書を読むその傍で、その読む声がちゃんと耳に這入て、颯々と写してスペルを誤ることがない。斯う云う塩梅に読むと写すと二人掛りで写したり、又一人で原書を見て写したりして、出来上れば原書を次の人に廻す。その人が写丁ると又その次の人が写すと云うように順番にして、一日の会読分は半紙にして三枚か或は四、五枚より多くはない。
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福翁自伝・緒方の塾風・大阪書生の特色只今申したような次第で、緒方の書生は学問上の事に就ては一寸とも怠ったことはない。その時の有様を申せば、江戸に居た書生が折節大阪に来て学ぶ者はあったけれども、大阪から態々江戸に学びに行くと云うものはない。行けば則ち教えると云う方であった。左れば大阪に限て日本国中粒選のエライ書生の居よう訳けはない。又江戸に限て日本国中の鈍い書生ばかり居よう訳けもない。然るに何故ソレが違うかと云うことに就ては考えなくてはならぬ。勿論その時には私なども大阪の書生がエライ/\と自慢をして居たけれども、夫れは人物の相違ではない。江戸と大阪と自から事情が違て居る。江戸の方では開国の初とは云いながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷と云う者があって、西洋の新技術を求むることが広く且つ急である。従て聊かでも洋書を解すことの出来る者を雇うとか、或は飜訳をさせればその返礼に金を与えるとか云うような事で、書生輩が自から生計の道に近い。極都合の宜い者になれば大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は何百石の侍になったと云うことも稀にはあった。夫れに引換て大阪は丸で町人の世界で、何も武家と云うものはない。従て砲術を遣ろうと云う者もなければ原書を取調べようと云う者もありはせぬ。夫れゆえ緒方の書生が幾年勉強して何程エライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。即ち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めると云うことにも思い寄らぬので、然らば何の為めに苦学するかと云えば一寸と説明はない。前途自分の身体は如何なるであろうかと考えた事もなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生と云えば世間に悪く云われるばかりで、既に已に焼けに成て居る。唯昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がって居るようなもので実に訳けの分らぬ身の有様とは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底を叩いて見れば、自から楽しみがある。之を一言すれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ない事だ、自分達の仲間に限て斯様事が出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すと云う気位で、唯六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽と云う境遇であったと思われる。喩えばこの薬は何に利くか知らぬけれども、自分達より外にこんな苦い薬を能く呑む者はなかろうと云う見識で、病の在る所も問わずに唯苦ければもっと呑で遣ると云う位の血気であったに違いはない。
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