福翁自伝 / 長崎遊学・長崎に居ること難し(1)
ソリャ斯う云う次第になって来た。その奥平壹岐と云う人に与兵衛と云う実父の隠居があって、私共は之を御隠居様と崇めて居た。ソコデ私の父は二十年前に死んで居るのですけれども、私の兄が成長の後に父のするような事をして、又大阪に行て勤番をして居て、中津には母一人で何もない。姉は皆嫁いて居て、身寄りの若い者の中には私の従兄の藤本元岱と云う医者が唯一人、能く事が分り書も能く読める学者であるが、そこで中津に在る彼の御隠居様が無法な事をしたと云うは、何れ長崎の倅壹岐の方から打合のあったものと見えて、その隠居が従兄の藤本を呼に来て、隠居の申すに、諭吉を呼還せ、アレが居ては倅壹岐の妨げになるから早々呼還せ、但しソレに就ては母が病気だと申遣わせと云う御直の厳命が下ったから、固より否むことは出来ず、唯畏りましたと答えて、母にもそのよしを話して、ソレカラ従兄が私に手紙を寄送して、母の病気に付き早々帰省致せと云う表向の手紙と、又別紙に、実は隠居から斯う/\云う次第、余儀なく手紙を出したが、決して母の身を案じるなと詳に事実を書いて呉れたから、私は之を見て実に腹が立った。
新字:ソリャ斯う云う次第になって来た。その奥平壱岐と云う人に与兵衛と云う実父の隠居があって、私共は之を御隠居様と崇めて居た。ソコデ私の父は二十年前に死んで居るのですけれども、私の兄が成長の後に父のするような事をして、又大阪に行て勤番をして居て、中津には母一人で何もない。姉は皆嫁いて居て、身寄りの若い者の中には私の従兄の藤本元岱と云う医者が唯一人、能く事が分り書も能く読める学者であるが、そこで中津に在る彼の御隠居様が無法な事をしたと云うは、何れ長崎の倅壱岐の方から打合のあったものと見えて、その隠居が従兄の藤本を呼に来て、隠居の申すに、諭吉を呼還せ、アレが居ては倅壱岐の妨げになるから早々呼還せ、但しソレに就ては母が病気だと申遣わせと云う御直の厳命が下ったから、固より否むことは出来ず、唯畏りましたと答えて、母にもそのよしを話して、ソレカラ従兄が私に手紙を寄送して、母の病気に付き早々帰省致せと云う表向の手紙と、又別紙に、実は隠居から斯う/\云う次第、余儀なく手紙を出したが、決して母の身を案じるなと詳に事実を書いて呉れたから、私は之を見て実に腹が立った。
書き下し
ソリャ斯う云う次第になって来た。その奥平壹岐と云う人に与兵衛と云う実父の隠居があって、私共は之を御隠居様と崇めて居た。ソコデ私の父は二十年前に死んで居るのですけれども、私の兄が成長の後に父のするような事をして、又大阪に行て勤番をして居て、中津には母一人で何もない。姉は皆嫁いて居て、身寄りの若い者の中には私の従兄の藤本元岱と云う医者が唯一人、能く事が分り書も能く読める学者であるが、そこで中津に在る彼の御隠居様が無法な事をしたと云うは、何れ長崎の倅壹岐の方から打合のあったものと見えて、その隠居が従兄の藤本を呼に来て、隠居の申すに、諭吉を呼還せ、アレが居ては倅壹岐の妨げになるから早々呼還せ、但しソレに就ては母が病気だと申遣わせと云う御直の厳命が下ったから、固より否むことは出来ず、唯畏りましたと答えて、母にもそのよしを話して、ソレカラ従兄が私に手紙を寄送して、母の病気に付き早々帰省致せと云う表向の手紙と、又別紙に、実は隠居から斯う/\云う次第、余儀なく手紙を出したが、決して母の身を案じるなと詳に事実を書いて呉れたから、私は之を見て実に腹が立った。
現代語訳
それがこういう次第になってきました。その奥平壹岐という人には、与兵衛という実の父の隠居がいて、私たちはこれを御隠居様と崇めていました。そこで私の父は二十年前に死んでいますけれども、私の兄が成長の後、父のしたようなことをして、また大阪に行って勤番をしていて、中津には母ひとりで何もない。姉はみな嫁いでいて、身寄りの若い者の中には、私の従兄の藤本元岱という医者がただ一人、よく物事がわかり書物もよく読める学者ですが、そこで中津にいるあの御隠居様が無法なことをしたというのは、どうやら長崎の息子壹岐のほうから打ち合わせがあったものと見えて、その隠居が従兄の藤本を呼びに来て、隠居の申すには、「諭吉を呼び戻せ、あれがいては息子壹岐の妨げになるから早々に呼び戻せ、ただしそれについては母が病気だと申し遣わせ」という直々の厳命が下ったので、もとより否むことはできず、ただ畏まりましたと答えて、母にもそのよしを話して、それから従兄が私に手紙を寄こして、母の病気につき早々に帰省せよという表向きの手紙と、また別紙に、実は隠居からこれこれこういう次第、やむを得ず手紙を出したが、決して母の身を案じるなと、詳しく事実を書いてくれたので、私はこれを見て、実に腹が立ちました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『講孟余話』告子下 第二章此の章、徐行疾行を以て孝弟を論じ、言行衣服を以て堯桀を分つ。言浅近なりと云へども、其の然る所以の故を求めば、性の本然道の全体具に茲に存するは勿論なり。然れども心を舎てて言行を論ずるは至論に非ず。若し此の論のみを信ぜば、巧言令色、足恭色荘の者を以て孝弟とし、堯舜とするの誤りあらん。又或は義外の説に陥り、道を以て偽となすに近からん。是れ亦思はざるべからず。故に註に「詳らかにするに曹交の間、浅陋麤率、必ず其の進見の時、礼貌衣冠言動の間、多く礼に循はず、故に孟子之に告ぐること此の両節の如し」と云ふとあり。然れども曹交の浅陋麤率専ら言語上に於て求むべからず。唯言語外に於て其の精神を想像すべし。然らずんば十尺九尺の言浅陋の如しと云へども、上篇第七章足口耳目の喩の如きも亦相類すと云ふべし。故に其の浅陋の所は十尺九尺に非ず、其の言語動作の間少しも精神なきのみ。又梁襄王を以て曹交に比し、其の優劣を臆度せんに、襄王は小才ありて絶えて実心なし。曹交は遅鈍の極みと云へども、却つて少しの実心あり。故に襄王は必ず事を誤る人なり。曹交に至りては却つて大誤なかるべし。千古の人を懸空に論ずるは無益なれども、亦致格の一端ならんか。
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『格言聯璧』處事類・天下に化すべからざるの人無し眞實の肝膽を以て人を待てば、事未だ必ずしも功を成さずと雖も、日後人必ず我の肝膽を見ん。 詐偽の心腸を以て事に處すれば、人即ひ一時惑ひを受くるも、日後人必ず我の心腸を見ん。 天下に化すべからざるの人無し、但だ誠心の未だ至らざるを恐る。 天下に爲すべからざるの事無し、只だ立志の堅からざるを怕る。
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史記 扁鵲倉公列伝時に未だ往かざるに、会々慶の子男殷来りて馬を献ず。師光に因りて馬を王の所に奏す。意故を以て殷と善きを得たり。光又意を殷に属して曰く、『意は数を好む。公必ず謹みて之を遇せよ。其の人は聖儒なり』と。即ち書を為りて意を以て陽慶に属す。故を以て慶を知る。臣意慶に事ふること謹む。故を以て意を愛するなり」と。臣意に問ひて曰く、「吏民嘗て事として意の方を学び、及び畢く尽く意の方を得たるもの有りや不や。何れの県里の人ぞ」と。対へて曰く、「臨菑の人宋邑。邑学ぶ。臣意教ふるに五診を以てすること、歳余。済北王太医高期・王禹を遣はして学ばしむ。臣意教ふるに経脈の高下及び奇絡の結、当に俞の居る所を論ずべきこと、及び気の当に上下出入すべき邪正逆順、以て鑱石に宜しきこと、砭灸の処を定むることを以てすること、歳余。菑川王時に太倉の馬長馮信を遣はして方を正さしむ。臣意教ふるに案法逆順、薬法を論じ、五味及び和斉湯法を定むることを以てす。高永侯の家丞杜信、脈を喜み、来り学ぶ。臣意教ふるに上下経脈五診を以てすること、二歳余。臨菑の召里の唐安来り学ぶ。臣意教ふるに五診上下経脈、奇咳、四時陰陽に応ずるの重を以てす。未だ成らずして、除せられて斉王の侍医と為る」と。臣意に問ふ、「病を診し死生を決するに、能く全く失無きか」と。臣意対へて曰く、「意病人を治するに、必ず先づ其の脈を切して、乃ち之を治す。敗逆なる者は治すべからず。其の順なる者は乃ち之を治す。心脈に精しからず、期する所の死生、治すべきを視るに、時時之を失す。臣意全くする能はざるなり」と。太史公曰く、女は美悪と無く、宮に居れば妒まる。士は賢不肖と無く、朝に入れば疑はる。故に扁鵲は其の伎を以て殃せられ、倉公乃ち跡を匿して自ら隠れて刑に当たる。緹縈尺牘を通じ、父以て後に寧きを得たり。故に老子曰く、「美好なる者は不祥の器なり」と。豈に扁鵲等を謂ふか。倉公の若き者は、之に近しと謂ふべし。手の三陽の脈は、手より頭に至るまで長さ五尺、五六合して三丈。
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人生を、一行の式にしてみた。
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