福翁自伝 / 大阪修業・家兄の不幸再遊困難
所が又不幸な話で、九月の十日頃であったと思う。国から手紙が来て、九月三日に兄が病死したから即刻帰て来いと云う急報。どうも驚いたけれども仕方がない。取るものも取り敢えずスグ船に乗て、この度は誠に順風で、速に中津の港に着て、家に帰て見ればモウ葬式は勿論、何も斯も片が付て仕舞た後の事で、ソレカラ私は叔父の処の養子になって居た、所が自分の本家、即ち里の主人が死亡して、娘が一人あれども女の子では家督相続は出来ない、是れは弟が相続する、当然の順序だと云うので、親類相談の上、私は知らぬ間にチャント福澤の主人になって居て、当人の帰国を待て相談なんと云うことはありはしない。貴様は福澤の主人になったと知らせて呉れる位の事だ。扨てその跡を襲だ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服を勤めねばならぬ。夫れから家督相続と云えば其れ相応の勤がなくてはならぬ、藩中小士族相応の勤を命ぜられて居る、けれども私の心と云うものは天外万里、何もかも浮足になって一寸とも落付かぬ。何としても中津に居ようなど云うことは思いも寄らぬ事であるけれども、藩の正式に依ればチャント勤をしなければならぬから、その命を拒むことは出来ない。唯言行を謹み、何と云われてもハイ/\と答えて勤めて居ました。自分の内心には如何しても再遊と決して居るけれども、周囲の有様と云うものは中々寄付かれもしない。藩中一般の説は姑く差措き、近い親類の者までも西洋は大嫌で、何事も話し出すことが出来ない。ソコデ私に叔父があるから、其処に行て何か話をして、序ながら夫れとなく再遊の事を少しばかり言掛けて見ると、夫れは/\恐ろしい剣幕で頭から叱られた。「怪からぬ事を申すではないか。兄の不幸で貴様が家督相続した上は、御奉公大事に勤をする筈のものだ。ソレに和蘭の学問とは何たる心得違いか、呆返った話だとか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私を冷かして、貴様のような奴は負角力の瘠錣と云うものじゃと苦々しく睨み付けたのは、身の程知らずと云う意味でしょう。迚も叔父さんに賛成して貰おうと云うことは出来そうにもしないが、私が心に思って居れば自から口の端にも出る。出れば狭い所だから直ぐ分る。近処辺りに何処となく評判する。平生私の処に能く来るお婆さんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重さんと云う人。今でも其の人の面を覚えて居る。つい向うのお婆さんで、或るとき私方に来て、「何か聞けば諭吉さんは又大阪に行くと云う話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんな事はさせなさらんじゃろう、再び出すなんと云うのはお前さんは気が違うて居はせぬかと云うような、世間一般先ずソンナ風で、その時の私の身の上を申せば寄辺汀の捨小舟、まるで唄の文句のようだ。
新字:所が又不幸な話で、九月の十日頃であったと思う。国から手紙が来て、九月三日に兄が病死したから即刻帰て来いと云う急報。どうも驚いたけれども仕方がない。取るものも取り敢えずスグ船に乗て、この度は誠に順風で、速に中津の港に着て、家に帰て見ればモウ葬式は勿論、何も斯も片が付て仕舞た後の事で、ソレカラ私は叔父の処の養子になって居た、所が自分の本家、即ち里の主人が死亡して、娘が一人あれども女の子では家督相続は出来ない、是れは弟が相続する、当然の順序だと云うので、親類相談の上、私は知らぬ間にチャント福沢の主人になって居て、当人の帰国を待て相談なんと云うことはありはしない。貴様は福沢の主人になったと知らせて呉れる位の事だ。扨てその跡を襲だ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服を勤めねばならぬ。夫れから家督相続と云えば其れ相応の勤がなくてはならぬ、藩中小士族相応の勤を命ぜられて居る、けれども私の心と云うものは天外万里、何もかも浮足になって一寸とも落付かぬ。何としても中津に居ようなど云うことは思いも寄らぬ事であるけれども、藩の正式に依ればチャント勤をしなければならぬから、その命を拒むことは出来ない。唯言行を謹み、何と云われてもハイ/\と答えて勤めて居ました。自分の内心には如何しても再遊と決して居るけれども、周囲の有様と云うものは中々寄付かれもしない。藩中一般の説は姑く差措き、近い親類の者までも西洋は大嫌で、何事も話し出すことが出来ない。ソコデ私に叔父があるから、其処に行て何か話をして、序ながら夫れとなく再遊の事を少しばかり言掛けて見ると、夫れは/\恐ろしい剣幕で頭から叱られた。「怪からぬ事を申すではないか。兄の不幸で貴様が家督相続した上は、御奉公大事に勤をする筈のものだ。ソレに和蘭の学問とは何たる心得違いか、呆返った話だとか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私を冷かして、貴様のような奴は負角力の瘠錣と云うものじゃと苦々しく睨み付けたのは、身の程知らずと云う意味でしょう。迚も叔父さんに賛成して貰おうと云うことは出来そうにもしないが、私が心に思って居れば自から口の端にも出る。出れば狭い所だから直ぐ分る。近処辺りに何処となく評判する。平生私の処に能く来るお婆さんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重さんと云う人。今でも其の人の面を覚えて居る。つい向うのお婆さんで、或るとき私方に来て、「何か聞けば諭吉さんは又大阪に行くと云う話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんな事はさせなさらんじゃろう、再び出すなんと云うのはお前さんは気が違うて居はせぬかと云うような、世間一般先ずソンナ風で、その時の私の身の上を申せば寄辺汀の捨小舟、まるで唄の文句のようだ。
書き下し
所が又不幸な話で、九月の十日頃であったと思う。国から手紙が来て、九月三日に兄が病死したから即刻帰て来いと云う急報。どうも驚いたけれども仕方がない。取るものも取り敢えずスグ船に乗て、この度は誠に順風で、速に中津の港に着て、家に帰て見ればモウ葬式は勿論、何も斯も片が付て仕舞た後の事で、ソレカラ私は叔父の処の養子になって居た、所が自分の本家、即ち里の主人が死亡して、娘が一人あれども女の子では家督相続は出来ない、是れは弟が相続する、当然の順序だと云うので、親類相談の上、私は知らぬ間にチャント福澤の主人になって居て、当人の帰国を待て相談なんと云うことはありはしない。貴様は福澤の主人になったと知らせて呉れる位の事だ。扨てその跡を襲だ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服を勤めねばならぬ。夫れから家督相続と云えば其れ相応の勤がなくてはならぬ、藩中小士族相応の勤を命ぜられて居る、けれども私の心と云うものは天外万里、何もかも浮足になって一寸とも落付かぬ。何としても中津に居ようなど云うことは思いも寄らぬ事であるけれども、藩の正式に依ればチャント勤をしなければならぬから、その命を拒むことは出来ない。唯言行を謹み、何と云われてもハイ/\と答えて勤めて居ました。自分の内心には如何しても再遊と決して居るけれども、周囲の有様と云うものは中々寄付かれもしない。藩中一般の説は姑く差措き、近い親類の者までも西洋は大嫌で、何事も話し出すことが出来ない。ソコデ私に叔父があるから、其処に行て何か話をして、序ながら夫れとなく再遊の事を少しばかり言掛けて見ると、夫れは/\恐ろしい剣幕で頭から叱られた。「怪からぬ事を申すではないか。兄の不幸で貴様が家督相続した上は、御奉公大事に勤をする筈のものだ。ソレに和蘭の学問とは何たる心得違いか、呆返った話だとか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私を冷かして、貴様のような奴は負角力の瘠錣と云うものじゃと苦々しく睨み付けたのは、身の程知らずと云う意味でしょう。迚も叔父さんに賛成して貰おうと云うことは出来そうにもしないが、私が心に思って居れば自から口の端にも出る。出れば狭い所だから直ぐ分る。近処辺りに何処となく評判する。平生私の処に能く来るお婆さんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重さんと云う人。今でも其の人の面を覚えて居る。つい向うのお婆さんで、或るとき私方に来て、「何か聞けば諭吉さんは又大阪に行くと云う話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんな事はさせなさらんじゃろう、再び出すなんと云うのはお前さんは気が違うて居はせぬかと云うような、世間一般先ずソンナ風で、その時の私の身の上を申せば寄辺汀の捨小舟、まるで唄の文句のようだ。
現代語訳
ところがまた不幸な話で、九月十日頃だったと思います。国から手紙が来て、九月三日に兄が病死したから、すぐに帰って来いという急報です。たいへん驚きましたがどうしようもありません。取るものも取りあえずすぐに船に乗り、今度はたいへん順風で、速やかに中津の港に着き、家に帰ってみると、もう葬式はもちろん、何もかも片付いてしまった後のことでした。 それから私は叔父の養子になっていましたが、自分の本家、つまり里の主人が亡くなり、娘が一人いるものの女の子では家督相続ができません。これは弟が相続するのが当然の順序だということで、親類が相談の上、私は知らぬ間にちゃんと福沢の主人になっていました。当人の帰国を待って相談するなどということはありません。お前は福沢の主人になったと知らせてくれる程度のことです。さてその跡を継いだ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服を務めなければなりません。それから家督相続といえば、それ相応の勤めがなくてはならず、藩中の小士族相応の勤めを命じられました。けれども私の心は天外万里、何もかも浮足立って少しも落ち着きません。何としても中津にいようなどということは思いも寄らないのですが、藩の正式な定めではきちんと勤めなければならないので、その命を拒むことはできません。ただ言行を慎み、何と言われてもハイハイと答えて務めていました。自分の内心にはどうしても再び遊学すると決めていますが、周囲の様子はなかなか近寄れるものではありません。藩中一般の説はしばらく置いても、近い親類の者までも西洋は大嫌いで、何事も話し出すことができません。 そこで私には叔父がいるので、そこへ行って何か話をし、ついでにそれとなく再遊のことを少しばかり言いかけてみると、それはそれは恐ろしい剣幕で頭ごなしに叱られました。「けしからぬことを言うではないか。兄の不幸でお前が家督を相続した上は、ご奉公を大事に勤めるはずのものだ。それにオランダの学問とは何たる心得違いか、あきれた話だ」とか何とか叱られた、その言葉の中で、叔父が私をからかって、お前のような奴は負け相撲の痩せ錣というものだと苦々しく睨みつけたのは、身の程知らずという意味でしょう。とても叔父さんに賛成してもらうことはできそうにありませんが、私が心に思っていれば自然と口の端にも出ます。出れば狭い所ですからすぐに分かる。近所あたりにどこからともなく評判が立ちます。普段私の家によく来るお婆さんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重さんという人です。今でもその人の顔を覚えています。すぐ向かいのお婆さんで、ある時私の家に来て、「何か聞けば諭吉さんはまた大阪へ行くという話じゃが、まさかお順さん(私の母)、そんなことはさせなさらんじゃろう。再び出すなどというのは、お前さんは気が違うていはせぬか」と言いました。世間一般まずそんな風で、その時の私の身の上を言えば、寄る辺なぎさの捨て小舟、まるで唄の文句のようでした。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『学問のすゝめ』十六編・心事と働きと相当すべきの論・みだりに人を軽蔑する者はまた心事高尚にして働きに乏しき者は、人に厭われて孤立することあり。己が働きと他人の働きとを比較すればもとより及ぶべきにあらざれども、己が心事をもって他の働きを見れば、これに満足すべからずして、おのずから私に軽蔑の念なきを得ず。みだりに人を軽蔑する者は、必ずまた人の軽蔑を免るべからず。互いに相不平をいだき、互いに相蔑視して、ついには変人奇物の嘲りを取り、世間に歯すべからざるに至るものなり。今日世の有様を見るにあるいは傲慢不遜にして人に厭わるる者あり、あるいは人に勝つことを欲して人に厭わるる者あり、あるいは人に多を求めて人に厭わるる者あり、あるいは人を誹謗して人に厭わるる者あり。いずれもみな人に対して比較するところを失い、己が高尚なる心事をもって標的となし、これに照らすに他の働きをもってして、その際に恍惚たる想像を造り、もって人に厭わるるの端を開き、ついにみずから人を避けて独歩孤立の苦界に陥る者なり。
-
『呻吟語』内篇・問學・根腳站立し住まらず道學の行はれざるは、只だ自家の根腳站立し住まらざるが為なり。或いは倡へて和せざれば、則ち勢孤なり。或いは守りて眾撓せば、則ち志惑ふ。或いは為して成らざれば、則ち氣沮む。或いは風俗に奪はるれば、則ち念雜なり。挺身自ら拔かんと要せば、須らく是れ萬夫も當たる莫きの勇、死して後已むの心有るべし。然らずんば、終日三五聚談し、唇を焦がし舌を敝らすも、甚の事をか成し得ん。
-
史記 項羽本紀美人有り名は虞、常に幸せられて従ふ。駿馬名は騅、常に之に騎る。是に於て項王乃ち悲歌忼慨し、自ら詩を為りて曰く、「力は山を抜き気は世を蓋ふ、時利あらず騅逝かず。騅の逝かざる可奈何(いかん)すべき、虞や虞や若を奈何せん。」と。歌ふこと数闋、美人之に和す。項王泣数行下る、左右皆泣き、能く仰ぎ視る莫し。是に於て項王乃ち馬に上りて騎す、麾下の壮士騎して従ふ者八百余人、直ちに夜囲みを潰して南に出で、馳走す。平明、漢の軍乃ち之を覚り、騎将灌嬰をして五千騎を以て之を追はしむ。項王淮を渡る、騎の能く属する者百余人のみ。項王陰陵に至り、迷ひて道を失ひ、一田父に問ふ、田父紿(あざむ)きて曰く「左」と。左すれば、乃ち大沢の中に陥る。故を以て漢之に追ひ及ぶ。項王乃ち復た兵を引きて東し、東城に至る、乃ち二十八騎有り。漢の騎の追ふ者数千人。
-
易経・蒙卦用て人を刑するに利ろしとは、以て法を正すなり。子家を克くすとは、剛柔接わるなり。用て女を取る勿かれとは、行い順ならざるなり。蒙に困しむの吝は、独り実に遠ざかればなり。童蒙の吉は、順にして以て巽なればなり。寇を禦ぐに利ろしとは、上下順なるなり。
-
易経・豐卦旬しと雖も咎无しとは、旬を過ぐれば災あるなり。孚有りて発若たりとは、信以て志を発するなり。其の沛を豊いにすとは、大事に可ならざるなり。其の右の肱を折るとは、終に用ゐるべからざるなり。其の蔀を豊いにすとは、位当らざればなり。日中に斗を見るとは、幽にして明らかならざるなり。其の夷主に遇ふ、吉とは、行くなり。六五の吉は、慶び有るなり。其の屋を豊いにすとは、天際に翔るなり。其の戸を窺へば、闃として其れ人无しとは、自ら蔵(かく)るるなり。
-
史記 田敬仲完世家十四年、秦我が剛寿を撃つ。十九年、襄王卒し、子建立つ。王建立ちて六年、秦趙を攻む。斉・楚之を救ふ。秦計りて曰く、「斉・楚趙を救ふ。親しまば則ち兵を退け、親しまずんば遂に之を攻めん」と。趙食無く、粟を斉に請ふ。斉聴かず。周子曰く、「之を聴きて以て秦の兵を退くるに如かず。聴かずんば則ち秦の兵卻かず。是れ秦の計中りて斉・楚の計過つなり。且つ趙の斉・楚に於けるや、捍蔽なり。猶ほ歯の脣有るがごとし。脣亡ぶれば則ち歯寒し。今日趙を亡ぼさば、明日患ひ斉・楚に及ばん。且つ趙を救ふの務めは、宜しく漏甕を奉じて焦釜に沃ぐが若くすべし。夫れ趙を救ふは、高義なり。秦の兵を卻くるは、顕名なり。義もて亡国を救ひ、威もて彊秦の兵を卻く。此を為すを務めずして粟を愛しむを務むるは、国の為に計る者過てり」と。斉王聴かず。秦趙を長平に破ること四十余万、遂に邯鄲を囲む。十六年、秦周を滅ぼす。君王后卒す。二十三年、秦東郡を置く。二十八年、王入りて秦に朝す。秦王政酒を咸陽に置く。三十五年、秦韓を滅ぼす。三十七年、秦趙を滅ぼす。三十八年、燕荊軻をして秦王を刺さしむ。秦王覚り、軻を殺す。明年、秦燕を破る。燕王亡げて遼東に走る。明年、秦魏を滅ぼす。秦の兵歴下に次る。四十二年、秦楚を滅ぼす。明年、代王嘉を虜にし、燕王喜を滅ぼす。四十四年、秦の兵斉を撃つ。斉王相后勝の計を聴き、戦はずして、兵を以て秦に降る。秦王建を虜にし、之を共に遷す。遂に斉を滅ぼして郡と為す。天下壱に秦に并せられ、秦王政号を立てて皇帝と為る。始め、君王后賢にして、秦に事ふること謹み、諸侯と信あり。斉も亦東のかた海上に辺す。秦日夜三晋・燕・楚を攻め、五国各々自ら秦より救ふ。故を以て王建立ちて四十余年兵を受けず。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る