福翁自伝 / 大阪修業・兄弟中津に帰る
その中に丁度兄の年期と云うものがあって、二ヶ年居れば国に帰ると云う約束で、今年の夏が二年目になり、私も亦病後大阪に居て書物など読むことも出来ず、兎に角に帰国が宜かろうと云うので、兄弟一緒に船に乗て中津に帰ったのがその歳の五、六月頃と思う。所が私は病後ではあるが日々に恢復して、兄の僂麻質斯も全快には及ばないけれども別段に危険な病症でもない。夫れでは私は又大阪に参りましょうと云て出たのがその歳、即ち安政三年の八月。モウその時は病後とは云われませぬ、中々元気が能くて、大阪に着たその時に、私は中津屋敷の空長屋を借用して独居自炊、即ち土鍋で飯を焚て喰て、毎日朝から夕刻まで緒方の塾に通学して居ました。
書き下し
その中に丁度兄の年期と云うものがあって、二ヶ年居れば国に帰ると云う約束で、今年の夏が二年目になり、私も亦病後大阪に居て書物など読むことも出来ず、兎に角に帰国が宜かろうと云うので、兄弟一緒に船に乗て中津に帰ったのがその歳の五、六月頃と思う。所が私は病後ではあるが日々に恢復して、兄の僂麻質斯も全快には及ばないけれども別段に危険な病症でもない。夫れでは私は又大阪に参りましょうと云て出たのがその歳、即ち安政三年の八月。モウその時は病後とは云われませぬ、中々元気が能くて、大阪に着たその時に、私は中津屋敷の空長屋を借用して独居自炊、即ち土鍋で飯を焚て喰て、毎日朝から夕刻まで緒方の塾に通学して居ました。
現代語訳
そのうちに、ちょうど兄の年季というものがあって、二年勤めれば国に帰るという約束で、今年の夏が二年目になり、私もまた病後で大阪にいても書物など読むことができず、とにかく帰国がよかろうということで、兄弟一緒に船に乗って中津に帰ったのが、その年の五、六月頃と思います。ところが私は病後ではあるが日々に回復し、兄のリウマチも全快には至らないものの、特に危険な病状でもありません。それなら私はまた大阪に参りましょうと言って出たのが、その年、すなわち安政三年の八月です。もうその時は病後とは言えません。なかなか元気がよく、大阪に着いたその時、私は中津屋敷の空き長屋を借りて独り暮らし、自炊をし、つまり土鍋でご飯を炊いて食べ、毎日朝から夕刻まで緒方の塾に通って学んでいました。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・大阪修業・兄弟共に病気ソコで安政二年も終り三年の春になると、新春早々茲に大なる不仕合な事が起って来たと申すは、大阪の倉屋敷に勤番中の兄が僂麻質斯に罹り病症が甚だ軽くない。トウ/\手足も叶わぬと云う程になって、追々全快するが如く全快せざるが如くして居る間に、右の手は使うことが出来ずに左の手に筆を持て書くと云うような容体。ソレと同時にその歳の二月頃であったが、緒方の塾の同窓、私の先輩で、予て世話になって居た加州の岸直輔と云う人が、腸窒扶斯に罹って中々の難症。ソコデ私は平生の恩人だから、コンナ時に看病しなければならぬ。又加州の書生に鈴木儀六と云う者があって、是れも岸と同国の縁で、私と鈴木と両人、昼夜看病して、凡そ三週間も手を尽したけれども、如何しても悪症でとう/\助からぬ。一体この人は加賀人で宗旨は真宗だから、火葬にしてその遺骨を親元に送て遣ろうと両人相談の上、遺骸を大阪の千日の火葬場に持て行て焼て、骨を本国に送り、先ず事は済んだ所が、私が千日から帰て三、四日経つとヒョイと煩い付た。容体がドウも只の風邪でない。熱があり気分が甚だ悪い。ソコデ私の同窓生は皆医者だから、誰かに見て貰た所が、是れは腸窒扶斯だ、岸の熱病が伝染したのだと云て居る間に、その事が先生に聞えて、その時私は堂嶋の倉屋敷の長屋に寝て居た所が、先生が見舞に見えまして、愈よ腸窒扶斯に違いない、本当に療治しなければ是れは馬鹿にならぬ病気であると云う。
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福翁自伝・長崎遊学・大阪着大阪に着て久振で兄に逢うのみならず、屋敷の内外に幼ない時から私を知てる者が沢山ある。私は三歳の時に国に帰て二十二歳に再び行たのですから、私の生れた時に知てる者は沢山。私の面が何処か幼顔に肖て居ると云うその中には、私に乳を呑まして呉れた仲仕の内儀さんもあれば、又今度兄の供をして中津から来て居る武八と云う極質朴な田舎男は、先年も大阪の私の家に奉公して私のお守をした者で、私が大阪に着た翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目の処を通ると、男の云うに、お前の生れる時に我身夜中にこの横町の彼の産婆さんの処に迎いに行たことがある、その産婆さんは今も達者にし居る、それからお前が段々大きくなって、此身お前をだいて毎日々々湊の部屋(勧進元)に相撲の稽古を見に行た、その産婆さんの家は彼処じゃ湊の稽古場は此処の方じゃと、指をさして見せたときには、私も旧を懐うて胸一杯になって思わず涙をこぼしました。都て如斯な訳けで私はどうも旅とは思われぬ、真実故郷に帰た通りで誠に宜い心地。それから兄が私に如何して貴様は出し抜けに此処に来たのかという。兄の事であるから構わず斯う云う次第で参りましたと云たら、「乃公が居なければ宜いが、道の順序を云て見れば貴様は長崎から来るのに中津の方が順路だ。その中津を横に見ておッ母さんの処を避て来たではないか。それも乃公が此処に居なければ兎も角、乃公が此処で貴様に面会しながら之を手放して江戸に行けと云えば兄弟共謀だ。如何にも済まぬではないか。おッ母さんは夫程に思わぬだろうが、如何しても乃公が済まぬ。それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ、大阪で蘭学を学ぶが宜いと云うので、兄の処に居て先生を捜したら緒方と云う先生のある事を聞出した。
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福翁自伝・大阪修業・家兄の不幸再遊困難所が又不幸な話で、九月の十日頃であったと思う。国から手紙が来て、九月三日に兄が病死したから即刻帰て来いと云う急報。どうも驚いたけれども仕方がない。取るものも取り敢えずスグ船に乗て、この度は誠に順風で、速に中津の港に着て、家に帰て見ればモウ葬式は勿論、何も斯も片が付て仕舞た後の事で、ソレカラ私は叔父の処の養子になって居た、所が自分の本家、即ち里の主人が死亡して、娘が一人あれども女の子では家督相続は出来ない、是れは弟が相続する、当然の順序だと云うので、親類相談の上、私は知らぬ間にチャント福澤の主人になって居て、当人の帰国を待て相談なんと云うことはありはしない。貴様は福澤の主人になったと知らせて呉れる位の事だ。扨てその跡を襲だ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服を勤めねばならぬ。夫れから家督相続と云えば其れ相応の勤がなくてはならぬ、藩中小士族相応の勤を命ぜられて居る、けれども私の心と云うものは天外万里、何もかも浮足になって一寸とも落付かぬ。何としても中津に居ようなど云うことは思いも寄らぬ事であるけれども、藩の正式に依ればチャント勤をしなければならぬから、その命を拒むことは出来ない。唯言行を謹み、何と云われてもハイ/\と答えて勤めて居ました。自分の内心には如何しても再遊と決して居るけれども、周囲の有様と云うものは中々寄付かれもしない。藩中一般の説は姑く差措き、近い親類の者までも西洋は大嫌で、何事も話し出すことが出来ない。ソコデ私に叔父があるから、其処に行て何か話をして、序ながら夫れとなく再遊の事を少しばかり言掛けて見ると、夫れは/\恐ろしい剣幕で頭から叱られた。「怪からぬ事を申すではないか。兄の不幸で貴様が家督相続した上は、御奉公大事に勤をする筈のものだ。ソレに和蘭の学問とは何たる心得違いか、呆返った話だとか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私を冷かして、貴様のような奴は負角力の瘠錣と云うものじゃと苦々しく睨み付けたのは、身の程知らずと云う意味でしょう。迚も叔父さんに賛成して貰おうと云うことは出来そうにもしないが、私が心に思って居れば自から口の端にも出る。出れば狭い所だから直ぐ分る。近処辺りに何処となく評判する。平生私の処に能く来るお婆さんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重さんと云う人。今でも其の人の面を覚えて居る。つい向うのお婆さんで、或るとき私方に来て、「何か聞けば諭吉さんは又大阪に行くと云う話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんな事はさせなさらんじゃろう、再び出すなんと云うのはお前さんは気が違うて居はせぬかと云うような、世間一般先ずソンナ風で、その時の私の身の上を申せば寄辺汀の捨小舟、まるで唄の文句のようだ。
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福翁自伝・大阪を去て江戸に行く・三人同行大阪から江戸に来るに就ては、何は扨置き中津に帰て一度母に逢うて別を告げて来ましょうと云うので、中津に帰たその時は虎列拉の真盛りで、私の家の近処まで病人だらけ、バタ/″\死にました。その流行病最中、船に乗て大阪に着て暫時逗留、ソレカラ江戸に向て出立と云うことにした所が、凡そ藩の公用で勤番するに、私などの身分なれば道中並に在勤中家来を一人呉れるのが定例で、今度も私の江戸勤番に付て家来一人振の金を渡して呉れた。けれども家来なんぞと云うことは思いも寄らぬ事で何も要らぬ。けれども茲に旅費がある。待て/\、塾中に誰か江戸に行きたいと云う者はないか、江戸に行きたければ連れて行くが如何だ、実は斯う云う訳けで金はあるぞと云うと、即席にどうぞ連れて行て呉れと云たが岡本周吉、即ち古川節蔵である(広島の人)。よし連れて行て遣ろう。連れて行くが、君は飯を炊かなければならぬが宜しいか。江戸へ行けば米もあれば長屋もある。鍋釜も貸して呉れるが、本当の家来を止めにすれば飯炊がない。その代に連れて行くのだが如何だ。「飯を炊く位の事は何でもない、飯を炊こう。「それじゃ一緒に来いと云て、夫れから私の荷物は同藩の人に頼んで、道連は私と岡本、もう一人備中の者で原田磊蔵と云う矢張り緒方の塾生、都合三人の道中で、勿論歩く。その時は丁度十月下旬で少々寒かったが小春の時節、一日も川止など云う災難に遇わず滞おりなく江戸に着て、先ず木挽町汐留の奥平屋敷に行た所が、鉄砲洲に中屋敷がある、其処の長屋を貸すと云うので、早速岡本と私とその長屋に住込で、両人自炊の世帯持になった、夫れから同行の原田は下谷練塀小路の大医大槻俊斎先生の処へ入込だ。江戸へ参れば知己朋友は幾人も居て、段々面白くなって来た。
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福翁自伝・幼少の時・兄弟五人中津の風に合わず扨中津に帰てから私の覚えて居ることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一所に混和することが出来ない、その出来ないと云うのは深い由縁も何もないが、従兄弟が沢山ある、父方の従兄弟もあれば母方の従兄弟もある。マア何十人と云う従兄弟がある。又近所の小供も幾許もある、あるけれどもその者等とゴチャクチャになることは出来ぬ。第一言葉が可笑しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と云う所を、私共は「そうでおます」なんと云うような訳けで、お互に可笑しいから先ず話が少ない。夫れから又母は素と中津生れであるが、長く大阪に居たから大阪の風に慣れて、小供の髪の塩梅式、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外にない。有合の着物を着せるから自然中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うと云う外には何も原因はないが、子供の事だから何だか人中に出るのを気恥かしいように思て、自然、内に引込んで兄弟同士遊んで居ると云うような風でした。
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福翁自伝・大阪修業兄の申すことには私も逆らうことが出来ず、大阪に足を止めまして、緒方先生の塾に入門したのは安政二年卯歳の三月でした。その前長崎に居る時には勿論蘭学の稽古をしたので、その稽古をした所は楢林と云う和蘭通詞の家、同じく楢林と云う医者の家、それから石川桜所と云う蘭法医師、この人は長崎に開業して居て立派な門戸を張て居る大家であるから、中々入門することは出来ない。ソコで其処の玄関に行て調合所の人などに習って居たので、爾う云うように彼方此方にちょい/\と教えて呉れるような人があれば其処へ行く。何処の何某に便り誰の門人になってミッチリ蘭書を読だと云うことはないので、ソコで大阪に来て緒方に入門したのは是れが本当に蘭学修業の始まり、始めて規則正しく書物を教えて貰いました。その時にも私は学業の進歩が随分速くて、塾中には大勢書生があるけれども、その中ではマア出来の宜い方であったと思う。
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